旦那、聞く
一
翌日、いつもより半刻も早く目を覚ました正太郎は、さっさと朝飯を済ませ、町へと繰り出していた。
また新しい日を迎えた江戸の町は、活発に蠢いている。
欠伸を噛み殺しながら小走りに駆けていく棒手振り、暖簾を外に出している番頭らしき老人、店先を箒で掃いている丁稚。
空はお世辞にも晴れているとは言いがたいが、それでもその光を時々地上へと届ける。
正太郎は急ぐでもなくゆっくりするでもなく、小さく土を踏みしめながら試衛館までの道を歩いていた。
――おうめが下手人って線はほとんどねえ…が、他に女が絡んでなけりゃ、おうめの周りをさらうしかねえな。
懐手をし、やや俯きながら考える。
おうめに絡んだ殺しだとすれば、そう、おうめに懸想している男の仕業だと考えるのが妥当だ。
しかも下手人は少なからず剣を知っている者。
つまり、武家の者に違いない。
しかし、絞り出すには時間がかかりそうだ。
何しろ、茶屋の看板娘を目当てにしている客は多い。
様々な男がおうめに気があるに違いない。
それに、毒についても調べなければならないだろう。
一体、どんな毒が使われているというのか。
すぐに分かればいいが…
「やること多いよなあ」
思わずそうため息をついてしまう。
「まったくな、お役人は大変だよなあ」
思いがけない所からしみじみとした返事をもらい、正太郎ははたと足を止めた。
右を向く。
「おめえ、なんでいるんだ」
片眉を吊り上げる正太郎。
そんな彼を見てふふっと笑うのは、タカである。
彼はいつもと同じ黒い着流しを着て、門に寄りかかっていた。
どこの門かと思いきや、それは試衛館のもの。
どうやら考え事をしているうちに、いつの間にか目的地に着いたらしかった。
「暇潰しにさ。旦那こそ、なんでこんな所にいるんだい」
「俺の勝手だろ」
「へえ」
にやにやとタカは笑う。
正太郎は束の間口を尖らせるものの、すぐにすました顔をして「じゃ」と手を上げた。
「俺はここに用があるんでね」
「奇遇だなあ、旦那。俺もここに用があるんだよ」
「何が奇遇だこのやろう。てめえ、やっぱり俺を張り込んでたな」
「俺の勝手だろ?」
くすりと一笑され、正太郎は長い長いため息をついた。
どうにも、タカには勝てないようである。
正太郎はぶすっとしかめっ面でその門をくぐると、裏庭へと回った。
もちろんタカも付いていく。
「一」
「一」
「二」
「二」
「三」
「三」
数を数える野太い声が、束になって聞こえてくる。
正太郎は草履を脱いで、縁側に上がった。
ひょいと道場の中を覗くと、二十人前後の門弟たちが、一番前で竹刀を振っている土方の掛け声に合わせて素振りをしているのが見える。
まだ稽古は始まったばかりのようだ。
「朝っぱらからよくやるぜ」
「同感」
正太郎の、呆れと感嘆が混じった呟きに、彼の後についてきたタカも頷く。
「だからなんでついてくんだ」
「だから俺の勝手だって」
「禅問答じゃあるめえし、ちっとはまともな返事をしやがれってんだよ」
「ふふん」
暑苦しい試衛館でも艶やかな笑みを保ったままのタカには、余裕が伺える。
否、余裕しか伺えない。
正太郎はまたもや顔をしかめると、「そういえば」と手を打った。
「おめえ、確か土方と知り合いなんだよな」
「奉公先が同じだっただけさ」
「似たようなもんだろ。とにかく、俺は総司たちの報告を聞かなきゃなんねえから、おめえの相手はしてやれねえんだ。暇人の誰かさんとは違ってな」
「寂しいねえ」
「そこでだ。昔の馴染みとちょちょっと積もる話でもしてきちゃあどうだ」
正太郎の、「する話はたくさんあるだろ?」というしたり顔を前に、タカは肩をすくめた。
「そりゃあ、そうしてえのは山々なんだが…」
「はあ?」
そう続けようとした時、ふと掛け声が止んだ。
と同時に、「旦那」と声が掛かる。
総司だ。
彼は土方の隣、門弟たちの前で竹刀を振っていた。
「おう。なんだ、やめるこたぁねえのによ。ほら、土方がいやーな顔してるぜ」
「だって視界に入られたら気になって気になって。あ、タカもいるじゃないですか」
ガタッ。
誰かが何かを踏みつける、大きな音がする。
その「誰か」は土方で、「何か」は床に置かれていた面だった。
その場にいた者は一斉に彼を見る。
「………」
苦い表情を浮かべる土方。
彼がこんなに狼狽するのは珍しい。
そして、その目はやはり…
「久しぶりだな、トシ」
にこりと微笑むタカに注がれていた。
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