旦那、乗っかかる


すべてを聞き終わった和泉は、その細い視線を宙に浮かせ、しばらく考え込んでいた。

雨のせいでもあるだろうが、辺りはもう暗い。

夜の雨は、一段と音を増す。

しかし、先ほど正太郎が灯した行灯のおかげで、部屋の中はぼうっと明るかった。

それでも、場にいる人々の顔は浮かない。


「野村さまは、つまるところ下手人だったってわけか」


ぽつりと呟く和泉。


「そうか…だからお前を離縁したんだな」


やけに納得したような口ぶりの兄に、しかし、千鶴はうんともすんとも言わない。

正太郎が小首を傾げた。


「どういう意味だ」


和泉が小さく息をつく。


「野村さまは、千鶴を巻き込むまいとしたのだろう。腹を斬ってしまったら、その理由は何かと勘繰る者が出てくるだろ。そしてその理由を知られてしまった時、残された遺族はどうなる?下手人の家族がのうのうと生きやがって、なんて後ろ指を差されちまうだろうが」

「ああ…」


唸り声のような相槌を打つ正太郎。

どこか腑に落ちない、そんな表情だ。

それは、利吉も一緒だった。


腑に落ちねえ。


数日前に野村を訪ねた時、彼は千鶴を離縁したことについてこう言った。

俺と同じだったからだ、と。

あの口調には、確かに元の妻を気遣う気持ちも込もっていただろう。

しかし、彼の態度にはどこか挑むような様子があった。


俺と同じ。


そう言った真意は何なのだろう。


「で」


和泉は顔を引き締める。


「どうして正太郎なんだ」


彼は、千鶴に向けて問うていた。

しかし、彼女は兄から顔を背けている。


「なぜそんな酷なことを、あえて正太郎に頼むんだ。他にもいるだろうに」

「まさかおめえから、俺を庇うような言葉を聞くなんてな」

「正太郎、これは真面目な話だ。茶化すんじゃねえ」


静かながらも、年長者の言うことだった。

はいはい、とわざとらしい軽口で正太郎は返事をする。


「千鶴、お前はひでえことをしてんだぞ。分かってんのか」

「…分かっています」


千鶴が答えた。

小さく、小さく、これ以上ないほどか細い声音で。


「ならどうして」

「ならぬと言われました」

「は?」

「正太郎どのでなければ…ならぬと」


正太郎が眉を潜める。

利吉も瞬きを繰り返した。

同じような言葉を、野村の屋敷でも聞いた。


「何がならぬなんだ。どういう意味なんだ」

「兄上…」


千鶴が、兄を見据えた。

懇願、焦燥、苦悶…なんと称してもいいが、彼女の表情はただ必死だった。

和泉の顎が引かれる。


「申し訳ありません。でも、どうしてもこの人じゃなきゃだめなの。お願いです、あの人の介錯を…お願いいたします」


最後の言葉は正太郎に向けられていた。

彼女は畳に額をこすらんばかりに、頭を下げる。


正太郎の喉仏が動いた。

それでも、表情自体は変わらない。


「ごめんなさい、ごめんなさい。でも、お願いします」


ごめんなさい。

ひたすら謝り続ける千鶴。


和泉は正太郎と妹を交互に見て、大きなため息をついた。


「正太郎、こっちに来い」

「はっ?ちょ、おいっ」


開きっぱなしになっていた襖の向こうに、引き摺られていく正太郎。

利吉はどうしたらよいか分からないまま、目の前で襖をぴしゃりと閉じられてしまった。

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