以前ここに来た時とは違い、まず慎士館の稽古場へと案内してもらう。

古い造りの道場ではあるが、そのどっしりとした老木のような雰囲気は試衛館にはないものだ。

空気も歳を取る。

おそらく慎士館は、それなりに由緒ある道場なのだろう。


「やああっ」

「きぇいっ」


空気を裂く竹刀の音。

こもった熱気。

数十人の門弟が揃って竹刀を握っている点については、あの若い道場と何ら変わりはない。

正太郎と利吉は、その光景を戸口から見ていた。


「ふーん、みんな結構熱心だな」

「父が厳しい訓練をする人ですので、本当に剣術を学びたい方しか残っておられないのです」


清乃がそう答える。

正太郎は再度「ふーん」と鼻で返事をした。


「さてと」


首の辺りをカリカリ掻きながら、正太郎は清乃に向き直る。


「お前さんの父上ってのは、あの、一番奥で稽古を見ている男かい?」

「ええ」

「そんじゃ、ちょっくら挨拶してくらあ」

「え?あ、あの」


清乃が慌てて正太郎を呼び止めようとした時には、彼はすでに道場内に足を踏み入れていた。

利吉はというと、珍しく主に付いていこうとせず清乃に笑いかける。


「ご心配には及びやせんよ、旦那のことは。ということで、あっしには道場以外の場所の案内をお願いできやすか」


はあ、と訝しげに頷き、ちらりと正太郎の方を見ると、彼女は利吉に先立って案内を続けようと戸口から離れていった。

利吉はちらりと正太郎を見て、その後に続く。

正太郎はその様子を目の端で捉えると、練習している門弟たちを眺めながら、鷹揚として道場主である滝川の元に向かった。


彼は仁王立ちで竹刀を床に突き立てている。

蓄えた髭もふさふさした眉もほとんど白く、眉間には一本の縦皺。

とはいえその体はしゃんと伸び、年相応の衰えを感じさせなかった。

正太郎がすっと横に立つと、彼はその強面をじろりとこちらに向ける。


「いい道場だな」


口端を上げ、刀の柄に手を掛ける正太郎。


「…入門希望者ですかな」

「いんや。ちっとばかし聞きたいことがあってよ」


束の間、二人は互いを凝視した。

それだけで、滝川は正太郎がどういう者か分かったらしい。

少しだけ口元を緩めると、再び前に向き直った。


「どういうご用件で」

「池田ってやつのことだ」

「ああ…よくうちに来ていた」

「そう、その池田だ。あいつが殺されたってのは、知ってるか?」

「噂で聞き申した。何やら背中に傷を付けられていたとか」


滝川の口調に侮蔑がこもっている。

どうやら彼も、背中の傷については侍として一般的な感情を抱いているらしい。


「それそれ。そのことなんだがよ」


すうっと空気を吸い込む正太郎。

体の中に、新鮮とは言い難い生ぬるい空気が入ってくる。


「その背中の傷…おめえさん、何か心当たりはねえかい」

「どういうことですかな、それは。私が付けたとでも?」

「違う違う」


ふっと笑いながら、正太郎は軽く手を振った。


「言うなれば、池田に悪意を持っていた人間を知らねえかってことを聞きてえのよ」

「なるほど」


しばし沈黙。

しかし、その間も床は絶えず振動している。


ドスン、ダン、ダン。


「池田は、筋が良かった。だが、それを鼻に掛けたりしているのは見たことがありませんな。明るく愛嬌があって、ここでも人気者であった」

「…恨まれる筋合いはねえやつってか」


また。


正太郎は失望した。

またここでもこんな情報しか得られない。


「ただ…」


滝川は続ける。


「これは私個人が気になったことだが、一度、あいつから微かな白粉の匂いがした時があった」

「白粉?」

「大したことではないかもしれんが…その時はやけに気になったから、覚えている」


眉をひそめる。


「それはいつ頃だ?」

「確か、一月も前ではなかったと思うが…」


彼は微かに顔をしかめ、そう言った。


――白粉。

それは女が付けるもの。

ということは、池田は慎士館に来る前、おうめと会っていたのだろうか。

しかも、白粉の匂いが体に移るほど身を寄せ合って。


「分かった、ありがとうよ。あと、ついでにその辺をうろうろさせてもらうがいいよな」


礼を言った後に、有無を言わさずそう許可を求める正太郎。

しかし、滝川は小さく頷いただけで、返事はしなかった。


「それじゃ」


正太郎は短く挨拶をし、その場を後にする。

滝川に背を向け、眼光鋭く門弟たちを見回しながら。

すると、彼に気付いた一人の門弟がこちらに近付いてきた。


「正太郎どの」


面を被ったその男は朗らかに声を掛ける。

正太郎は横から聞こえてきた声に、ぴたりと足を止めた。


「野村さま」


さも驚いたという風に、軽く目を見開く。

男は面をすっぽりと取った。


「久しぶりだな」


面の下から出てきたのは、優しげな顔をした、二十代半ばほどの男だった。

中肉中背で、高い頬骨が印象的だ。

しかしそれ以外は平凡な顔立ちで、これといって特筆すべき特徴はなかった。

この男こそが、総司がぼろくそに批判した野村武之助である。


「今日はお役目か」

「はい。例の事件のことで」

「ああ、池田の」


目を伏せ、痛々しそうな表情をする野村。

死者を悼む目付きだ。


「南町の方でもやはり噂になっていますか」


正太郎は薄く笑いながらそう尋ねる。

野村の表情には頓着しない。


「もちろんだ。まあ、もし噂になってなかったとしても個人的に気になるさ。何せ、義父どのが見込んだ男の初めての捕り物だからな」


正太郎の顔が、笑んだまま固まった。


野村は、埜左衛門の一人娘である千鶴の婿である。

埜左衛門には二人の子供がおり、そのうち兄の和泉が埜左衛門の跡を継いでいるというわけだ。

妹の千鶴は南町奉行所の与力である野村家に嫁ぎ、早五年が経った。


「見込まれるほどのものは、持ってなどございませぬ」


すぐに正太郎は照れ笑いを浮かべ、そう言う。

しかし、その心中は何を浮かべているのやら。

野村も破顔した。


「謙遜することはない。ところで、下手人の目処は立っているのか?」

「いえ、まだ。今聞き込み中でございますれば」

「そうか。頑張れよ」


再びすっぽりと面を被ると、彼は軽く手を上げ、するりと門弟たちの中に混じっていく。

そしてすぐに竹刀を構え、振り上げた。


踏み込みが甘い。


正太郎は胸の内でそう呟き、くるりと踵を返した。

来た時よりも、幾分その足取りは重く。

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