二
「お前…斬る気はねえんだよな」
小声で正太郎の衿を掴む和泉。
正太郎は目を伏せ、「ない」と答えた。
「そうだよなあ…」
和泉はそう言うと、力が抜けたように正太郎から離れた。
正太郎は、乱れた衿を直そうともしない。
「なんであいつはあそこまで必死なんだ。お前が承諾するわけがねえと分かっていて、なぜ」
「それが分かりゃ、苦労はねえさ」
正太郎は声を低め、唇を結んだ。
実を言うと、心は千々に乱れていた。
千鶴のあの様子はただ事ではない。
正太郎に、謝りながらも頼むのには、尋常でない何かを感じた。
彼女は脅されているのだろうか。
弱みを握られ、強請られている…のだろうか?
正太郎には見当もつかなかった。
叶えてやるべきなのだろうか。
もし彼女の命が懸かっているのだとすれば、正太郎の取るべき道は一つだった。
未だに…
そう気付き、愕然とする。
——未だに、惚れている。
傷は残ったものの、消えたと思っていた。
身を焦がした熱情に水をかけ、消火させたと。
そうではなかった。
炎を弱めただけで、鎮火などしていなかった。
なんてザマだ。
諦めが悪すぎる。
そんな自分に嫌気が差す。
ぐらつきはじめた心を誤魔化すために、先ほどは千鶴にきつく当たってしまった。
まったく…どうすればいいんだ。
「なあ、正太郎」
不意に、和泉が容之進の書物を手に取った。
何かと思いながら、正太郎は彼の手元に目をやる。
「俺さ、異国の言葉を学んでるって言ったじゃねえか」
「…ああ」
唐突に、なんだ?
「異国の言葉を学ぶってのは、異国の文化も学ぶってことなんだよな。それでさ、俺、ヒロの言ってたことをようやく理解できたんだ」
ぱらぱらと、黄ばんだ書物をめくりながら、口元を引き締める和泉。
「この国は、もう長くない」
その言葉に、正太郎の目はぱちりと反応した。
「乗っ取られる…そう表現してもいいかもしれねえ。だが、俺に言わせりゃ異国がどうのこうの言う前に、日本の問題なんだ。幕府が死にかけてんだから」
パタン。
静かになった部屋に、本が閉じられる。
それは以前土方が言った、「ぽしゃん」を思い出させた。
正太郎は俯き気味の和泉から僅かに目を反らし、唇を舐める。
「同じ道を…辿る気か」
倒幕を唱えた容之進と、同じ道を。
すると、彼はいや、と首を振った。
「俺はただ、気付いただけだ。何も動こうだなんて、思っちゃいねえ。それに、俺が何をしなくても勝手に倒れるさ」
俺は、高見の見物だ。
彼はそう言って、口を歪ませた。
その言葉は、つい先程利吉に向けて放った正太郎の言葉と同じ。
そして彼は、「正太郎」と呼びかける。
「お前はヒロを斬ってから今まで、何を考えてきた?俺にはそれが、とんと分からねえ。お前のことは大体分かってると思っていたが、そうでもねえってことがこの五年でよく分かった。だから聞く。お前は何を考えてる?」
彼の言葉は、とてもまっすぐだった。
竹のように、曲がることを知らない。
そして、しなやかな優しさを持っていた。
しかしそれは、時として刃に似た響きを持つことがある。
今のように。
正太郎は妙な息苦しさを感じつつ、口を開いた。
「いろいろだよ。事件のことや、家のこと…特別なことなんざ、何もねえ。でも、最近は」
野村のこと、そして、タカのこと。
その二つは、常に頭にある。
「おめえが分からねえような特別なことなんか、考えてねえよ」
和泉はタカの名を聞いて、束の間、目を左右に揺らした。
正太郎はそんな彼を見逃さなかった。
そして、この機会を逃すまいと彼を見据える。
「タカから全部聞いた」
「…知り合いだったのか」
「顔見知り程度さ」
「全部聞いておいて、顔見知り程度なわけねえだろう」
微かに笑う。
「そうか、聞いたのか」
眉を寄せ、息を吐き出す和泉。
正太郎は小さく頷き、尋ねた。
「なんで黙ってた」
襖の向こうで、ぼそぼそと声がしている。
利吉が千鶴に話しかけているのだろう。
気まずい空気をなんとかしようと、必死に話題を探しているに違いない。
彼はそういう男だ。
「言ってほしかったか」
千鶴は一言、二言、短く返しているようだ。
何を話しているのかまでは聞こえないが、声が強張っている。
「どうだろうな」
正太郎はそう答え、雨音に耳をすませた。
雨が落ちるのは、庭だけではない。
屋根上にも、ばらばらと降りかかっている。
その音に神経を集中させてみると、自分の体もそのうち濡れてくるのではないかという錯覚に陥った。
べったりと着物が肌にへばりつき、体が重くなる。
もちろん、幻想だ。
「鷹揚はお前とよく似てる」
和泉の言葉に、正太郎は知ってる、と返した。
「本当に、似てんだよ」
「顔は似ちゃいねえがな」
「性格も似てるわけじゃねえが」
「分かってらあ」
「そうか」
「ああ」
それから二人は口をつぐんだ。
謝ってほしいわけではなかった。
正太郎はただ、理由を聞きたかっただけだ。
しかし、はぐらかされてしまった。
彼には何か、思惑があるのだろう。
「なあ」
正太郎が襖に目をやる。
「おめえら、朝まで居座る気か?」
「だめか?」
にやっ。
和泉はそんな風に笑った。
「兄妹揃って、まったく…そんなに俺を発狂させてえのかよ」
「俺はただ、千鶴の願いを叶えてやりたいだけさ」
「願いの中身なんて、知らねえくせに」
「自分と同じ血が流れてるんだ。助けてやりてえと思うのは、人情だろう」
違うか?
その問いに、正太郎は俯くことしかできない。
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