二
その日も夜が訪れた。
決定的に何かが変わったのに、時だけは進んでいく。
沈んでは上がり、沈んでは上がり。
繰り返しのくせに、同じ日は一つとてない。
そうして江戸は何事もなく、今日を終わろうとしていた。
二人、取り残された男女を除いて。
たかの屋の二階で、二人は向き合っていた。
この居酒屋の行灯は、いつ見ても明るく柔らかい。
誰をも受け入れるような明かりは、初めて訪れた千鶴でさえもくつろがせている。
とは言っても、緊張までほぐすことはできないようだが。
「全部」
正太郎が口を開く。
その様子はどこか吹っ切れたようでもある。
「全部話すと言ったな」
「…はい」
「話せ」
千鶴がくすんと鼻をすすった。
正太郎の詰問に、一瞬眉を寄せる。
それでも彼女は、すぐに正太郎の目を見返した。
「私があの人に嫁いだのは、五年前。それはあなたも知っている通りね。そして、私は最近離縁された。その理由を、私は子ができぬせいだと皆に話しました。けど、それは嘘なの」
「それくらいは分かる」
「そうね」
ちょこりと千鶴は笑った。
「どう見たって、嘘なのは明らかよね。そう、本当の理由は…ああ、待って。もっと前から説明しなきゃならないわ」
彼女は筋道を立てて、説明しようとしているらしかった。
しかし、それは思いの外難しかったらしく、目を伏せて考え込んでいる。
正太郎はじっと待っていた。
「そもそも、子ができなかったんじゃないの。作らなかったのよ」
「…ということは」
「あの人が私に手を伸ばしたことは、一度もないの」
口が開く。
えっ、と声が洩れた。
なぜ、ということよりも、そんなことが可能なのか、という疑問が湧く。
そんな疑問を見抜いたのだろうか、千鶴は遠慮がちに首を縦に振った。
「五年のうちで、一度もないの。それは、あの人に惚れた女がいたからなのだけれど…」
「それが清乃か」
「ええ。あの人は、決して結ばれないということを分かっていた。それでも、想いを断つことはできなかったの」
「野村さまは、それをおめえに話したのか」
「話してくれたわ」
そんなことを、わざわざ妻に言う夫がいるのか。
妾を囲おうが女郎を買おうが、妻にそれを告げぬ男はごまんといる。
なのに野村は、千鶴に心を打ち明けたというのか。
妙だと思う。
それでも正太郎は、黙っていた。
心がふわふわと漂い、彼女の話を夢の中で聞いているようだった。
こうして対峙していることさえ、現とは思えない。
ゆえに、話の腰を折るより最後まで聞こうと思った。
余計な口は挟まない。
すべて話してくれるというのだから、甘んじて聞きたい。
一言一句、漏らさず。
「でも、私たちの仲は悪くなかった。むしろ、仲は良かった。だから、子ができなくても特に不審がられるようなことはなかったの。あちらのお義母さまも、私にはよくしてくれたわ。子ができなくても、そんなものは運だからと…あの方には一生、頭が上がらない」
千鶴はそう言って、項垂れた。
今朝の、少し前までは自分の姑だった老女を思い出したのだろうか。
野村の切腹が済むと、彼女は青白い顔で――野村から切腹のことは聞かされていたに違いない――正太郎の着替えを手伝ってくれた。
窶れた顔で、それでも彼女は、正太郎に向かって深々と頭を下げたのだ。
武家の女と呼ぶに相応しい態度だった。
「一月ほど前」
唐突に、千鶴の声音がしっかりしたものになる。
「私はあの人の部屋に呼ばれた。話があると言われて、離縁を切り出された。いきなりだったもの、そりゃ驚いたわ。けれど、あの人はただ謝るだけだった。頭を下げて、お前のせいじゃない、全部俺が悪いんだ、と。それを聞いて、すぐにぴんと来たわ。ああ、清乃さんのことが原因なんだって」
「野村はなんと?」
「まずはじめに、あの人は言った。このことは、すべてが終わるまで誰にも話してはならない、と。それだけは約束してほしいと、土下座までされたの。そこまでして何を言いたいのかって、気になるじゃない」
弱々しく微笑む彼女。
よく見れば、その頬はこけていた。
頰から瞳へ。
撫でるように視線を上げる。
そこには少し細められた
久々に、きちんと目を合わせたな。
思わずそんなことを思ってしまう。
「仮にも、五年も夫婦だったのよ。なのに、あの人は…」
言葉をつまらせる千鶴。
涙をこぼすまいとしきりに瞬きを繰り返す彼女を見て、正太郎は戸惑った。
しかし、千鶴は泣かなかった。
深呼吸を繰り返し、微かに震える声で続ける。
「俺は近々、人を一人殺す…あの人はそう言った。そいつは清乃さんのいい人で、だけど清乃さんはそいつを殺したいと望んでいる。だから俺は殺すんだと、そう言った。そんなの、私はおかしいと思ったわ。何もあなたがそこまですることはないって、言っちゃ悪いけど、あなたは利用されてるだけだって。けれど、あの人は首を振るだけだった。そんなことは分かっていると…俺があの人にできることはこのくらいしかないんだと。そんな恋はやめなさいと言いたかった。諦めるべきだとね。でも、言えなかった。寄り添った五年で、あの人の苦悩をよく理解していたから」
諦め切れぬ恋。
それは、正太郎にも分かる。
諦めたと自分で思ってはいても、ふとした瞬間――朝起きた瞬間や、風が吹いた瞬間――に思い知らされるのだ。
何言ってんだ、と。
「そして、こう言った。俺はそいつを殺したら、死ぬつもりだ。捕らえられれば言うまでもないが、そうでなくとも自決する、と。大した理由もなく人ひとり殺して、己がのうのうと生き続けるわけにはいかない。しかし、お前を巻き込むわけにもいかない。捕らえられるにせよ自決するにせよ、お前だけは巻き込めない。だから離縁する、と」
「………」
「私はもちろん、最後までお供します、と言った。仮にも、五年も野村の人間として生きてきたんだから。けれど、あの人は決してうんとは言わなかった。お前には、してもらわなければならないことがあるんだからと言って」
「してもらわなければならないこと?」
千鶴の顔が歪んだ。
声の震えが強くなる。
「もし…もしも俺が腹を切ることになったとしたら、介錯を小野田正太郎に頼みたいと…もし正太郎どのが俺の首を斬ってくれたら、すべてを話してもらいたいと…お前の口から語ってほしいと言って…」
なぜ、と眉を潜めた。
なぜ俺だったら、千鶴がすべてを語らなければならないんだ。
特に野村と親しかったわけではない。
なのに、なぜ。
そこで、千鶴の涙は溢れ出した。
もう止められぬとばかりに、次から次へと頬を滑り落ちていく。
「あの人は、こうも言った。互いが互いを好きになれればよかったって…あの人が私を、私があの人を…そうすれば、どんなによかっただろうって…私もそう思ってる。あの人を好きになれればよかった。でも、私たちはお互いを見ることができなかった。二人とも、反対を見ることしかできなかったの」
泣きじゃくる千鶴を前に、なぜか鼓動が早くなる。
それでも、急かすことはできない。
「私たちは夫婦という仮面を被った、友達だった。しかも、これ以上ないほどにいい友達だった。お互いが似たような恋に身を焦がしていたからよ。だからあの人は、私にすべてを託したの」
千鶴の瞳が上がる。
潤み、しかし、鋭い光を放つ目に、捕らえられる。
正太郎はごくりと生唾を飲み込んだ。
――食われてしまう。
そう、感じた。
「俺たちは似た者同士だ。だが、俺はもう力尽きた。だから、似た者同士のお前には叶えてほしい。俺の分までとは言わぬ。お前は、お前の恋をまっとうしろ。ただし、小野田正太郎が俺の介錯を務めてくれるのならば、だ。もし小野田正太郎が俺の介錯を務めないというのなら、お前は彼に嫁いではいけない。それも、約束してくれ」
言葉の羅列に、頭の中をかき混ぜられる。
思考が停止しかけ、呼吸が荒くなる。
まさか、と思った。
彼女の言葉を聞いて、もうどうしたらいいのか分からない。
そうよ、と千鶴は低く呟いた。
「私は…私はね、ずっとあなたのことが好きだったの。でも容ちゃんのことがあって、私は別の人に嫁いでしまった…諦めかけた時に、あの人は教えてくれたのよ。俺には好いた女子がいるって。だから私も思い続けることができた。嫁ぎ先があの人でなければ、とっくの昔に諦めてるわよ。でもあの人がいたから…だからあなたを好きでいられたの。なのにあの人は…」
その続きは、もういらなかった。
いわば、千鶴にとって同士と言っても過言ではない野村は、己の恋に散っていった。
なのに千鶴は、野村に幸せになれと言われてしまった。
彼の死の上で。
なんと重く、酷い使命だろう。
そんなこと知るかと、突っぱねることもできたろうに。
なのに彼女は受け止めた。
一生背負っていかなければならない重石を抱いたのだ。
「私も後を追えればよかった…だけど、できなかった。いいえ、追わなかった。そうしようと思えばできたのに、死ななかった。私は結局、あなたを選んでしまったの。あの人を見捨ててしまったのよ!」
千鶴が叫ぶ。
それは、獣の咆哮にも似ていた。
正太郎はぼんやりと気付く。
タカが言った虎とは野村のことではなく、千鶴のことであったのだと。
「私はひどい妻だった…あの人を裏切って、あなたを取ってしまった…でも仕方ないじゃない。どうしてもあなたと一緒になりたくて…残酷なことでも、あなたに頼まなきゃならなかった…鬼でもしないようなことを私は」
「もう言うな」
正太郎とて泣きたい気分だった。
思いもよらない話に、動悸がしているくらいだ。
「それ以上はもうやめてくれ」
「正ちゃん…」
正太郎は立ち上がった。
風に当たってくる、と部屋を出る。
下に降りると、タカが一人で酒を飲んでいた。
ちらりとこちらを見て、しかし何も言わない。
正太郎はそのままたかの屋を出た。
外は少しだけ風が吹いているが、生ぬるい。
湿気を存分に含んだ風だった。
ふらふらとおぼつかない足取りで、すぐ近くの橋に向かう。
たかの屋の店先に灯った、提灯の明かりだけを頼りに。
川の水がさあっと流れる音が聞こえ、正太郎は欄干にもたれた。
どうすればいいんだ。
野村の切望、千鶴の覚悟。
それぞれの思いを、一気に乗せられてしまった。
重いため息をつくものの、それは風がさらっていってしまう。
「わけ分かんねえよ」
そう呟いたとて、それさえも風が運んでいってしまうのだから仕方がない。
一寸先は闇。
それは確かにそうだった。
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