旦那、乗っかかる
一
すべてを聞き終わった和泉は、その細い視線を宙に浮かせ、しばらく考え込んでいた。
雨のせいでもあるだろうが、辺りはもう暗い。
夜の雨は、一段と音を増す。
しかし、先ほど正太郎が灯した行灯のおかげで、部屋の中はぼうっと明るかった。
それでも、場にいる人々の顔は浮かない。
「野村さまは、つまるところ下手人だったってわけか」
ぽつりと呟く和泉。
「そうか…だからお前を離縁したんだな」
やけに納得したような口ぶりの兄に、しかし、千鶴はうんともすんとも言わない。
正太郎が小首を傾げた。
「どういう意味だ」
和泉が小さく息をつく。
「野村さまは、千鶴を巻き込むまいとしたのだろう。腹を斬ってしまったら、その理由は何かと勘繰る者が出てくるだろ。そしてその理由を知られてしまった時、残された遺族はどうなる?下手人の家族がのうのうと生きやがって、なんて後ろ指を差されちまうだろうが」
「ああ…」
唸り声のような相槌を打つ正太郎。
どこか腑に落ちない、そんな表情だ。
それは、利吉も一緒だった。
腑に落ちねえ。
数日前に野村を訪ねた時、彼は千鶴を離縁したことについてこう言った。
俺と同じだったからだ、と。
あの口調には、確かに元の妻を気遣う気持ちも込もっていただろう。
しかし、彼の態度にはどこか挑むような様子があった。
俺と同じ。
そう言った真意は何なのだろう。
「で」
和泉は顔を引き締める。
「どうして正太郎なんだ」
彼は、千鶴に向けて問うていた。
しかし、彼女は兄から顔を背けている。
「なぜそんな酷なことを、あえて正太郎に頼むんだ。他にもいるだろうに」
「まさかおめえから、俺を庇うような言葉を聞くなんてな」
「正太郎、これは真面目な話だ。茶化すんじゃねえ」
静かながらも、年長者の言うことだった。
はいはい、とわざとらしい軽口で正太郎は返事をする。
「千鶴、お前はひでえことをしてんだぞ。分かってんのか」
「…分かっています」
千鶴が答えた。
小さく、小さく、これ以上ないほどか細い声音で。
「ならどうして」
「ならぬと言われました」
「は?」
「正太郎どのでなければ…ならぬと」
正太郎が眉を潜める。
利吉も瞬きを繰り返した。
同じような言葉を、野村の屋敷でも聞いた。
「何がならぬなんだ。どういう意味なんだ」
「兄上…」
千鶴が、兄を見据えた。
懇願、焦燥、苦悶…なんと称してもいいが、彼女の表情はただ必死だった。
和泉の顎が引かれる。
「申し訳ありません。でも、どうしてもこの人じゃなきゃだめなの。お願いです、あの人の介錯を…お願いいたします」
最後の言葉は正太郎に向けられていた。
彼女は畳に額をこすらんばかりに、頭を下げる。
正太郎の喉仏が動いた。
それでも、表情自体は変わらない。
「ごめんなさい、ごめんなさい。でも、お願いします」
ごめんなさい。
ひたすら謝り続ける千鶴。
和泉は正太郎と妹を交互に見て、大きなため息をついた。
「正太郎、こっちに来い」
「はっ?ちょ、おいっ」
開きっぱなしになっていた襖の向こうに、引き摺られていく正太郎。
利吉はどうしたらよいか分からないまま、目の前で襖をぴしゃりと閉じられてしまった。
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