正太郎はただ、事実だけを話した。

己の感情など、いちいち差し込まない。

ただ、起きた事柄だけを淡々と述べた。

そのため、すべてを話すのに時間は掛からなかった。

彼が話し終わった後でも、雨は静かにこの屋敷を濡らしている。


「野村さまの介錯をしたくねえのは、こういうわけだ。つまり…隣の部屋にいるお人の言葉を借りりゃ、俺は前に進めてねえってこったな。ああ、ちげえな。これは俺の言葉か」


正太郎は笑わなかった。

その目は、いつもの半分しか開いていない。


「だが、不思議よな。介錯は嫌なのに、人殺しはできんだからな。今まで何人の下手人を斬ってきたのやら…親分、覚えてるかい」

「いえ…」

「だよなあ。下手人を斬ることに、抵抗があるわけじゃねえ…けどやっぱり、できればやりたかねえよな。だから、できれば総司たちと竹刀を交えるようなことは、したくねえんだよな」


何だか話に脈絡がない。

利吉は小さく息を吐いた。

不思議なことに、胸は騒がない。

しんとした、まるで無風無音の世界にいるように、心は落ち着いている。

特別な感想も、なかった。


しかし。


「旦那」

「ん?」

「旦那はたぶん、前に進めてねえわけじゃねえと思いやす」


正太郎の目が開く。

普段と同じ、大きな丸い目になる。


「人を斬ることがいいことだとは思わねえ。むやみに斬っていいわけでも、ねえ。それは旦那が言う通りでさあ。けど、旦那は別に、斬ること自体に臆してるわけじゃねえんだと思いやす」


正太郎が微かに顎を上げた。

まるで、難解な事件の推理をする、手下の話を聞いているような姿勢だ。

利吉は唇を舐める。


「旦那が嫌で嫌で仕方がねえのは、武士…というか、切腹なんじゃ?死ぬことで美化される、その風潮が嫌なんじゃねえですかい」


生きて償う方法があったはずなのに。

罪を死であがなうなど、安直で傲慢で汚い。

その手前勝手な行いに他人を巻き込むなんて、最悪ではないか。

愛する者の命を、この手で断つ。

なんて酷い。


利吉はそう思う。


死なれてしまっては、詰ることができぬ。

反省させることができぬ。

苦しみながら償わせることができぬ。


逃げるなと思う。

何もない世界へ逃げ込み、許されようとするなと。


「ご無礼を承知で言わせていただきやすが、弟さんは勝手に死ぬと決めたくせに、旦那を巻き込んで生涯治せねえ傷をこさえて消えてった。たまったもんじゃねえでしょうよ。残されたもんの気持ちは宙ぶらりんですから」


残された者の気持ちならば、利吉にも分かる。

前の主人が消えてしまったとき。

利吉は一人、取り残されてしまったのだった。

後を追おうかと考えたこともある。

それほどまでに、彼の存在は大きかった。

ぽっかりと開いた穴も広大で、たとえ新しい主ができようとも埋められないままだ。


それでも人は前を向く。

生きる限り、足元に目を落とそうが空を見上げようが、歩は進む。

勝手に押し進められてしまうのだ。


穴は穴のままでも構わない。

いつか覗き込み、そこにあったものとじっくり向き合えるようになるのだから。


利吉はそれを知っている。

そして、おそらく正太郎も。


「旦那は今、生きていらっしゃる。それだけで、前に進んでるのと同じことだと思いやす。だから、人を斬る道具でしかない剣に拘る三人と戦いたくねえし、野村の介錯もしたかねえ。それは生きることとは真逆のことですから」


正太郎は利吉の訥々とした語りに、何の反応も示さなかった。

応か否かゆっくりと吟味しているようにも見えるし、ただ答えたくないだけのようにも見える。


しばらく経ってから、正太郎は雨の中に埋もれてしまいそうな声で呟いた。

たぶん、と。


「たぶん、そうだろうよ。おめえの言った通り…だと思う。いや、俺にもその辺はよく分かっちゃいねえんだ。何も親分に嘘をつこうだなんて、思ってるわけじゃない」


正太郎はひどく疲れたように、肩を揉んだ。


「俺はヒロのために死ぬ覚悟はしてた。武家なんてのは、いつだって連帯責任だからな。なのにあいつは一人で逝った。後を追うことも許されず…いや」


苦渋の色を浮かべる正太郎。


「かっこつけんのはよそう。俺はやっぱり死ぬのが怖かったのさ」


大体、と続ける。


「死ぬのが怖くねえやつなんているかい?最近じゃ、志のためなら死ぬのは本望だなんてほざく輩もいるけどよ、本心の少しでも見えりゃ、嘘だってことが分かるだろうさ。死に怯えねえやつなんざ、いるもんか」

「その通りだと思いやすよ、旦那」


死ぬのは恐い。

なぜ恐いのかと問われれば、知らないからだと答えるだろう。

その後にどうなるのか…天国、地獄、浄土、三途の川、そんな所に行くのか、はたまた何もないのか、分からない。

分からないもの、見えないものは怖い。


嫌だねえ、と正太郎はため息をつく。


「最近は死ぬって言やあ、何だって許されると思ってるやつが多い。攘夷だ倒幕だ、いろーんな思想があるけどよ、俺に言わせりゃそれら全部、シソウだね。分かるか?シソウのシは、死ぬの死だ」


呆れてしまった。

しかも、なかなか的を射ているものだから、どうしようもない。

そこで正太郎は、にやりと笑った。

なんだか久しぶりにこの笑みを見たような気がする。


「弟さんは倒幕の思想を持ってらしたって言いやしたが、旦那は持ってないんですかい、思想は」


ないね、とはっきり答える正太郎。


「持ちたきゃ勝手に持ってりゃいい。俺は高みの見物さ」


そう言う彼の手が、本を握り締める。

利吉はそれ以上、何も言わなかった。


少し雨脚が強くなったのだろうか、土を打つ音が大きくなる。


とその時、「正太郎」と名を呼ぶ男の声が、聞こえてきた。

そのすぐ後に、「千鶴!」と驚く声も聞こえる。


「お前、なんでこんな所に」


正太郎と利吉が隣室に戻ると、庭で和泉が口を開いているのが目に入った。

千鶴はさっきと寸分違わぬ姿勢で、兄を見ている。


「おい正太郎、こりゃどういうことだ」

「何か用か」


和泉の質問には答えず、そう尋ねる正太郎。

長い付き合いだからだろう、和泉は正太郎の様子がいつもと違うことに気付いたらしい。

僅かに目を細めながらも、素直に答えた。


「千鶴が家の中にいなかったからよ、もうすぐ夕飯なのにってお袋が文句言ってんだ。だからどこに行ったか知らねえかって聞きに来たんだが、まさかここにいるとはな」


和泉の視線が、正太郎から千鶴に移った。

しかし、彼女はもう兄を見ていない。

畳を睨み付け、その様子は叱られた童のように真摯で、必死だった。


「じゃあいい所に現れてくれた。持って帰ってくれ」


立ったまま千鶴を見下ろし、正太郎は言い放つ。

旦那、と利吉は小さく諌めた。

あんまり剣呑な言い方はしちゃなんねえよ、とその二文字に込めたつもりだった。

しかし、正太郎は構わず和泉を見ている。


「持って帰れって…何でえ、何があったんでえ」


和泉はぬかるんだ庭に立ち尽くしたまま、傘の柄を握っていた。

その眉は、ぐっとひそめられている。


「別に、大したことじゃねえ。家に帰りたくねえと、駄々をこねるもんだからよ」

「嘘つけ。千鶴がそんなことで、お前を頼るわけがねえ」


そう、頼るわけがなかった。

正太郎本人でさえ、そのことは百も承知である。

彼はひょいと肩をすくめた。


「まあ、そうだわな。だが、大したことじゃねえのは本当だ。だから、一緒に帰ってくれ」


正太郎は口の端をつっと上げると、「親分」と利吉を呼んだ。


「すぐそこだがよ、二人を送ってやんな。おめえさんも、それで帰っていいから」


しかし、誰も動かなかった。


少しの間、誰かが動き出すのを待っていたが、その様子がないのを見て、正太郎は舌打ちをする。

強くなった雨でさえも消せぬほど高く鳴った音を機に、和泉が濡れた足を縁側に乗せた。


「おいおい、汚れるだろうが」


正太郎が文句を言う。

しかし、和泉はまったく意に介さないまま、千鶴の隣に腰を下ろす。

彼が歩いた数歩が、くっきりと畳の上に残っている。


「千鶴」


兄の厳しい声に、彼女は一瞬目を瞑った。


「何があった。なぜ俺のところではなく、正太郎のところに来た」

「…言えません」

「じゃあ、質問を変えよう。何をしに来た」

「頼み事を」

「頼み事とは?」


口を閉ざす千鶴。

その瞳が、正太郎へと向けられた。


思いがけずその視線を受け止めてしまった彼は、和泉からもじっと見つめられる羽目になってしまう。


「正太郎」

「なんだよ」

「何があったんだ」

「だから、大したことじゃねえって」

「なら、話せるはずだろうが。なんで話さねえんだ」


正太郎の口が固く閉じる。

だんまりが二人に増えてしまった。

そうなると残った者に目が行くのは自然なことで、利吉は和泉の鋭い眼光を前に、目を泳がせる他ない。


「正太郎の岡っ引きだよな」

「へい」

「おめえもこの場にいるってえことは、事情を知ってんだよな」

「…全部じゃねえですが」

「話せ」


困った。


主を盗み見るものの、その横顔は「勝手にしやがれ」と不機嫌そうだ。

ついに利吉はいたたまれなくなり、自分がこの一刻ほどに見聞きしたことを、和泉に話す羽目になってしまった。

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