三
その頃、利吉は道場と母屋の間にある中庭で小さく驚いていた。
「これは…清乃さんが?」
「はい」
照れたように微笑む清乃。
さほど広くはないその庭。
そこは道場のすぐ横にあり、門弟たちの声も大きく聞こえてくる場所だった。
庭を横切れば、母屋にたどり着く。
母屋への道には、飛石が埋め込まれてあった。
そして、その両脇には色鮮やかな花々。
配色や配列にもこだわっているのだろう、ささやかだが見事な景色だ。
「きれいですね。こんなにするには大変だったでしょう」
利吉は感嘆の声を上げる。
清乃は首を振った。
「花が好きなので…苦にはなりません」
清乃はつとしゃがみ込み、すぐ側に植わっている桃色の可憐な花を撫でた。
彼女の手の動きに合わせ、それはお辞儀するように揺れる。
「枯れないように適当な水を毎日与え、草を抜く。父は面倒だからやめておけと言うのですが、私にとっては楽しみなのです」
慈愛に満ちたその瞳。
それは優しく、そして女の顔そのものだった。
利吉は少しの間、その姿に見とれる。
「…あ」
ふと、庭の隅に黄色い花が植わっているのを見つけた。
「清乃さん、あれはこの間来た時、床の間に飾ってあった花でやすね」
花弁が重なりあい、可憐に咲いている。
ひっそりとしたその風情は、まさしく清乃のようであった。
「ああ、それは福寿草です」
「福寿…なんだか幸せな名前ですね」
「そうでしょう?正月に飾ったりするんですよ」
「へえ、あっしの家じゃあやりやせんなあ。毎年毎年、近所の連中と飲めや食えやの騒ぎでやす」
ふふっと彼女は笑う。
そして、「行きましょうか」と歩き出した。
と、そこへ正太郎がやってくる。
「旦那」
「おう。なんだ、花なんて親分に似合わねえな」
にやりと笑う正太郎に、利吉は「旦那にだけは言われたかねえんですが」と返す。
清乃は軽く頭を下げた。
「まったく、なんで旦那はそう、嫌みしか言えねえんで」
「仕方ねえだろう、性格だ」
「ちったあ直さねえと、貰い手がなくなりやすぜ」
「貰い手ってなんでえ。嫁になるわけじゃあるめえし、むしろこっちが貰ってやるんだぜ」
「旦那みてえな方に娘を嫁がせるような、酔狂な親御さんがいればいいんですがね」
「おめえなあ…最近ますます遠慮っつうもんが見えねえぜ。どこに置いてきちまったんだい」
くすくす。
ふと、二人の間に鈴の音のような笑い声が割って入った。
清乃である。
「お二人は仲がいいんですね」
仲が良いと評された二人は目を見合わせ、首を捻った。
「仲がいいだってよ、親分」
「すいやせん、吐きそうです」
そう言って、利吉は顔をしかめる。
内心ではそんなに嫌がってはいないのだが、なぜだかそれを表に出すのは憚られた。
正太郎といえば、にやにやしているだけである。
利吉は不意に不安になった。
いつか二人が別れる時──それは利吉が手札を返すか、正太郎が利吉をお払い箱にするか、またはどちらかが死ぬかのどれかだろうが──、正太郎は自分のことを使い捨てのように突き放すのではないのか。
同心と岡っ引きという、切っても切れないはずの縁を躊躇なく切り捨て、じゃあなと簡単に赤の他人に成り下がらせてしまうのではないか、と。
…馬鹿か、俺は。
そんなことを考えた自分を恥じ、利吉は一瞬目を瞑った。
何を今さら。
はなっから分かりきってたことじゃねえか。
十の歳の差。
親子というには近すぎ、兄弟というには離れすぎている主。
あくまで、仕事の関係なのだ。
それでも。
それでも、いつまでも旦那の下で働いていたいと思っちまうのは、どういうことだろうな。
いい主とは口が裂けても言えぬ、小野田の旦那の下で。
真実解せぬものは、己の感情なのかもしれない。
「親分、何神妙な顔してんでえ」
正太郎がいつものように懐に手を突っ込む。
「清乃が案内してくれるってよ。行こうぜ」
ぽん。
利吉の肩に手を置き、そのまま通りすぎていく正太郎。
利吉は、僅かに左肩が下がっているその背中を見る。
しかし、正太郎はこちらを振り向くことはない。
この方は…
利吉は小さく息をついた。
この方はたぶん、寂しさや後悔を受け付けないのだ。
怒りは覚えるだろう。
苦しみや反感も、感じるだろう。
だが、身を切るほどの寂寞や思わず蹲ってしまうほどの悔恨ははねつけるのだ。
いないやつはいないやつ。
過去のことは過去のこと。
纏わりつくんじゃねえ、と。
無理やりにでも前を向き、断固として拒絶する。
たとえぼろぼろに傷つこうとも、いや、傷ついているからこそ、そこから遠ざかっていく。
なるほどな。
利吉は突然、理解した。
なるほど、適材適所ってわけだ。
同心に必要なもの、不必要なもの。
切り離さなければならない情を切り離し、持つべき目を持つ。
正太郎は見事にそれらを兼ね備えている。
しかし、それは時として、人として必用なものが欠けてしまうことでもある。
そして、彼自身もそのことに気が付いているのではないか。
分かっていて、抜け出せずにいる。
――なんてこった。
利吉は嘆きたくなった。
自分より若い主を思って。
まさか、彼がずっとこうだったわけではあるまい。
何かがあったのだ。
何かが。
そしてそれは、この間の女と関係している。
間違いなく。
「親分」
ふと、正太郎が振り返った。
そのことに、少なからず驚く。
「行こうぜ」
「…へい」
利吉は返事をし、いつものように彼の半歩後ろに収まった。
どうしたらいいか分からないほどの絶望を、その背中に見出しながら。
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