「お前…斬る気はねえんだよな」


小声で正太郎の衿を掴む和泉。

正太郎は目を伏せ、「ない」と答えた。


「そうだよなあ…」


和泉はそう言うと、力が抜けたように正太郎から離れた。

正太郎は、乱れた衿を直そうともしない。


「なんであいつはあそこまで必死なんだ。お前が承諾するわけがねえと分かっていて、なぜ」

「それが分かりゃ、苦労はねえさ」


正太郎は声を低め、唇を結んだ。


実を言うと、心は千々に乱れていた。

千鶴のあの様子はただ事ではない。

正太郎に、謝りながらも頼むのには、尋常でない何かを感じた。


彼女は脅されているのだろうか。

弱みを握られ、強請られている…のだろうか?

正太郎には見当もつかなかった。


叶えてやるべきなのだろうか。

もし彼女の命が懸かっているのだとすれば、正太郎の取るべき道は一つだった。


未だに…


そう気付き、愕然とする。


——未だに、惚れている。


傷は残ったものの、消えたと思っていた。

身を焦がした熱情に水をかけ、消火させたと。

そうではなかった。

炎を弱めただけで、鎮火などしていなかった。


なんてザマだ。

諦めが悪すぎる。


そんな自分に嫌気が差す。

ぐらつきはじめた心を誤魔化すために、先ほどは千鶴にきつく当たってしまった。


まったく…どうすればいいんだ。


「なあ、正太郎」


不意に、和泉が容之進の書物を手に取った。

何かと思いながら、正太郎は彼の手元に目をやる。


「俺さ、異国の言葉を学んでるって言ったじゃねえか」

「…ああ」


唐突に、なんだ?


「異国の言葉を学ぶってのは、異国の文化も学ぶってことなんだよな。それでさ、俺、ヒロの言ってたことをようやく理解できたんだ」


ぱらぱらと、黄ばんだ書物をめくりながら、口元を引き締める和泉。


「この国は、もう長くない」


その言葉に、正太郎の目はぱちりと反応した。


「乗っ取られる…そう表現してもいいかもしれねえ。だが、俺に言わせりゃ異国がどうのこうの言う前に、日本の問題なんだ。幕府が死にかけてんだから」


パタン。


静かになった部屋に、本が閉じられる。

それは以前土方が言った、「ぽしゃん」を思い出させた。


正太郎は俯き気味の和泉から僅かに目を反らし、唇を舐める。


「同じ道を…辿る気か」


倒幕を唱えた容之進と、同じ道を。


すると、彼はいや、と首を振った。


「俺はただ、気付いただけだ。何も動こうだなんて、思っちゃいねえ。それに、俺が何をしなくても勝手に倒れるさ」


俺は、高見の見物だ。


彼はそう言って、口を歪ませた。

その言葉は、つい先程利吉に向けて放った正太郎の言葉と同じ。


そして彼は、「正太郎」と呼びかける。


「お前はヒロを斬ってから今まで、何を考えてきた?俺にはそれが、とんと分からねえ。お前のことは大体分かってると思っていたが、そうでもねえってことがこの五年でよく分かった。だから聞く。お前は何を考えてる?」


彼の言葉は、とてもまっすぐだった。

竹のように、曲がることを知らない。

そして、しなやかな優しさを持っていた。

しかしそれは、時として刃に似た響きを持つことがある。

今のように。


正太郎は妙な息苦しさを感じつつ、口を開いた。


「いろいろだよ。事件のことや、家のこと…特別なことなんざ、何もねえ。でも、最近は」


野村のこと、そして、タカのこと。

その二つは、常に頭にある。


「おめえが分からねえような特別なことなんか、考えてねえよ」


和泉はタカの名を聞いて、束の間、目を左右に揺らした。

正太郎はそんな彼を見逃さなかった。

そして、この機会を逃すまいと彼を見据える。


「タカから全部聞いた」

「…知り合いだったのか」

「顔見知り程度さ」

「全部聞いておいて、顔見知り程度なわけねえだろう」


微かに笑う。


「そうか、聞いたのか」


眉を寄せ、息を吐き出す和泉。

正太郎は小さく頷き、尋ねた。


「なんで黙ってた」


襖の向こうで、ぼそぼそと声がしている。

利吉が千鶴に話しかけているのだろう。

気まずい空気をなんとかしようと、必死に話題を探しているに違いない。

彼はそういう男だ。


「言ってほしかったか」


千鶴は一言、二言、短く返しているようだ。

何を話しているのかまでは聞こえないが、声が強張っている。


「どうだろうな」


正太郎はそう答え、雨音に耳をすませた。


雨が落ちるのは、庭だけではない。

屋根上にも、ばらばらと降りかかっている。

その音に神経を集中させてみると、自分の体もそのうち濡れてくるのではないかという錯覚に陥った。


べったりと着物が肌にへばりつき、体が重くなる。


もちろん、幻想だ。


「鷹揚はお前とよく似てる」


和泉の言葉に、正太郎は知ってる、と返した。


「本当に、似てんだよ」

「顔は似ちゃいねえがな」

「性格も似てるわけじゃねえが」

「分かってらあ」

「そうか」

「ああ」


それから二人は口をつぐんだ。


謝ってほしいわけではなかった。

正太郎はただ、理由を聞きたかっただけだ。

しかし、はぐらかされてしまった。

彼には何か、思惑があるのだろう。


「なあ」


正太郎が襖に目をやる。


「おめえら、朝まで居座る気か?」

「だめか?」


にやっ。


和泉はそんな風に笑った。


「兄妹揃って、まったく…そんなに俺を発狂させてえのかよ」

「俺はただ、千鶴の願いを叶えてやりたいだけさ」

「願いの中身なんて、知らねえくせに」

「自分と同じ血が流れてるんだ。助けてやりてえと思うのは、人情だろう」


違うか?


その問いに、正太郎は俯くことしかできない。

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