二
正太郎は、帰ると言い張る利吉を無理矢理部屋に上がらせた。
千鶴と二人きりだなんて、居心地が悪すぎた。
しかし、さらに居心地が悪いのは利吉である。
なぜ自分がただ事ではなさそうなこの場にいなければならないのかと、部屋の隅で縮こまっている。
千鶴は無言で正太郎と向き合っていた。
一言も発することなく部屋に入り、一言も発することなく頑なに座っている。
正太郎は、中に招き入れたはいいが、どうしたらよいものか考えあぐねていた。
すると、何の前触れもなく意を決したように千鶴が頭を下げた。
正太郎の目が丸くなる。
「お願いがございます」
「…何でござろう」
「あの人の…野村の首を、お斬りくださいませ」
正太郎よりも早く、利吉の口が開いた。
すべての事情を知っているわけではないが、千鶴の言っていることが非常識であることくらいは分かる。
何を言ってるんでえ、この方は。
「何ゆえ、かようなことを申されるのか。千鶴どのはもはや野村さまと、何の関係もないはず」
そう言う正太郎は、落ち着いているように見えた。
しかし、内心の動揺が生半可でないことくらい、利吉にも分かる。
その証拠に、握った拳が微かに震えていた。
それに、と正太郎が続ける。
「何ゆえ、野村さまの切腹を知っておられるのか。何ゆえ、某が介錯を頼まれ申したことを知っておられる」
千鶴の頭は、以前として髷をこちらに見せているだけだ。
しかし、僅かに肩を揺らす。
おそらく、この質問を予想してはいたのだろう。
それでもなお、狼狽が外に出てしまう。
問われることを恐れてしまう。
そんな揺れ方だった。
「今は…何も申し上げることができませぬ。何とぞ、あの人の介錯をお願いいたします」
重い沈黙。
まるで、見えない手がそれぞれの口を押さえつけているようだ。
こんな沈黙は、利吉が今まで生きてきた中でも初めてだった。
尻を端折って、一目散に駆け出したくなる。
この湿った、冷たい空気から抜け出すためなら、指の一本や二本は差し出してもいいくらいだ。
もう耐えきれねえ、と腰を上げようとした時、正太郎が口を開いた。
「頭を上げなされ」
その声には、何の感情も含まれていない。
一切を削ぎ落とした、真冬の木のような声。
利吉は動けなくなった。
この場を去りたくとも、許されない。
親分、逃げんじゃねえよ。
そう言われた気がする。
「ついこの間まで枕を並べていた相手を殺せとは、一体どういうご了見でござろう。実に不穏ですな」
正太郎は、千鶴の頭が上がるのを待って、そう言った。
千鶴の喉元が動く。
薄暗い室内で、彼女の白い喉は異様なほどだ。
「某を謀っておられるのか」
「いいえ」
きっぱりと、千鶴が否定する。
その目は、ひたむきに正太郎にむけられている。
利吉は目を細めた。
その真摯さが、痛かった。
このお方は、何かを伝えようとなさっている。
しかし、それを口にすることはできねえ。
真実を告げぬまま、旦那を説得しようとしているんだ。
何だ?
何を伝えようとしている?
「謀るなどと、そのようなことはありません。それは誓って言えます」
「ならば、何ゆえに」
「申し上げられません」
「事情も知らずに、ただ操り人形のように介錯をいたせとおっしゃるのか。戯れが過ぎますぞ」
「事情はあるのです。しかし、今申し上げることはできないのです」
堂々巡りだった。
今や、正太郎と千鶴は睨み合っている。
「断る」
正太郎が言った。
「何ゆえに」
千鶴が問う。
すると、正太郎の様子が一変した。
顔を強張らせ、手の震えが一段と酷くなる。
利吉は、本当に逃げ出したくなった。
こんな恐ろしい主を、見たことがない。
いつものらりくらりとして適当に日々を過ごしているあの正太郎は、今や影もなかった。
「何ゆえに、だと?」と、正太郎が囁く。
囁きなのに、耳が痛い。
何か尖ったものを、鼓膜に突き付けられているようだ。
「何ゆえにと…そう、聞くのか」
千鶴が目を反らす。
己の失言に気付いたかのように。
「お前なら分かっていると、思っていたんだがな」
口調が崩れた。
乱暴ではないが、吹き出る感情を抑えているように揺らぐ。
それでも、千鶴は果敢に彼を見返した。
「分かっております。しかし…!」
「過去のことだ、前に進め、か?そして前に進めというのは、野村を殺せということか?」
正太郎が畳み掛ける。
千鶴は口をつぐみ、目を伏せた。
「おめえは知らねえからそう言えるんだ。ヒロを斬った時の、あの感触を知らねえから…」
「やめて!」
千鶴が叫んだ。
細い管に、無理矢理通したような声だ。
「殺したなんて…あなたはただ、容ちゃんの武士としての行いに」
ぷつりと言葉が切れる。
代わりに、乾いた笑いが室内に広がった。
正太郎が喉を震わせ、笑っている。
狂笑だった。
はははっ、くっくっく。
今すぐに耳を塞ぎたいと、利吉は切に望んだ。
やめてくれ、笑わないでくれと、懇願したくなる。
それほどまでに、背筋が凍る。
「おもしれえ。本当におもしれえよ。親子揃って、まったく同じことを言いやがる」
「しょう――」
「呼ぶんじゃねえよ」
突然、ぴたりと笑いが止んだ。
正太郎はぎらりと目を光らせ、千鶴を凝視する。
さすがの千鶴もそんな彼に怯んだのか、黙っていた。
首を傾げる正太郎。
「あんたに、名前なんざ呼ばれたかねえんだ。なあ、分かるだろ。俺たちはもう、元には戻れねえんだ。和泉も、あんたも、俺もな。ヒロも、帰ってこねえ」
俺が、殺した。
そう囁く彼は、千鶴を見ているようで、何も見ていないようだった。
利吉の口内はからからに乾いている。
——主のことを知りたいと思っていた。
しかし、その断片を目の前にばらまかれた今、どうしたらいいのか分からない。
知ることに、怖じ気付く。
ふと、正太郎が立ち上がった。
庭の方を見、ぽつりと言葉を落とす。
「帰んな」
「いや」
小さく、しかし、きっぱりとした拒絶。
その瞬間、正太郎は脇にある刀を掴み、抜きざまに薙いで彼女を殺してしまうかのように見えた。
しかし、そうはならない。
彼はむしろ、眉根一つ動かさなかった。
「うんと言ってくれるまで、帰らない」
「なら、一生そこにいりゃいい。もっとも、明日にはケリが着いているがな」
再び、睨み合う二人。
利吉は彼らを交互に見、「あの」と掠れた声を出した。
「あっしは帰っても…」
「いいわけねえだろ」
正太郎の一言に、思わずため息を付いてしまう。
なぜこんなことに…
「親分」
するりと、隣室との境になっている襖が開く。
向こうに片足を突っ込みながら、正太郎は顎でしゃくった。
「来な」
まるで正太郎と利吉しかいないかのように振る舞う彼に戸惑いつつ、千鶴にちらりと目を走らせ立ち上がる利吉。
それから、正太郎の後を追った。
襖を閉める際に千鶴と目が合い、妙に気まずくなってしまう。
彼女は口を真一文字に結んでいた。
とん。
「この部屋は?」
襖を閉め、その場に座り込みながら利吉はそう尋ねた。
正太郎は文机の前に腰を下ろし、あぐらをかく。
そして、文机の上にきれいに積まれた本の中から、一冊を選んだ。
「弟の部屋だ」
弟。
その響きには、何やら不純なものが混じっているようだ。
おとうと、と利吉は呟く。
正太郎は、いささか黄ばんだ本をぺらぺらと捲りながら、こちらを向いた。
笑っているとも、泣いているとも、なんとも言えない微妙な表情。
「容之進ってんだ。親分はさっき聞いてただろうが、もう死んだ」
「………」
「実を言うとな、この部屋に入ったのは五年ぶりなんだよ。怖くて、今まで入れなかった」
そう言うわりには、やけにあっさりと入ったではないか。
そう思うものの、口にはできない。
語る正太郎が、いつもの彼ではなかったからだ。
妙な存在感を放ち、年齢不詳になっている。
大人びているようにも、幼いようにも見える。
利吉は少しだけ顎を引いた。
構える。
「おめえさん、前に言ってたよな。俺が話すまで待つって。妙なことによ、今なら話せる気がすんだ」
聞くかい?
そう尋ねられる。
しかし、どうしてそれに「否」と答えることができるだろう。
それを分かっていて、正太郎は利吉に尋ねたのだ。
まったく、意地が悪い。
しかし、利吉は微かに頷くことしかできなかった。
知る恐ろしさと、知りたい願望と。
それが五分五分ならば、彼の取るべき道は一つだった。
「聞かせてくだせえ」
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