夜明けはじわりじわりと、正太郎をなぶるようにやってきた。

夜明けが来るまでの数刻、度々首が傾ぎそうになったのだが、その都度「兄上」と声が聞こえるものだから、うとうとすることもできなかった。

もちろん幻聴であったのだけれども、そんなものが聞こえてきたのは、容之進の部屋にずっといたからだろうか。

和泉も和泉で欠伸を噛み殺し、時折ため息をついていた。

何度も「帰って寝ろ」と促したものの、彼は「やだね」の一点張りで、この部屋から出ていこうとはしなかった。

兄妹揃って頑固が過ぎる。


二人が眠れなかったのだから、隣室にいた千鶴と利吉は一体どうだったのだろう。


正太郎は夜中じゅう付けっぱなしだった行灯の火を消した。

それでも、部屋の中は薄明るい。

雨はいつ止んだのか、屋敷は静かだった。

代わりにチュンチュンと、雀の鳴き声が聞こえてくる。


もうすぐおさとが起き出してくる時刻だった。

その前に、なんとかして千鶴を説得したい。

そして、目の前の悪友も。


「なあ」


正太郎は掠れた声を出した。

和泉の目が上がる。

微かな疲労の色が、まなじりに浮かんでいた。


「帰らなくていいのか?」


埜左衛門のざえもんも、和泉と千鶴の母も、心配しているはずだ。

和泉は目をこすり、ふんと笑った。


「いいのさ」


単純明快な答えに反応する気力を、正太郎は持っていない。

ゆえに、再び黙り込むしかなかった。


とその時、庭から低い声が聞こえてきた。

その声は、旦那、と正太郎を呼んでいる。

甘い声に、目を見開いた。

反対に、和泉の目はさらに細くなる。


正太郎は立ち上がり、庭に面した障子をそっと開けた。


「ああ、旦那。そっちにいたのかい」


朝から妖艶な笑み。

タカはさして驚く風でもなく、正太郎を見返した。

昨日の雨のせいか庭にはもやがかかっており、タカの黒髪と黒い着物だけが、風景から浮き出ている。


「おめえ…なんでいる」

「お迎えに上がりやした」


おどけて腰を折るタカ。

正太郎は眉をひそめるだけだ。


「こちとらよっぴいて客の相手してた…いや、相手してて、疲れてんだ。妙な冗談はやめな」

「冗談じゃねえよ。野村の所に行かにゃなるめえからな」


なんでお前がそれを、とうんざりしながら言おうとした時、隣室の障子も開いた。


目を充血させた千鶴が出てくる。


それを見たタカの目が、すっと細められた。

正太郎は言葉を飲み込む。


こいつら、血が繋がってんだよな。


「なぜあなたが知っているのです」


千鶴は、まったくの他人としてタカにそれを尋ねる。

なぜか、正太郎の胸がちくりと痛んだ。


「これはこれは」


当の本人は、知らぬ存ぜぬとばかりに会釈する。

正太郎の後ろで、和泉がじりりと動いた。


「それは言えやせんよ。あんたが言えねえように」


千鶴の眉がぴくりと跳ねた。

しかし反応はそれだけで、あとは押し黙っている。


タカは再び正太郎に向き直った。

笑みは消えていない。


「旦那、支度は?」

「…俺ぁ、行かねえ」

「行かないだって?」


わざとらしく、タカはのけぞる。

正太郎はそっぽを向いた。


「旦那、まさかそれですましちまうつもりかい?いやだねえ、旦那は責任ってえ言葉を知らねえみてえだ」

「うるせえな、さっさと消えやがれ」

「それがそうもいかねえ。こっちも仕事なんだよ」

「はあ?」


ようやく、彼の笑みはするすると引いていく。


「事件を解決した。下手人を上げた。それではい終わりってわけにはいかねえよ。自分が捕らえたやつは、最後まで見届けてやる。それが、おめえさんの仕事だろうよ」

「てめえは間違ってる。罰を与えるのは、俺らの仕事じゃねえ」


土方たちにも言ったはずだ。

仇討ちなんてことは考えるな、と。


すると、タカは小さくため息をついた。


「いつもならそれが正しいだろうさ。けど、今回は異例だぜ。下手人が、自分で自分を裁こうってんだ。やつを捕らえたてめえが行かねえで、誰が行くよ。俺か?後ろにいる杉浦の旦那かい?利吉親分かい?」

「よくしゃべる口だな。おめえ、いつからそんなおしゃべりになった」


正太郎は苦々しげにそう言って、そっぽを向いた。

「旦那」と、再び呼ばれる。

決して強い口調ではないのに、タカは正太郎を押し黙らせるだけの気迫を放った。


「旦那、乗り掛かった船から降りようったって、そうは問屋がおろさねえよ。大体、乗っちまった船から降りたらどうなるか考えてみな。一歩踏み出した途端、水の中にどぼん、だぜ。溺れ死ぬのが関の山ってんだ」

「…だが、岸についた途端、虎に喉をがぶりとやられちまったら、元も子もねえぜ」


ははっ、とタカが笑った。

おいおい、と呆れたような表情を浮かべる。


「行き先を知らねえで漕ぎ出すやつがいるかい?まさか、わざわざ虎がいるような場所を選ぶやつもいるめえ」


それに、と彼は続ける。


「たとえがぶりとやられちまったとしても、水の中でじわじわ苦しみながら死ぬよりましだろうよ。一瞬で逝ける」


正太郎は彼を凝視した。

いつの間にか、笑みが戻ってきている。


ふと、肩に何か暖かなものが乗った。


振り向いてみれば、和泉がその手を正太郎の肩に置いていた。

彼は微笑むわけでもなく、ただ押し出すように肩の上の手に力を入れる。


行ってこい。


和泉はそう言っていた。


「何してんだ、行くぜ」


タカがカランと下駄を鳴らす。

それでも、正太郎は動けなかった。


――できるのか?


己に問いかける。

答えは昨夜のように、するりと出てきてはくれなかった。


ふと、庭の人影が二つに増える。


「正太郎」


千鶴がこちらを睨み付けた。

もやの中で、彼女の目は底光りしている。


「早く」


目を瞑った。

そうすると、逃れられないと分かった。

ようやく、だ。


正太郎は薄闇の中から這い出す。

一歩踏み出すと、微かな鉄のにおいを嗅いだ。

血と、刀と。


庭の二人は縁側に出た正太郎を見て、むしろ顔を引き締めた。

何も言わず、彼らは正太郎を待つ。

それが分かっているから、正太郎も震える足を草履につっかける。


後ろで旦那、と利吉が呼んだが、振り返ることはしなかった。

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