「はあ…ご報告を?」


南町奉行所にて。

正太郎は、和泉と千鶴の父でもあり先輩でもある埜左衛門と書類の処理をしながら、とぼけた声を出した。

今月は北町の当番のため、特にすることがないのである。

そのため、二人は大して重要とも言えぬ書類仕事を、だらだらと片付けていた。


埜左衛門はぺらぺらと紙を捲りながら、「うむ」と頷く。


「近頃、徳川の世を終わらせようという動きが出ているらしくてな、これはまだ正式なお達しではないのだが、もしそのような者を見かけたら報告せよとのことだ」

「そのような輩がいるのでございますか」

「らしいな。わしは見たことも聞いたこともないが、上にはいろいろな情報網があるのだろう」

「左様ですか」


ま、俺には関係ねえか。


正太郎はそう思った。

埜左衛門と同じように、今初めてそんな話を耳にしたし、これからも遠い噂話としてしか聞くことはないだろう。

そういえば容之進が何やら言っていたが、まさか実行するなんてことはあるまい。


埜左衛門もさして気にも止めていないらしく、何やら書類に向かって眉をしかめる。


「なぜこんな所に遺産相続の訴訟などがあるのか…町名主の仕事だろうに」

「へえ。穏やかじゃありませんね」

「どうやら隠居したお店の主が、死んだら金をすべて妾にやると言っているらしい。よほど惚れているらしいな」


にやりと彼は笑い、ぽんとその書類を放り出した。


「悪いが、町名主にこれを届けておいてくれるか」

「はい」

「届けてくれれば、そのまま帰ってよいぞ」

「分かりました」


返事をし、正太郎は立ち上がる。

そしてその書類を懐に突っ込んだ。

「それでは」と頭を下げ、正太郎はその場を後にする。


外に出ると、ぎらめく光が容赦なく彼を照らした。


「あっちいな」


屋内にはなかった明るさに目を細め、正太郎は歩き出す。

その頭に、蝉の声がジジジジ、と降りかかった。

姿は見せず、なのに声だけはどんなものよりもかしましい虫に向かって、うるせえなあと小さく文句を言ってみる。


ふと、生ぬるい風が吹いた。

土埃が舞い、僅かに視界が霞む。

汗ばんだ額や首に細かな粒子がくっつき、撫でるとざらりとした感触がする。


夏だった。


正太郎が着ているのはもちろん夏物ではあるが、腰に帯びた刀のせいで暑さを倍に感じる。

余分なものをくっつけるようになって、早二年。

ようやく左にだけかかる重さにも慣れてきたが、やはり歩く時は邪魔で邪魔で仕方がない。


正太郎は汗の垂れる首を無造作に拭った。


「正ちゃん」


ふと、後ろから声を掛けられる。

足を止め振り返ると、何やら風呂敷を抱えた千鶴が小さく手を振っていた。


「何やってんだ、こんな所で」

「今から野村さまの所に行くの」


おすそわけに、と千鶴は言う。


「野村さまって、北町のだよな」

「ええ」

「おめえの遠い親戚の」

「そうよ」

「…方向、真逆じゃねえか?」


正太郎がそう言うと、千鶴は周りに人がいないのを確認して、ぺろりと舌を出した。

こんなところを彼女の母親にでも見つかれば、「武家の女子が、はしたない」と小言が飛んでくることだろう。

実際、そんな場面をいくつも見てきている。

正太郎は思わず苦笑いしてしまった。


「野村さまの屋敷は八丁堀だよな。俺たちと同じ」

「そうねえ」

「道草などしててよいのですかな?母上に叱られまするぞ、千鶴どの」

「だって、嫌なんだもの」


おどけたように、その剃刀のあてられた眉をひょいと上げる千鶴。

それから彼女は「はい進んで」と手を振った。

まるで犬にするようにである。

正太郎は小さく息を吐くと、くるりと前を向き、再び歩き始めた。

その数歩後ろを千鶴がついていく。


「なんで嫌なんだ」

「だって…あそこの奥さま、私が行く度にじろじろ見てくるのよ。値踏みするみたいに」

「おめえ、何かやったんじゃねえのか」

「まさか。ちゃんといい子にしてます」


後ろからくすくすと笑い声が聞こえてくる。

それを背中で聞き、正太郎はなんとなく胸がこそばゆくなった。

意味もなく鼻に皺を寄せ、千鶴の方に顔を向けないまま、問う。


「野村さまってのは、どんな方なんでえ」

「真面目なお方よ。お優しいし、誰かさんとは大違い」

「おい、俺は優しいだろうが」

「あら、私は正ちゃんだなんて言ってないけど」

「かわいくねえなあ」

「ふふん」

「ふふんって」


他愛もない会話。

その合間に聞こえてくる足音から、その歩幅が小さいのが分かる。


速いか。


そう思い、正太郎は歩く速度をやや緩めた。


「それにしてもおめえ、まさかついてくる気か?」

「問題でもあった?」

「まあ、ねえっつったら嘘になるわな」


町名主の所に行くだけなのだが、女連れではなんとなくこっ恥ずかしい。


そんなことを思う正太郎に気付いたのか、「大丈夫」と千鶴は明るい声を出した。


「私、外で待ってるもの」

「いつになるか分からねえぞ」

「脅しね」

「こんなに暑いんだぜ。ぶっ倒れる」

「その時は助けてくれるでしょう」


立ち止まる。

振り返ると、千鶴が悪戯っぽく笑っていた。

まったく、と首の後ろを掻く。


「自信家だな」

「まさか。信じてるだけよ」

「俺を?」

「あなたを」


束の間、二人は互いを凝視した。

黒目がちのその目に何やら真摯なものが隠されているような気がして、正太郎は少しだけ狼狽えてしまう。

しかし、その狼狽えは決して決まりの悪いものではない。


蝉が囃す。


各々が好き勝手に喚いているだけなのに、どこかまとまって聞こえるのはどういうわけだろう。


「…行くぞ」


正太郎はそう言い、再び歩き始めた。

その後を、千鶴がついていく。


まったく。


汗を拭いながら、彼は考える。


まったく、妙なことを言いやがる。

大体、武家の女が気軽に男に話し掛けるって、どうだよ。

しかもついてくるなんて。

いや、別に、俺は気にしねえけどよ。

うん、気にもなんねえがな。


正太郎はそう思いつつも、背中が妙に強張っているのを感じた。

うっかりすると速くなってしまいそうな足を、なだめなだめ町中に入っていく。

閑静な武家屋敷を抜け、多少は人通りのある道に入ると、そこかしこから風鈴の音が聞こえてきた。

ちりん、ちりりん、と微かに音の高さの違ういくつもの風鈴が、涼しげな音を立てる。

その上に、形容しがたい美しい鳥の声が重なった。


磯鵯いそひよどりね」


千鶴が言う。


「綺麗な声」

「よく分かるな」


本気で感心してしまう。

正太郎には、鳥の声など聞き分けできない。

千鶴は「そのくらい簡単よ」と、自慢げに言った。


「でも、磯鵯は春の鳥なの。なぜ今、鳴いているのかしら」

「誰かさんみてえにどっかずれてんだろ」

「私はずれてなんかいません」

「誰もおめえとは言ってねえぜ」

「嫌なやつ」


ははっと声をあげ、正太郎は一つの家の前で止まった。

広い玄関を開け放してあるその家こそが、町名主の家である。


「待ってな。すぐ戻ってくる」

「倒れさせないでね」


さあな、と返事をし、彼はその中に入っていった。

おとないを入れ、年配の町名主を玄関に呼び出す。

そして懐から先ほどの書類を出し、簡単に説明をすると、すぐに踵を返した。


束の間ではあったが、日の当たらない場所から出ると、途端に汗が滲み出てくる。

光は容赦なく顔や手の甲を焼く。


千鶴は道の向こう側で待っていた。

少し俯き、袖の袂で汗を拭っている。


その姿は発光していた。


たぶん、その理由を付けようと思えばできるのだろうが――例えば白い小紋を着ていただとか、肌が白いだとか――、そんなちんけな理由ではないだろう。


もっと、何か根源的なもの。

正太郎の目を捉えて離さない、光。


ただただそれは、眩しかった。


「ちづ」


囁くような声で呼んでみる。

正太郎の立っている場所から千鶴の場所までは、二丈ほどある。

ゆえに名を呼ぶ声は聞こえなかったはずだ。

なのに、彼女はぱっと顔を上げた。

桃と朱の間の色をした唇が、微かに弧を描く。


「本当に早かったのね」


正太郎が近付くと、彼女はそう言った。


「大した用じゃねえのさ」

「じゃあ、今度は野村さまの所ね」

「まさか俺についてこいと?」

「付き合ってあげたでしょう?」


ほら、と背が押される。

正太郎は苦く笑うしかなかった。

これは幼馴染みの気軽さ…とでも言うのだろうか。

思えば、襁褓むつきも取れぬうちからの付き合いなのだ。

二人の間に遠慮も外聞も、たぶん初めからなかったのだろう。


「早くしろよ。暑いんだから」

「野村の奥さまに言ってくれる?」

「やだね。おっかねえんだろ」

「そんなこと…あるけど」

「女同士の修羅場か。興味はあるがな」

「修羅場になんてなりません」

「どうだか」


正太郎はへっと鼻で笑い、元来た道を辿り始めた。

千鶴の視線を背に感じつつ、後ろを振り向かない。

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