三
正太郎はただ、事実だけを話した。
己の感情など、いちいち差し込まない。
ただ、起きた事柄だけを淡々と述べた。
そのため、すべてを話すのに時間は掛からなかった。
彼が話し終わった後でも、雨は静かにこの屋敷を濡らしている。
「野村さまの介錯をしたくねえのは、こういうわけだ。つまり…隣の部屋にいるお人の言葉を借りりゃ、俺は前に進めてねえってこったな。ああ、ちげえな。これは俺の言葉か」
正太郎は笑わなかった。
その目は、いつもの半分しか開いていない。
「だが、不思議よな。介錯は嫌なのに、人殺しはできんだからな。今まで何人の下手人を斬ってきたのやら…親分、覚えてるかい」
「いえ…」
「だよなあ。下手人を斬ることに、抵抗があるわけじゃねえ…けどやっぱり、できればやりたかねえよな。だから、できれば総司たちと竹刀を交えるようなことは、したくねえんだよな」
何だか話に脈絡がない。
利吉は小さく息を吐いた。
不思議なことに、胸は騒がない。
しんとした、まるで無風無音の世界にいるように、心は落ち着いている。
特別な感想も、なかった。
しかし。
「旦那」
「ん?」
「旦那はたぶん、前に進めてねえわけじゃねえと思いやす」
正太郎の目が開く。
普段と同じ、大きな丸い目になる。
「人を斬ることがいいことだとは思わねえ。むやみに斬っていいわけでも、ねえ。それは旦那が言う通りでさあ。けど、旦那は別に、斬ること自体に臆してるわけじゃねえんだと思いやす」
正太郎が微かに顎を上げた。
まるで、難解な事件の推理をする、手下の話を聞いているような姿勢だ。
利吉は唇を舐める。
「旦那が嫌で嫌で仕方がねえのは、武士…というか、切腹なんじゃ?死ぬことで美化される、その風潮が嫌なんじゃねえですかい」
生きて償う方法があったはずなのに。
罪を死で
その手前勝手な行いに他人を巻き込むなんて、最悪ではないか。
愛する者の命を、この手で断つ。
なんて酷い。
利吉はそう思う。
死なれてしまっては、詰ることができぬ。
反省させることができぬ。
苦しみながら償わせることができぬ。
逃げるなと思う。
何もない世界へ逃げ込み、許されようとするなと。
「ご無礼を承知で言わせていただきやすが、弟さんは勝手に死ぬと決めたくせに、旦那を巻き込んで生涯治せねえ傷をこさえて消えてった。たまったもんじゃねえでしょうよ。残されたもんの気持ちは宙ぶらりんですから」
残された者の気持ちならば、利吉にも分かる。
前の主人が消えてしまったとき。
利吉は一人、取り残されてしまったのだった。
後を追おうかと考えたこともある。
それほどまでに、彼の存在は大きかった。
ぽっかりと開いた穴も広大で、たとえ新しい主ができようとも埋められないままだ。
それでも人は前を向く。
生きる限り、足元に目を落とそうが空を見上げようが、歩は進む。
勝手に押し進められてしまうのだ。
穴は穴のままでも構わない。
いつか覗き込み、そこにあったものとじっくり向き合えるようになるのだから。
利吉はそれを知っている。
そして、おそらく正太郎も。
「旦那は今、生きていらっしゃる。それだけで、前に進んでるのと同じことだと思いやす。だから、人を斬る道具でしかない剣に拘る三人と戦いたくねえし、野村の介錯もしたかねえ。それは生きることとは真逆のことですから」
正太郎は利吉の訥々とした語りに、何の反応も示さなかった。
応か否かゆっくりと吟味しているようにも見えるし、ただ答えたくないだけのようにも見える。
しばらく経ってから、正太郎は雨の中に埋もれてしまいそうな声で呟いた。
たぶん、と。
「たぶん、そうだろうよ。おめえの言った通り…だと思う。いや、俺にもその辺はよく分かっちゃいねえんだ。何も親分に嘘をつこうだなんて、思ってるわけじゃない」
正太郎はひどく疲れたように、肩を揉んだ。
「俺はヒロのために死ぬ覚悟はしてた。武家なんてのは、いつだって連帯責任だからな。なのにあいつは一人で逝った。後を追うことも許されず…いや」
苦渋の色を浮かべる正太郎。
「かっこつけんのはよそう。俺はやっぱり死ぬのが怖かったのさ」
大体、と続ける。
「死ぬのが怖くねえやつなんているかい?最近じゃ、志のためなら死ぬのは本望だなんてほざく輩もいるけどよ、本心の少しでも見えりゃ、嘘だってことが分かるだろうさ。死に怯えねえやつなんざ、いるもんか」
「その通りだと思いやすよ、旦那」
死ぬのは恐い。
なぜ恐いのかと問われれば、知らないからだと答えるだろう。
その後にどうなるのか…天国、地獄、浄土、三途の川、そんな所に行くのか、はたまた何もないのか、分からない。
分からないもの、見えないものは怖い。
嫌だねえ、と正太郎はため息をつく。
「最近は死ぬって言やあ、何だって許されると思ってるやつが多い。攘夷だ倒幕だ、いろーんな思想があるけどよ、俺に言わせりゃそれら全部、シソウだね。分かるか?シソウのシは、死ぬの死だ」
呆れてしまった。
しかも、なかなか的を射ているものだから、どうしようもない。
そこで正太郎は、にやりと笑った。
なんだか久しぶりにこの笑みを見たような気がする。
「弟さんは倒幕の思想を持ってらしたって言いやしたが、旦那は持ってないんですかい、思想は」
ないね、とはっきり答える正太郎。
「持ちたきゃ勝手に持ってりゃいい。俺は高みの見物さ」
そう言う彼の手が、本を握り締める。
利吉はそれ以上、何も言わなかった。
少し雨脚が強くなったのだろうか、土を打つ音が大きくなる。
とその時、「正太郎」と名を呼ぶ男の声が、聞こえてきた。
そのすぐ後に、「千鶴!」と驚く声も聞こえる。
「お前、なんでこんな所に」
正太郎と利吉が隣室に戻ると、庭で和泉が口を開いているのが目に入った。
千鶴はさっきと寸分違わぬ姿勢で、兄を見ている。
「おい正太郎、こりゃどういうことだ」
「何か用か」
和泉の質問には答えず、そう尋ねる正太郎。
長い付き合いだからだろう、和泉は正太郎の様子がいつもと違うことに気付いたらしい。
僅かに目を細めながらも、素直に答えた。
「千鶴が家の中にいなかったからよ、もうすぐ夕飯なのにってお袋が文句言ってんだ。だからどこに行ったか知らねえかって聞きに来たんだが、まさかここにいるとはな」
和泉の視線が、正太郎から千鶴に移った。
しかし、彼女はもう兄を見ていない。
畳を睨み付け、その様子は叱られた童のように真摯で、必死だった。
「じゃあいい所に現れてくれた。持って帰ってくれ」
立ったまま千鶴を見下ろし、正太郎は言い放つ。
旦那、と利吉は小さく諌めた。
あんまり剣呑な言い方はしちゃなんねえよ、とその二文字に込めたつもりだった。
しかし、正太郎は構わず和泉を見ている。
「持って帰れって…何でえ、何があったんでえ」
和泉はぬかるんだ庭に立ち尽くしたまま、傘の柄を握っていた。
その眉は、ぐっとひそめられている。
「別に、大したことじゃねえ。家に帰りたくねえと、駄々をこねるもんだからよ」
「嘘つけ。千鶴がそんなことで、お前を頼るわけがねえ」
そう、頼るわけがなかった。
正太郎本人でさえ、そのことは百も承知である。
彼はひょいと肩をすくめた。
「まあ、そうだわな。だが、大したことじゃねえのは本当だ。だから、一緒に帰ってくれ」
正太郎は口の端をつっと上げると、「親分」と利吉を呼んだ。
「すぐそこだがよ、二人を送ってやんな。おめえさんも、それで帰っていいから」
しかし、誰も動かなかった。
少しの間、誰かが動き出すのを待っていたが、その様子がないのを見て、正太郎は舌打ちをする。
強くなった雨でさえも消せぬほど高く鳴った音を機に、和泉が濡れた足を縁側に乗せた。
「おいおい、汚れるだろうが」
正太郎が文句を言う。
しかし、和泉はまったく意に介さないまま、千鶴の隣に腰を下ろす。
彼が歩いた数歩が、くっきりと畳の上に残っている。
「千鶴」
兄の厳しい声に、彼女は一瞬目を瞑った。
「何があった。なぜ俺のところではなく、正太郎のところに来た」
「…言えません」
「じゃあ、質問を変えよう。何をしに来た」
「頼み事を」
「頼み事とは?」
口を閉ざす千鶴。
その瞳が、正太郎へと向けられた。
思いがけずその視線を受け止めてしまった彼は、和泉からもじっと見つめられる羽目になってしまう。
「正太郎」
「なんだよ」
「何があったんだ」
「だから、大したことじゃねえって」
「なら、話せるはずだろうが。なんで話さねえんだ」
正太郎の口が固く閉じる。
だんまりが二人に増えてしまった。
そうなると残った者に目が行くのは自然なことで、利吉は和泉の鋭い眼光を前に、目を泳がせる他ない。
「正太郎の岡っ引きだよな」
「へい」
「おめえもこの場にいるってえことは、事情を知ってんだよな」
「…全部じゃねえですが」
「話せ」
困った。
主を盗み見るものの、その横顔は「勝手にしやがれ」と不機嫌そうだ。
ついに利吉はいたたまれなくなり、自分がこの一刻ほどに見聞きしたことを、和泉に話す羽目になってしまった。
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