三
夜明けはじわりじわりと、正太郎をなぶるようにやってきた。
夜明けが来るまでの数刻、度々首が傾ぎそうになったのだが、その都度「兄上」と声が聞こえるものだから、うとうとすることもできなかった。
もちろん幻聴であったのだけれども、そんなものが聞こえてきたのは、容之進の部屋にずっといたからだろうか。
和泉も和泉で欠伸を噛み殺し、時折ため息をついていた。
何度も「帰って寝ろ」と促したものの、彼は「やだね」の一点張りで、この部屋から出ていこうとはしなかった。
兄妹揃って頑固が過ぎる。
二人が眠れなかったのだから、隣室にいた千鶴と利吉は一体どうだったのだろう。
正太郎は夜中じゅう付けっぱなしだった行灯の火を消した。
それでも、部屋の中は薄明るい。
雨はいつ止んだのか、屋敷は静かだった。
代わりにチュンチュンと、雀の鳴き声が聞こえてくる。
もうすぐおさとが起き出してくる時刻だった。
その前に、なんとかして千鶴を説得したい。
そして、目の前の悪友も。
「なあ」
正太郎は掠れた声を出した。
和泉の目が上がる。
微かな疲労の色が、まなじりに浮かんでいた。
「帰らなくていいのか?」
和泉は目をこすり、ふんと笑った。
「いいのさ」
単純明快な答えに反応する気力を、正太郎は持っていない。
ゆえに、再び黙り込むしかなかった。
とその時、庭から低い声が聞こえてきた。
その声は、旦那、と正太郎を呼んでいる。
甘い声に、目を見開いた。
反対に、和泉の目はさらに細くなる。
正太郎は立ち上がり、庭に面した障子をそっと開けた。
「ああ、旦那。そっちにいたのかい」
朝から妖艶な笑み。
タカはさして驚く風でもなく、正太郎を見返した。
昨日の雨のせいか庭にはもやがかかっており、タカの黒髪と黒い着物だけが、風景から浮き出ている。
「おめえ…なんでいる」
「お迎えに上がりやした」
おどけて腰を折るタカ。
正太郎は眉をひそめるだけだ。
「こちとらよっぴいて客の相手してた…いや、相手してて、疲れてんだ。妙な冗談はやめな」
「冗談じゃねえよ。野村の所に行かにゃなるめえからな」
なんでお前がそれを、とうんざりしながら言おうとした時、隣室の障子も開いた。
目を充血させた千鶴が出てくる。
それを見たタカの目が、すっと細められた。
正太郎は言葉を飲み込む。
こいつら、血が繋がってんだよな。
「なぜあなたが知っているのです」
千鶴は、まったくの他人としてタカにそれを尋ねる。
なぜか、正太郎の胸がちくりと痛んだ。
「これはこれは」
当の本人は、知らぬ存ぜぬとばかりに会釈する。
正太郎の後ろで、和泉がじりりと動いた。
「それは言えやせんよ。あんたが言えねえように」
千鶴の眉がぴくりと跳ねた。
しかし反応はそれだけで、あとは押し黙っている。
タカは再び正太郎に向き直った。
笑みは消えていない。
「旦那、支度は?」
「…俺ぁ、行かねえ」
「行かないだって?」
わざとらしく、タカはのけぞる。
正太郎はそっぽを向いた。
「旦那、まさかそれですましちまうつもりかい?いやだねえ、旦那は責任ってえ言葉を知らねえみてえだ」
「うるせえな、さっさと消えやがれ」
「それがそうもいかねえ。こっちも仕事なんだよ」
「はあ?」
ようやく、彼の笑みはするすると引いていく。
「事件を解決した。下手人を上げた。それではい終わりってわけにはいかねえよ。自分が捕らえたやつは、最後まで見届けてやる。それが、おめえさんの仕事だろうよ」
「てめえは間違ってる。罰を与えるのは、俺らの仕事じゃねえ」
土方たちにも言ったはずだ。
仇討ちなんてことは考えるな、と。
すると、タカは小さくため息をついた。
「いつもならそれが正しいだろうさ。けど、今回は異例だぜ。下手人が、自分で自分を裁こうってんだ。やつを捕らえたてめえが行かねえで、誰が行くよ。俺か?後ろにいる杉浦の旦那かい?利吉親分かい?」
「よくしゃべる口だな。おめえ、いつからそんなおしゃべりになった」
正太郎は苦々しげにそう言って、そっぽを向いた。
「旦那」と、再び呼ばれる。
決して強い口調ではないのに、タカは正太郎を押し黙らせるだけの気迫を放った。
「旦那、乗り掛かった船から降りようったって、そうは問屋がおろさねえよ。大体、乗っちまった船から降りたらどうなるか考えてみな。一歩踏み出した途端、水の中にどぼん、だぜ。溺れ死ぬのが関の山ってんだ」
「…だが、岸についた途端、虎に喉をがぶりとやられちまったら、元も子もねえぜ」
ははっ、とタカが笑った。
おいおい、と呆れたような表情を浮かべる。
「行き先を知らねえで漕ぎ出すやつがいるかい?まさか、わざわざ虎がいるような場所を選ぶやつもいるめえ」
それに、と彼は続ける。
「たとえがぶりとやられちまったとしても、水の中でじわじわ苦しみながら死ぬよりましだろうよ。一瞬で逝ける」
正太郎は彼を凝視した。
いつの間にか、笑みが戻ってきている。
ふと、肩に何か暖かなものが乗った。
振り向いてみれば、和泉がその手を正太郎の肩に置いていた。
彼は微笑むわけでもなく、ただ押し出すように肩の上の手に力を入れる。
行ってこい。
和泉はそう言っていた。
「何してんだ、行くぜ」
タカがカランと下駄を鳴らす。
それでも、正太郎は動けなかった。
――できるのか?
己に問いかける。
答えは昨夜のように、するりと出てきてはくれなかった。
ふと、庭の人影が二つに増える。
「正太郎」
千鶴がこちらを睨み付けた。
もやの中で、彼女の目は底光りしている。
「早く」
目を瞑った。
そうすると、逃れられないと分かった。
ようやく、だ。
正太郎は薄闇の中から這い出す。
一歩踏み出すと、微かな鉄のにおいを嗅いだ。
血と、刀と。
庭の二人は縁側に出た正太郎を見て、むしろ顔を引き締めた。
何も言わず、彼らは正太郎を待つ。
それが分かっているから、正太郎も震える足を草履につっかける。
後ろで旦那、と利吉が呼んだが、振り返ることはしなかった。
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