正太郎、尾ける
一
それから五日ほど経ったある日。
正太郎と和泉は、屋敷から出ていく容之進を物陰からこっそりと窺っていた。
「行くか?」
「行くか」
二人は頷き合い、距離を取って彼の後をつけていく。
辺りは暗くなり始めていた。
雲の多い日だったせいか、夕日はない。
ただ、落ちていくように暗くなっていく。
青みがかった薄闇の中を、容之進が一人、提灯を手にして歩いていた。
正太郎と和泉は、その後をこそこそと尾行していく。
というのもここ数日、容之進は夕方頃になると、毎日どこかへ出掛けていくのである。
容之進は兄と違い、ふらふらと夜に出歩かない質だ。
自室の行灯の明かりの下で、書物を読む。
それが容之進の、夜の日課である。
そんな弟が、いそいそと浮き足立って出掛けていく。
正太郎が訝しむのは、当たり前だった。
ということで「兄として弟が一体何をしているのか知らねばならない」と正太郎は言い出し、和泉は和泉で「幼馴染みが何か危険なことに首を突っ込んではいないか知らねばならない」と妙な理屈をこね出したものだから、二人は互いに口端を上げ、尾行を決行することになったわけである。
「どこに行くんだろうな」
十分な距離を取り、抜き足差し足でその後ろ姿に首を捻る和泉。
容之進のまだ幼さを存分に残した姿は、意気揚々と誇らしげに見える。
「愚問だな」
正太郎は鼻で笑い、和泉を横目で見た。
「…女か?」
「それ以外に何かあるか」
「男かも」
「…それは兄として、ちゃんと性癖を知っておく必要があるな」
咳払いを一つ。
しかし、それは案外暮れかけてきた空によく響く。
二人は慌てて近くの路地に身を潜めたが、どうやら容之進が気付いている様子はない。
二人は同時に息をつき、再びそろそろと歩き出した。
昼間よりいくらか熱気が抜けた空気が、今度は肌をべたつかせる。
布が密着している腕や股が、気持ち悪い。
「行水してえなあ」
正太郎が天に向かって呟くと、カラスが「カァ」と返事をした。
「友だちかい?」
和泉がからかう。
その背中に、強烈な平手が打ち込まれた。
「いってえっ」
「それにしてもヒロの野郎、どこに行く気なんだ」
「おい、俺の痛みは無視か?」
「ふざけたこと抜かすからだろ。自業自得だね」
「ちぇっ…ヒロ、吉原に行くわけじゃあなさそうだな」
三人――正しくは一人と二人――は、いつの間にやら町中に入っていた。
そこは、吉原へ続く道とは真逆の方向だ。
商家の並ぶ通りで、小料理屋や居酒屋も多い。
軒先の提灯に、すれ違う人々の疲れきった顔が浮かび上がる。
そんな彼らに、影はない。
夕日が出ていたら綺麗だったろうな。
正太郎は取り留めもなくそんなことを思った。
夕日に照らされた影は特別だ。
地面に長く伸び、歪と言ってもいいほど奇怪で濃くなる。
まだ童だった頃、その様がおもしろくていつまでも遊んでいた。
和泉や千鶴、そして幼かった容之進の手を引き、お互いの影を踏んで笑っていた。
しかし、その光と影はすぐに失われてしまったものだ。
世界を橙に染め上げる柔らかな光は、いつまでも続かない。
闇に覆われる前の、束の間の幻想なのだ。
そう悟ったのは、前髪が取れた頃だっただろうか。
正太郎は大きく息を吸った。
やだね、過去を振り返ったりして。
柄にもなく郷愁を感じたりする自分が、恥ずかしくなる。
今の方が、こんなにもおもしろいってのに。
正太郎は、足取りの軽い弟の背中を見てにやりと笑った。
二人は容之進の姿を見失わないよう、慎重に進んだ。
「女じゃねえってんなら、どこでえ。まさか陰間茶屋じゃねえだろうな」
正太郎がいささか不安そうな声を出すと、今度は和泉が鼻を鳴らした。
「分からねえぞ。確かこの先に一つ、待合茶屋があったはずだ」
「おいおい、本気じゃねえか」
「ヒロだって十七だからな。立派な雄さ」
二人は迷いのない足取りを追っていく。
すると、一軒の店の前で容之進が止まった。
「隠れろっ」
二人はまたもや慌てて物陰に隠れる。
しかし、やはり彼は脇目も振らず、そこに入っていった。
彼が完全に中に入ったのを確認し、正太郎と和泉は小走りに容之進が立っていた場所に向かう。
これといって特徴のない、地味な構え。
和泉はぽかんと口を開けた。
「待合茶屋だ」
ただでさえ大きな正太郎の目が、さらに大きくなる。
「本当かよ?」
「同心仲間が通ってるとこさ。間違いねえ」
「相手は誰だ?」
「知るか。いやあ、まさか本当だったなんてぇな」
「あいつ、真面目なツラしやがって、なんでえ」
「人間って、分からねえもんだな」
肩をすくめる和泉。
そして、「で」と正太郎を見やった。
「どういたしますかな、兄上どの」
「どういたしますも何も…なあ」
へへっ。
舌なめずりをする。
「格好のネタじゃあねえかい」
「だよな」
かくして二人は、近くの小料理屋で容之進が出てくるのを待つことにした。
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