三
「そもそも、池田から白粉の匂いがするってこと自体がおかしかったんだ」
正太郎は肘をつき、顔の前で指を組み合わせていた。
たった今、利吉を手下の所へ走らせたばかりである。
しかし、頭数は変わらなかった。
正太郎と総司が留守の間に、タカがやってきていたのだ。
彼は定位置にいたが、珍しくその手に煙管はない。
「だから言ってんだろ。池田さんはそんな人じゃないって」
平助が眉を寄せ、そう言う。
正太郎は首を振った。
「もし滝川の言っていたことが間違いじゃなかったとしたら、池田という男は大した狐なんだよ」
「何なんですか。もったいぶらないでください」
正太郎を見つめ、急かす総司。
彼は正太郎に残れと言われたにも関わらず、たかの屋に戻ってきてしまっていた。
「いいか」
下唇を舐め、正太郎が口を開いた。
「俺は何かがおかしいと思ってた。白粉の匂いがしたってえ所が、やけに引っ掛かって仕方がなかった。それが何なのか、おうめに会ってようやく分かったんだよ」
「何だよ?」
「おうめは白粉を付けてねえんだ」
一瞬の沈黙。
その後で、総司が手を打った。
「確かに」
「おうめは地で白い。それにまだ若ぇから、白粉なんざ付ける必要がねえんだ。俺は前に一度おうめに会ってる。その時もあいつは白粉を付けちゃいなかった。だから違和感があったんだ」
「じゃあどういうことだよ。池田さんが他の女と会ってた…ってことになるのかよ」
平助の言葉に、正太郎が頷く。
「しかも、だ。道場に行く前に会っていたとすれば、もう日は高ぇ、少なくとも吉原や女郎屋で付けた匂いじゃねえはずだ。仮にそうだとしても、道場に行く前に湯屋へ行くなり行水するなりするもんだろ、普通。十中八九、あいつは堅気の女と会っていた…しかも白粉の匂いを消す暇がないほど、ギリギリまでな」
そこで、正太郎は口を閉じた。
一気に喋ったせいか、口がひどく乾く。
彼は一の前にあった湯飲みを掴むと、一気に飲み干した。
冷めた茶が、喉に心地よい。
それから、試衛館三人組を見回した。
一は目を伏せ、平助は落ち着きがない。
総司も何か考えているようだ。
正太郎はふうっと息を吐いた。
「問題は、相手が誰か、だ」
再び話し始める。
「でも、探しても出てこなかったんでしょう」
総司が冷静にそう呟く。
しかし、正太郎にというよりは自分に向けて言っているようだ。
それを見て、妙な満足感を得る。
どうだ、総司?
やつの面にひびが入って、その下にあるもんが存外醜いもんだと知った気分は?
それでもお前は、お前が知ってる池田を守ろうと必死に足掻いてんのかい?
そう嘲る自分に気付く。
歪んだ満足感だ。
「まあな。だけど、分からねえよ。うまく隠してるのかもしれねえ」
正太郎は何食わぬ顔でそう言い、頬を掻いた。
先ほど利吉に「もう一度池田の身辺を洗え」と言って、送り出した。
誠実で、真面目で、誰からも慕われる好青年。
そんな男の表面が、僅かながらもべろりと剥がれたのである。
逃すかよ。
「旦那」
ふと、店の隅から掠れた声。
小首を傾げたその男は、机に突っ伏すように腕に頭を乗せ、しかし顔だけはしっかりと正太郎に向けて微かに笑っていた。
「笑ってるぜ」
「俺が?」
思わず頬に手をやる。
タカに指摘されるまで、自分が笑っていたことに気付かなかった。
「心底嬉しいってツラしてやがらあ。いや、むしろ安心した…そんな感じかな」
タカを見返す。
正太郎の目は僅かに見開かれていた。
――なぜ、分かったのだろう。
心の底の本心。
ああ良かった、池田は完璧な人間なんかじゃねえ。
あいつはただ、周りを騙すのがうめえだけじゃねえか。
そんな本心。
それが、なぜタカなんかに。
「嬉しいって…旦那、どういう意味だよ」
すかさず平助が突っかかる。
「そう目くじらを立てるんじゃねえよ。タカの野郎が勝手に言ってるだけじゃねえか」
鬱陶しそうにしっしっと手を振る正太郎。
平助はそれでもやはりこちらを睨み付けたままだ。
あのなあ、と正太郎は目を半分閉じた。
「いくら俺だって、楽しいだなんて思わねえさ。人が死んでんだしな。ただ」
ふふっ。
タカが笑う。
その含み笑いを聞き、正太郎の胃は不快に捻れた。
「てめえはさっきから何なんだ。何がおかしい」
しかし、彼は答えない。
その何もかもを見透かしたような笑みに、体を掻きむしりたくなるほど苛々する。
「鷹次」
あえて彼の名を呼ぶ。
それでもタカは笑んだまま。
「あんまりふざけるなよ」
「ふざけてなんかないさ。むしろふざけてるのは旦那だろ?」
「なんだと?」
彼を殴ろうとうずうずする右手を必死になだめ、正太郎はタカを睨む。
「俺がふざけてるだって?どこが。言ってみやがれ」
「言うまでもねえや」
くすくすくすくす。
心底面白そうに笑う。
正太郎は怒りを通り越して、そら恐ろしくなった。
こいつは一体、何者なんだ。
「タカ」
誰かが笑い続ける彼を呼ぶ。
それは正太郎でも総司でも、一でも平助でもない。
弥吉であった。
少し離れた所で一同の会話を黙って聞いていた彼が、たしなめるように言う。
「いい加減にしときな。いくら何でも突っ込みすぎだぜ」
「おめえには関係ねえ」
タカも言い返す。
「関係なくはねえ。ここは俺の店だ。あんまりギスギスされると、他の客が寄り付かなくならあ」
「ギスギス、ねえ…それは旦那だけだぜ。俺ぁ、至って冷静だ」
確かに。
正太郎は心の中で頷く。
確かにこいつは冷静だ。
挑発し、相手を高ぶらせ、なのに自分は決して笑みを崩さない。
誰なんだ。
今まで気にしても仕方がないと割り切っていたが、ここにきてその疑問は頭をもたげる。
俺にばかり突っかかってくるのは、どういうわけがあるんだ。
「…おめえは町人。だが旦那はお侍なんだ。身分をわきまえな。そして、忘れるな」
ふいっと弥吉の視線がタカから外れる。
あいよ、と忠告された本人は肩をすくめた。
正太郎は眉を寄せ、目を湯飲みに落とした。
空の湯のみの底には、茶の代わりに闇が溜まっている。
「しかし、その女は本当に事件に関わっているのでしょうか」
ぽつりと一が話を元に戻す。
その言葉で一同は我に返った。
「ひた隠しにしなきゃならねえような女だ。まずい相手なんだろうよ、たぶん。それに、それ以外で池田について手掛かりがねえんだ。しがみつくしかねえだろう」
四の五の言っている場合ではないのだ。
正太郎は少し焦っていた。
これはただの殺しなんかじゃないと同心の勘が喚いているのである。
このままずるずる引っ張ってしまうと、取り返しのつかないことになるのでは、という危機感がある。
「そうですね」
ゆっくりと総司も頷いた。
「これしか頼みの綱がないんです。賭けるしかない。このまま旦那に協力し続けると、僕の知っている池田さんがいなくなってしまいそうですが…」
総司は瞳を上げ、一と平助を見つめた。
「一度乗り掛かった船ですから」
「皮が剥がれるぜ。きれいにな」
念を押す正太郎。
巻き込んだのは彼だ。
総司はにっこりと笑った。
「きっと、快感でしょうね」
正太郎は少し驚く。
彼の中にも、自分と似たものがあるのだと知り。
「おい、俺も続けるぜ」
「同じく」
一も平助も、手を挙げる。
彼らはいまだ複雑そうな表情をしながらも、決心したらしかった。
三人はここで降りるかもしれないと思っていた正太郎だが、彼らを見回し、「よし」と手を打った。
「じゃあ、おめえらももう一度、試衛館のやつらに聞き込みをしてくれ。よくよく聞くんだぜ。聞いたことは、些細漏らさず俺に伝えろ」
「はい」
三人は頷く。
その様子を、タカは恐ろしいほど静かに観察していた。
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