その日も夜が訪れた。

決定的に何かが変わったのに、時だけは進んでいく。

沈んでは上がり、沈んでは上がり。

繰り返しのくせに、同じ日は一つとてない。


そうして江戸は何事もなく、今日を終わろうとしていた。

二人、取り残された男女を除いて。


たかの屋の二階で、二人は向き合っていた。

この居酒屋の行灯は、いつ見ても明るく柔らかい。

誰をも受け入れるような明かりは、初めて訪れた千鶴でさえもくつろがせている。

とは言っても、緊張までほぐすことはできないようだが。


「全部」


正太郎が口を開く。

その様子はどこか吹っ切れたようでもある。


「全部話すと言ったな」

「…はい」

「話せ」


千鶴がくすんと鼻をすすった。

正太郎の詰問に、一瞬眉を寄せる。

それでも彼女は、すぐに正太郎の目を見返した。


「私があの人に嫁いだのは、五年前。それはあなたも知っている通りね。そして、私は最近離縁された。その理由を、私は子ができぬせいだと皆に話しました。けど、それは嘘なの」

「それくらいは分かる」

「そうね」


ちょこりと千鶴は笑った。


「どう見たって、嘘なのは明らかよね。そう、本当の理由は…ああ、待って。もっと前から説明しなきゃならないわ」


彼女は筋道を立てて、説明しようとしているらしかった。

しかし、それは思いの外難しかったらしく、目を伏せて考え込んでいる。


正太郎はじっと待っていた。


「そもそも、子ができなかったんじゃないの。作らなかったのよ」

「…ということは」

「あの人が私に手を伸ばしたことは、一度もないの」


口が開く。

えっ、と声が洩れた。

なぜ、ということよりも、そんなことが可能なのか、という疑問が湧く。


そんな疑問を見抜いたのだろうか、千鶴は遠慮がちに首を縦に振った。


「五年のうちで、一度もないの。それは、あの人に惚れた女がいたからなのだけれど…」

「それが清乃か」

「ええ。あの人は、決して結ばれないということを分かっていた。それでも、想いを断つことはできなかったの」

「野村さまは、それをおめえに話したのか」

「話してくれたわ」


そんなことを、わざわざ妻に言う夫がいるのか。


妾を囲おうが女郎を買おうが、妻にそれを告げぬ男はごまんといる。

なのに野村は、千鶴に心を打ち明けたというのか。


妙だと思う。

それでも正太郎は、黙っていた。

心がふわふわと漂い、彼女の話を夢の中で聞いているようだった。

こうして対峙していることさえ、現とは思えない。


ゆえに、話の腰を折るより最後まで聞こうと思った。

余計な口は挟まない。

すべて話してくれるというのだから、甘んじて聞きたい。

一言一句、漏らさず。


「でも、私たちの仲は悪くなかった。むしろ、仲は良かった。だから、子ができなくても特に不審がられるようなことはなかったの。あちらのお義母さまも、私にはよくしてくれたわ。子ができなくても、そんなものは運だからと…あの方には一生、頭が上がらない」


千鶴はそう言って、項垂れた。

今朝の、少し前までは自分の姑だった老女を思い出したのだろうか。


野村の切腹が済むと、彼女は青白い顔で――野村から切腹のことは聞かされていたに違いない――正太郎の着替えを手伝ってくれた。

窶れた顔で、それでも彼女は、正太郎に向かって深々と頭を下げたのだ。

武家の女と呼ぶに相応しい態度だった。


「一月ほど前」


唐突に、千鶴の声音がしっかりしたものになる。


「私はあの人の部屋に呼ばれた。話があると言われて、離縁を切り出された。いきなりだったもの、そりゃ驚いたわ。けれど、あの人はただ謝るだけだった。頭を下げて、お前のせいじゃない、全部俺が悪いんだ、と。それを聞いて、すぐにぴんと来たわ。ああ、清乃さんのことが原因なんだって」

「野村はなんと?」

「まずはじめに、あの人は言った。このことは、すべてが終わるまで誰にも話してはならない、と。それだけは約束してほしいと、土下座までされたの。そこまでして何を言いたいのかって、気になるじゃない」


弱々しく微笑む彼女。

よく見れば、その頬はこけていた。

頰から瞳へ。

撫でるように視線を上げる。

そこには少し細められたまなこがあった。


久々に、きちんと目を合わせたな。


思わずそんなことを思ってしまう。


「仮にも、五年も夫婦だったのよ。なのに、あの人は…」


言葉をつまらせる千鶴。

涙をこぼすまいとしきりに瞬きを繰り返す彼女を見て、正太郎は戸惑った。


しかし、千鶴は泣かなかった。

深呼吸を繰り返し、微かに震える声で続ける。


「俺は近々、人を一人殺す…あの人はそう言った。そいつは清乃さんのいい人で、だけど清乃さんはそいつを殺したいと望んでいる。だから俺は殺すんだと、そう言った。そんなの、私はおかしいと思ったわ。何もあなたがそこまですることはないって、言っちゃ悪いけど、あなたは利用されてるだけだって。けれど、あの人は首を振るだけだった。そんなことは分かっていると…俺があの人にできることはこのくらいしかないんだと。そんな恋はやめなさいと言いたかった。諦めるべきだとね。でも、言えなかった。寄り添った五年で、あの人の苦悩をよく理解していたから」


諦め切れぬ恋。


それは、正太郎にも分かる。

諦めたと自分で思ってはいても、ふとした瞬間――朝起きた瞬間や、風が吹いた瞬間――に思い知らされるのだ。


何言ってんだ、と。


「そして、こう言った。俺はそいつを殺したら、死ぬつもりだ。捕らえられれば言うまでもないが、そうでなくとも自決する、と。大した理由もなく人ひとり殺して、己がのうのうと生き続けるわけにはいかない。しかし、お前を巻き込むわけにもいかない。捕らえられるにせよ自決するにせよ、お前だけは巻き込めない。だから離縁する、と」

「………」

「私はもちろん、最後までお供します、と言った。仮にも、五年も野村の人間として生きてきたんだから。けれど、あの人は決してうんとは言わなかった。お前には、してもらわなければならないことがあるんだからと言って」

「してもらわなければならないこと?」


千鶴の顔が歪んだ。

声の震えが強くなる。


「もし…もしも俺が腹を切ることになったとしたら、介錯を小野田正太郎に頼みたいと…もし正太郎どのが俺の首を斬ってくれたら、すべてを話してもらいたいと…お前の口から語ってほしいと言って…」


なぜ、と眉を潜めた。


なぜ俺だったら、千鶴がすべてを語らなければならないんだ。

特に野村と親しかったわけではない。

なのに、なぜ。


そこで、千鶴の涙は溢れ出した。

もう止められぬとばかりに、次から次へと頬を滑り落ちていく。


「あの人は、こうも言った。互いが互いを好きになれればよかったって…あの人が私を、私があの人を…そうすれば、どんなによかっただろうって…私もそう思ってる。あの人を好きになれればよかった。でも、私たちはお互いを見ることができなかった。二人とも、反対を見ることしかできなかったの」


泣きじゃくる千鶴を前に、なぜか鼓動が早くなる。

それでも、急かすことはできない。


「私たちは夫婦という仮面を被った、友達だった。しかも、これ以上ないほどにいい友達だった。お互いが似たような恋に身を焦がしていたからよ。だからあの人は、私にすべてを託したの」


千鶴の瞳が上がる。

潤み、しかし、鋭い光を放つ目に、捕らえられる。


正太郎はごくりと生唾を飲み込んだ。


――食われてしまう。


そう、感じた。


「俺たちは似た者同士だ。だが、俺はもう力尽きた。だから、似た者同士のお前には叶えてほしい。俺の分までとは言わぬ。お前は、お前の恋をまっとうしろ。ただし、小野田正太郎が俺の介錯を務めてくれるのならば、だ。もし小野田正太郎が俺の介錯を務めないというのなら、お前は彼に嫁いではいけない。それも、約束してくれ」


言葉の羅列に、頭の中をかき混ぜられる。

思考が停止しかけ、呼吸が荒くなる。


まさか、と思った。


彼女の言葉を聞いて、もうどうしたらいいのか分からない。

そうよ、と千鶴は低く呟いた。


「私は…私はね、ずっとあなたのことが好きだったの。でも容ちゃんのことがあって、私は別の人に嫁いでしまった…諦めかけた時に、あの人は教えてくれたのよ。俺には好いた女子がいるって。だから私も思い続けることができた。嫁ぎ先があの人でなければ、とっくの昔に諦めてるわよ。でもあの人がいたから…だからあなたを好きでいられたの。なのにあの人は…」


その続きは、もういらなかった。

いわば、千鶴にとって同士と言っても過言ではない野村は、己の恋に散っていった。

なのに千鶴は、野村に幸せになれと言われてしまった。

彼の死の上で。


なんと重く、酷い使命だろう。

そんなこと知るかと、突っぱねることもできたろうに。

なのに彼女は受け止めた。

一生背負っていかなければならない重石を抱いたのだ。


「私も後を追えればよかった…だけど、できなかった。いいえ、追わなかった。そうしようと思えばできたのに、死ななかった。私は結局、あなたを選んでしまったの。あの人を見捨ててしまったのよ!」


千鶴が叫ぶ。

それは、獣の咆哮にも似ていた。

正太郎はぼんやりと気付く。

タカが言った虎とは野村のことではなく、千鶴のことであったのだと。


「私はひどい妻だった…あの人を裏切って、あなたを取ってしまった…でも仕方ないじゃない。どうしてもあなたと一緒になりたくて…残酷なことでも、あなたに頼まなきゃならなかった…鬼でもしないようなことを私は」

「もう言うな」


正太郎とて泣きたい気分だった。

思いもよらない話に、動悸がしているくらいだ。


「それ以上はもうやめてくれ」

「正ちゃん…」


正太郎は立ち上がった。

風に当たってくる、と部屋を出る。


下に降りると、タカが一人で酒を飲んでいた。

ちらりとこちらを見て、しかし何も言わない。

正太郎はそのままたかの屋を出た。


外は少しだけ風が吹いているが、生ぬるい。

湿気を存分に含んだ風だった。


ふらふらとおぼつかない足取りで、すぐ近くの橋に向かう。

たかの屋の店先に灯った、提灯の明かりだけを頼りに。

川の水がさあっと流れる音が聞こえ、正太郎は欄干にもたれた。


どうすればいいんだ。


野村の切望、千鶴の覚悟。

それぞれの思いを、一気に乗せられてしまった。

重いため息をつくものの、それは風がさらっていってしまう。


「わけ分かんねえよ」


そう呟いたとて、それさえも風が運んでいってしまうのだから仕方がない。


一寸先は闇。


それは確かにそうだった。

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