三
――八年前。
歳三は、名の知れた大店である木綿問屋、通称亀店に、奉公に出ていた。
ここに来てもう数年とは言うものの、いまだ「奉公」には慣れない。
客と称する居丈高なやつらに頭を下げ、おもしろみの欠片も感じられない算盤を弾く。
なんとつまらないことか。
もともと歳三は、相撲やちゃんばらの好きな子供だった。
体を張る方が性に合っており、元来机の前に半刻と座っていられない性質である。
なのに…
思わず舌を鳴らした。
俺は、こんな所で燻っているような男じゃねえ。
常にそんな思いが胸の中にへばりつき、声高に叫ぶ。
絶対に、違う。
「歳三」
ふと、五十路間近の番頭が、店先の掃除をしている彼の所に顔を出した。
「掃除はいいから、蔵に行って品の確認をしてきておくれ」
「はい」
番頭はいくつかの品の名を歳三に告げ、中へと戻っていく。
歳三は無造作に箒を立て掛け、そのまま蔵の方へと向かった。
大店であるがゆえに亀店の敷地は広く、蔵は表から少し離れた所にあった。
そこに向かう途中、二人の女中とすれ違う。
そのうちの一人が流し目を送ってきたので、歳三はあるかなきかの笑みを浮かべて見せた。
この女とは、最近いい仲なのである。
とはいえ、歳三にしてみればただの退屈しのぎに過ぎないのだが。
蔵に着き、中に入るとそこは薄暗かった。
光が差し込む窓は一つしかない上に、品がこれでもかというくらいに高く積み上げられているからである。
歳三は番頭の言っていた品名を頭の中に反芻させ、きょろきょろと辺りを見回した。
「…情けねえなあ。悪党ってのは、もうちっとおつむの出来がいいと思ってたんだけどよ」
低い、掠れた笑い声。
誰もいないはずの蔵で、そんなものが聞こえてきた。
心の臓が驚いて、どっくんと鳴る。
歳三は束の間立ち竦んだ。
しかし、すぐに品と品の間を抜け抜け、声の主を探し始める。
引き返した方がいいと分かってはいるのだが、人間、好奇心には勝てぬもの。
彼は足音を殺し、慎重に蔵の中を探し回った。
その間も、声は続く。
「おめえさんのお頭、いってえどんなツラしていやがるんだい?ぜひとも拝んでみたいもんだねえ。こんな下っ端を下見に送ってくるたぁ、ずいぶんとお粗末じゃねえか」
「な…なんのことやらさっぱり…」
今度は上擦った声である。
どうやらもう一人いるらしい。
「なめた務めの的にされちまうたぁ、天下の亀店も形無しだねえ。仮にも大店なんだ、もうちっと計画を練った方がいいんじゃねえか」
「…早く戻らねえと」
そう聞こえた瞬間、歳三は蔵の一番奥に男が二人いるのを見つけた。
一人は背が高く、一人は低い。
高い方は背をこちらに向けて低い方の胸ぐらを掴んで壁に押し付けているため、顔は見えなかった。
低い方の顔は、こちらを向いている。
その面構えには見覚えがあった。
最近入ったばかりの奉公人だ。
歳三は高ぶる気持ちを抑え、品と品の間からこっそりと二人を伺う。
「戻る?どこに。旦那さまの所にかい。それともお頭の方かな」
小男は無言で自分を押さえつけている手を振りほどき、その傍らを過ぎようとした。
だが、ぎらりと何かが煌めく。
次の瞬間、男は「ひっ」と小さく悲鳴を上げていた。
「おっと悪い。うっかりしちまった」
いっそ優しげとも言える口調とは裏腹に、背の高い方のその手には、抜き身の匕首が握られていた。
しかもそれは、小男の鼻先に突き付けられている。
歳三はごくりと生唾を飲み込んだ。
「だがなあ、おめえさん、往生際が悪すぎるぜ。あんまりしらばっくれるようだと」
ペタ、ペタ。
刀の平たい場所で、小男の頬を軽く叩く。
それだけで、彼の顔から血の気が引いていった。
「その目がこの世を拝めるのは最後になっちまうかも」
「しっ…知らねえ!俺は何にも知らねえ」
「強情だな」
男は再び笑う。
歳三は、その恐ろしさに身震いした。
何なんだ、この男は。
「ここで洗いざらいしゃべっちまった方が楽だってこと、分かってるはずなんだがなあ」
彼はまだ口を開こうとしない小男にしびれを切らしたのか、男の頬から刀を離すと、今度はその手を取った。
怯えた男はなされるがまま。
「どうせおめえさんは、俺に喋ることになるんだぜ。そうなったら、仲間んとこ戻ったって…なあ?心配だねえ。俺はこの指が心配だよ。十本お揃いなのは、今日が最後かもしれないねえ」
その言葉を聞いた途端、小男は「ぎゃっ」と叫んで、へなへなとその場に崩れ落ちてしまった。
どうやら失神したらしい。
男は無言でその姿を見下ろすと、匕首を鞘に戻した。
彼が何をしようとしたのか、この目で実際に見たことがなくても、歳三には理解できる。
拷問だ。
おそらく、指を一本ずつ切り落とそうとでもしていたに違いない。
「張り合いがねえなあ…まあこんなもんか。お前もそう思うだろ?」
不意に男がこちらを向いた。
あまりに突然すぎたため、歳三は思わず品の城を倒してしまう。
派手な音を立てて、それらは床に転がった。
「あーあ。何やってんだい、トシ」
「なんで俺の名前…あっ」
あっと叫ぶしかなかった。
こちらを見て笑っているのは紛れもない、手代仲間の鷹次だったのだ。
ぽかんと口を開けてしまう。
「なんでえ、もしかして俺だってことに気付かなかったのか」
「あ、ああ…でも…あ、いや…うん」
ただ、狼狽する。
なぜ、だが、やっぱり、でも。
恐ろしさに驚きが混じり、歳三は混乱の極みにあった。
小首を傾げ、妖しく微笑むタカ。
彼はゆっくりと歳三に近付いてくる。
思わずじりじりと後退する。
嫌だ、近付いてくるな。
そう、本能が喚く。
しかし、タカは近付くのをやめない。
とうとう歳三は、ぺたりとその場に座り込んでしまった。
もう限界だった。
「あのさあ」
歳三の目の前でしゃがむタカ。
笑ったままのその目は冷たい。
「できれば黙っててもらえると嬉しいんだけど」
反射的に頷く。
もとより口外するつもりはなかった。
こんなことを言っても、歳三が笑われるだけだろう。
「色男なのに堅気で、しかも穏やかなあのタカさんが、そんなことするわけない」
と。
そのタカは、やはり笑んだまま、「よし」と立ち上がった。
「とりあえず、片付けねえとな。あーあ、こんなにしちまって…さっさとやろうぜ」
ほらよ、と手が差し出される。
先ほど、小男に刀を突き付けた手だ。
掴んでも、大丈夫なのか。
そう、逡巡するけれど、掴まないわけにはいかなかった。
なぜなら、見てしまったからである。
知ってはならない一幕を。
「どうした?早く片付けちまわねえと、あの番頭さんに怒られるぜ」
「…ああ」
そして歳三は意を決し、震える手をその冷えた手に乗せた。
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