三
しばらくして二人が辿り着いた先は、何の変哲もない、料亭だった。
おそらく二階は座敷になっているのだろう、上から三味線の音が聞こえてくる。
――鐘がぼんと鳴りゃ消え失せるのさ
夜と一緒に酒と恋
芸者だろうか。
女の艶やかな唄声。
ベベンと、目が覚めるような三味線の音。
正太郎と和泉は容之進たちがそこに入っていくのを見て、顔を見合わせた。
「金は?」
「持っちゃいねえな」
「だと思った」
和泉が袖を振る。
すると、何やら微かに重い音がした。
「つい昨日、お店の大旦那からもらったのさ。今後もよろしゅうってな」
「その店は繁盛するに違ぇねえな」
にやっと笑い、和泉は「行こう」と正太郎を引っ張った。
「いらっしゃいませ」
二人が中に入ると、女たちの明るい声に出迎えられた。
外からはあまり分からなかったが、この店はなかなかに繁盛しているらしく、話し声や笑い声が、方々から聞こえてくる。
二人はさっと店内に目を走らせ、先ほどの一同が奥まった所にある座敷に座っているのを見つけた。
そして、彼らからほどよく離れた座を素早く確保する。
座敷は衝立で仕切られており、おそらく彼らがこちらに気付くことはないであろう。
「おい、聞こえるか」
和泉がそっと正太郎に尋ねる。
彼は全神経を耳に集中させ、微かに頷いてみせた。
「ヒロの声が高くて助かった。なんとか聞こえる」
「…ああ、これか」
和泉は容之進の声を喧騒の中から拾い上げたらしく、口元が引き締まる。
二人は側を通りかかった奉公人らしき女を捕まえ、飯と味噌汁、そして焼き魚を頼むと、黙り込んだ。
「…同士集めはどんな風ですか」
容之進の声。
それに対し、誰かが低い声で答える。
「なんとも言えぬな。どうやらあちらも薄々感付き始めたらしい」
「感付き始めたとは、どのように?」
「おそらくまだ我々には辿り着いておらんが、そういう者たちが所々で集まっている、くらいには知っているだろうよ」
そこで、また一人違う声が入ってきた。
神経質そうな、おどおどした声だ。
「まずいのではあるまいか?」
「おぬしはまた…いい加減、覚悟を持ってもよい頃だぞ。それに、いずれこうなると分かっていてこちら側に付いたんだろうに」
「それはそうだが…」
「まあまあ、お二方。身内で争われることもあるまいて」
またもや新しい声だ。
この男が頭格なのか、声に統制者特有の余裕が窺える。
「我らは言わば、こちら側の中枢ともなるべき存在だ。その我々が結束せねば、他の者たちが怯える。何しろ敵はひどく巨大なのだからな」
「…敵って、なんでえ」
目を細め、和泉が呟く。
どうやら彼も、何やら不穏な雰囲気を感じ取ったらしかった。
正太郎は人差し指を唇に当て、再び耳をすませる。
落ち着きのある声は、淡々と続けた。
「世はもはや、崩れ始めている。それは皆が知っている通りだ。それは一体誰のせいだ?」
「決まっておる。異国よな」
野太い声が答える。
「それもあるだろう。だが、その異国から逃げ続け、挙げ句の果てに乗っ取られそうになっているのは誰だろう?」
一瞬、すべての音が排除された。
ただ、少し離れた座敷だけに神経は集められる。
この答えを、正太郎は知っていると思った。
そして、彼は弟の声を聞く。
「もちろん、幕府です」
体中から力が抜ける。
耳に、雑音が戻ってくる。
正太郎は密やかなため息をついた。
折も悪く、「お待たせいたしました!」と料理が運ばれてくる。
「…ありがとう」
ほかほかと、温かそうな飯に湯気を立てた味噌汁。
少し焦げ目のついた魚の虚ろな瞳が、恨めしげに妙な方向を睨み付けている。
和泉の前にも同じものが並べられた。
二人は目を見合わせる。
「聞いたな?」
「ああ」
「ちっとまずいな」
「まずいどころかよ」
額に手をあてる和泉。
先ほどまでとは打って変わって、真剣な表情だ。
「おめえも聞いてるのか?」
正太郎が問うと、和泉は箸を持った。
そして、魚の目を潰す。
「…報告しろってやつかい」
「そうだ」
「聞いてる」
正太郎も、箸を手にした。
味噌汁を乱暴にかき混ぜる。
豆腐とにんじん、油揚げ、そして細かく刻まれた葱が渦を巻いて浮かび上がった。
それから恐る恐る椀に口を付ける。
「あつっ」
案の定、舌に痺れるような痛みを感じる。
いつもなら和泉に「猫舌め」とからかわれるところだが、今日は静かなままだった。
「どうするんだ」
魚の身をほぐしながら、そう尋ねる和泉。
急激に食欲が失せていくのを感じながら、正太郎も口を開く。
「とりあえず、あいつが帰ってくるより先に帰らねえと」
「だな」
「それから、刀の手入れをして、杉浦さまに借りた書物を読んで…」
「正太郎」
和泉の少々つり上がった目が、正太郎を射抜く。
「どうするんだ?」
喉仏が上下するのが、自分でも分かった。
「あいつのしようとしていること…はっきりしたこたぁ分からねえが、それはお上を謀ろうってえ腹なんじゃねえのか。いや、謀る、じゃ甘いか。潰そうとしてんじゃねえのか」
「………」
「だとしたら、あいつは間違いなく獄門台だ。いいとこ切腹か永蟄居か…そうなりゃ、小野田家全体に火の粉はかかるぞ」
そこで、和泉は頭を抱えた。
「この間言ってたこと、まさか本気だったなんてよ…青い戯れごととばかり思ってたのに」
「まさか忘れたわけじゃあるめえ」
「は?」
「クソ真面目なんだよ、ヒロは」
容之進は冗談など言わない。
いつも本気で、どこまでも一本気な男だ。
からかいがいのないやつよと白い目で見られることもあるが、そのおかげで養子の話はいくつもある。
いくら兄が軽薄だろうと、次男では跡を継ぐことはできないのだ。
そのことについては、僅かながら正太郎も気にかけてはいた。
できるだけいい話を彼に持っていってやりたい。
それは父である政之助も同じ想いのはずだった。
とはいえ、容之進には同心よりも高位の家からの話も来ている。
それはひとえに、彼の努力と人柄が呼んだ結果だ。
だが、容之進の思想が露見してしまえば、もはやその成功は瞬く間に泡となるだろう。
そう考えれば、兄として弟を説得せねばならないと思うのだが…
「説得…できるかなあ」
その口調には、戸惑いと焦りがない交ぜになっている。
「幕府を敵だなんて…あんな堂々と言いやがって」
「怖ぇな」
「ほんとだよ。誰か聞いてたらどうすんだ」
「事実、俺たちが聞いてるしな」
「どうにかしてあの一味から足を抜かせてえが…」
正太郎が肘をつく。
すると、和泉は少し考えた後、頭を振った。
「無理だ」
だよな、と正太郎も頷いた。
彼はすっかり消えてしまった食欲を取り戻そうとしているのか、しきりに味噌汁をかき混ぜている。
具が浮かんでは沈み、旋回する。
しばらくそれを眺めていると、酔いそうになった。
気分が悪い。
「…報告は」
埜左衛門に言われた、いわば密告の。
「しねえさ」
するわけ…できるわけがねえ。
正太郎の問いに、和泉は目を伏せたまま答えた。
目をこする正太郎。
眠いわけではない。
これが現か、少し疑わしくなっただけだ。
自分には関係ないと思っていたのに。
埜左衛門の話を聞いた時は、物騒な話だと思っただけだった。
なのに。
思わず舌打ちをしそうになる。
俺にどうしろってんだ。
このままでは容之進自身も小野田家も、ただ破滅への道を真っ直ぐに進むだけである。
なんとか食い止める方法を見つけなければ。
二人は半ば放心しながらも、できるだけ急いで食事を済ませた。
味も分からず、食感も分からず、終えた後は食べたかどうかさえもはっきりしない、そんな食事になってしまったが、二人はもう、耳をすませようとはしなかった。
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