しばらくして二人が辿り着いた先は、何の変哲もない、料亭だった。

おそらく二階は座敷になっているのだろう、上から三味線の音が聞こえてくる。


――鐘がぼんと鳴りゃ消え失せるのさ

夜と一緒に酒と恋


芸者だろうか。

女の艶やかな唄声。

ベベンと、目が覚めるような三味線の音。


正太郎と和泉は容之進たちがそこに入っていくのを見て、顔を見合わせた。


「金は?」

「持っちゃいねえな」

「だと思った」


和泉が袖を振る。

すると、何やら微かに重い音がした。


「つい昨日、お店の大旦那からもらったのさ。今後もよろしゅうってな」

「その店は繁盛するに違ぇねえな」


にやっと笑い、和泉は「行こう」と正太郎を引っ張った。


「いらっしゃいませ」


二人が中に入ると、女たちの明るい声に出迎えられた。

外からはあまり分からなかったが、この店はなかなかに繁盛しているらしく、話し声や笑い声が、方々から聞こえてくる。


二人はさっと店内に目を走らせ、先ほどの一同が奥まった所にある座敷に座っているのを見つけた。

そして、彼らからほどよく離れた座を素早く確保する。

座敷は衝立で仕切られており、おそらく彼らがこちらに気付くことはないであろう。


「おい、聞こえるか」


和泉がそっと正太郎に尋ねる。

彼は全神経を耳に集中させ、微かに頷いてみせた。


「ヒロの声が高くて助かった。なんとか聞こえる」

「…ああ、これか」


和泉は容之進の声を喧騒の中から拾い上げたらしく、口元が引き締まる。

二人は側を通りかかった奉公人らしき女を捕まえ、飯と味噌汁、そして焼き魚を頼むと、黙り込んだ。


「…同士集めはどんな風ですか」


容之進の声。

それに対し、誰かが低い声で答える。


「なんとも言えぬな。どうやらあちらも薄々感付き始めたらしい」

「感付き始めたとは、どのように?」

「おそらくまだ我々には辿り着いておらんが、そういう者たちが所々で集まっている、くらいには知っているだろうよ」


そこで、また一人違う声が入ってきた。

神経質そうな、おどおどした声だ。


「まずいのではあるまいか?」

「おぬしはまた…いい加減、覚悟を持ってもよい頃だぞ。それに、いずれこうなると分かっていてこちら側に付いたんだろうに」

「それはそうだが…」

「まあまあ、お二方。身内で争われることもあるまいて」


またもや新しい声だ。

この男が頭格なのか、声に統制者特有の余裕が窺える。


「我らは言わば、こちら側の中枢ともなるべき存在だ。その我々が結束せねば、他の者たちが怯える。何しろ敵はひどく巨大なのだからな」

「…敵って、なんでえ」


目を細め、和泉が呟く。

どうやら彼も、何やら不穏な雰囲気を感じ取ったらしかった。

正太郎は人差し指を唇に当て、再び耳をすませる。


落ち着きのある声は、淡々と続けた。


「世はもはや、崩れ始めている。それは皆が知っている通りだ。それは一体誰のせいだ?」

「決まっておる。異国よな」


野太い声が答える。


「それもあるだろう。だが、その異国から逃げ続け、挙げ句の果てに乗っ取られそうになっているのは誰だろう?」


一瞬、すべての音が排除された。

ただ、少し離れた座敷だけに神経は集められる。


この答えを、正太郎は知っていると思った。


そして、彼は弟の声を聞く。


「もちろん、幕府です」


体中から力が抜ける。

耳に、雑音が戻ってくる。


正太郎は密やかなため息をついた。


折も悪く、「お待たせいたしました!」と料理が運ばれてくる。


「…ありがとう」


ほかほかと、温かそうな飯に湯気を立てた味噌汁。

少し焦げ目のついた魚の虚ろな瞳が、恨めしげに妙な方向を睨み付けている。

和泉の前にも同じものが並べられた。

二人は目を見合わせる。


「聞いたな?」

「ああ」

「ちっとまずいな」

「まずいどころかよ」


額に手をあてる和泉。

先ほどまでとは打って変わって、真剣な表情だ。


「おめえも聞いてるのか?」


正太郎が問うと、和泉は箸を持った。

そして、魚の目を潰す。


「…報告しろってやつかい」

「そうだ」

「聞いてる」


正太郎も、箸を手にした。

味噌汁を乱暴にかき混ぜる。

豆腐とにんじん、油揚げ、そして細かく刻まれた葱が渦を巻いて浮かび上がった。

それから恐る恐る椀に口を付ける。


「あつっ」


案の定、舌に痺れるような痛みを感じる。

いつもなら和泉に「猫舌め」とからかわれるところだが、今日は静かなままだった。


「どうするんだ」


魚の身をほぐしながら、そう尋ねる和泉。

急激に食欲が失せていくのを感じながら、正太郎も口を開く。


「とりあえず、あいつが帰ってくるより先に帰らねえと」

「だな」

「それから、刀の手入れをして、杉浦さまに借りた書物を読んで…」

「正太郎」


和泉の少々つり上がった目が、正太郎を射抜く。


「どうするんだ?」


喉仏が上下するのが、自分でも分かった。


「あいつのしようとしていること…はっきりしたこたぁ分からねえが、それはお上を謀ろうってえ腹なんじゃねえのか。いや、謀る、じゃ甘いか。潰そうとしてんじゃねえのか」

「………」

「だとしたら、あいつは間違いなく獄門台だ。いいとこ切腹か永蟄居か…そうなりゃ、小野田家全体に火の粉はかかるぞ」


そこで、和泉は頭を抱えた。


「この間言ってたこと、まさか本気だったなんてよ…青い戯れごととばかり思ってたのに」

「まさか忘れたわけじゃあるめえ」

「は?」

「クソ真面目なんだよ、ヒロは」


容之進は冗談など言わない。

いつも本気で、どこまでも一本気な男だ。

からかいがいのないやつよと白い目で見られることもあるが、そのおかげで養子の話はいくつもある。

いくら兄が軽薄だろうと、次男では跡を継ぐことはできないのだ。

そのことについては、僅かながら正太郎も気にかけてはいた。

できるだけいい話を彼に持っていってやりたい。

それは父である政之助も同じ想いのはずだった。

とはいえ、容之進には同心よりも高位の家からの話も来ている。

それはひとえに、彼の努力と人柄が呼んだ結果だ。

だが、容之進の思想が露見してしまえば、もはやその成功は瞬く間に泡となるだろう。

そう考えれば、兄として弟を説得せねばならないと思うのだが…


「説得…できるかなあ」


その口調には、戸惑いと焦りがない交ぜになっている。


「幕府を敵だなんて…あんな堂々と言いやがって」

「怖ぇな」

「ほんとだよ。誰か聞いてたらどうすんだ」

「事実、俺たちが聞いてるしな」

「どうにかしてあの一味から足を抜かせてえが…」


正太郎が肘をつく。

すると、和泉は少し考えた後、頭を振った。


「無理だ」


だよな、と正太郎も頷いた。


彼はすっかり消えてしまった食欲を取り戻そうとしているのか、しきりに味噌汁をかき混ぜている。

具が浮かんでは沈み、旋回する。

しばらくそれを眺めていると、酔いそうになった。

気分が悪い。


「…報告は」


埜左衛門に言われた、いわば密告の。


「しねえさ」


するわけ…できるわけがねえ。


正太郎の問いに、和泉は目を伏せたまま答えた。


目をこする正太郎。

眠いわけではない。

これが現か、少し疑わしくなっただけだ。


自分には関係ないと思っていたのに。

埜左衛門の話を聞いた時は、物騒な話だと思っただけだった。

なのに。


思わず舌打ちをしそうになる。


俺にどうしろってんだ。


このままでは容之進自身も小野田家も、ただ破滅への道を真っ直ぐに進むだけである。

なんとか食い止める方法を見つけなければ。


二人は半ば放心しながらも、できるだけ急いで食事を済ませた。

味も分からず、食感も分からず、終えた後は食べたかどうかさえもはっきりしない、そんな食事になってしまったが、二人はもう、耳をすませようとはしなかった。

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