旦那、再始動


――昼八つ、慎士館前にて。


そう言付けを受けたのは、昨日の夕方だった。

久々の正太郎からの指示である。

だから利吉はこうして出張ってきたのだ。


ちょいと気まずい別れ方をしちまったが、やっぱりここは何事もなかったようにするもんだよなあ。


そんなことを考えつつ。

なのに…


「…旦那」

「なんだ」

「このにおいは何です」

「おっと」


現れた正太郎は、口に手を当ててへらへら笑ったのだった。

彼の頬はほんのり赤い。


「やっぱり親分には隠せねえや」

「そうと分かっていてこんな真っ昼間から飲んでたってえのか!」


思わず手下を怒鳴り付けるような口調になってしまう。

それほど正太郎は酒臭かったのである。


「これから慎士館に探りを入れようって時に…たかの屋でやすか?」

「いんや、和泉だ。あいつが一人酒は嫌だって駄々をこねたもんだからよ」

「夜ならいざ知らず、昼間の一人酒に寂しいも何もあるもんですかい!」


ガミガミと正太郎を叱る利吉。

まったく、俺の杞憂を返しやがれってんだ。


「ままま」


と正太郎は利吉の肩に手を置く。

その顔は、以前と何ら変わりのない同心、小野田正太郎のそれである。

酒臭いことを抜いて、だが。


「そうがなり立てなさんな。そりゃま、顔がちっとばかし赤いかもしれねえが…」

「ちっとばかし?」

「そう…あ、いや、多少な、多少」


利吉の目が据わる。

しかし、正太郎は何食わぬ顔だ。


「ご覧の通り、おつむの方は冷や水ぶっかけられたみてえにはっきりしてる。それにな、少しくらいこっちの隙を見せた方が、相手も油断してついぽろっと漏らしちまうってもんよ」


片目を瞑る正太郎。

確かに彼の足取りはしっかりしていたし、呂律が回っていないなどということもなかった。

利吉自身、彼がとんでもなく酒に強いことを知っている。

それでも、匂いは強かった。

昼休みに一杯、などとかわいいものではないのが、匂いから相手に伝わってしまう。


「本当に大丈夫なんで?」

「おうともよ。よし、そうしたら行きますか」


彼はにやりと笑うと、どっしり構えた門の前に立った。

そして、どんどんと拳で叩く。


「たのもー!」


すると、道場の方から一人の男が出てきた。


「…ったく、なんだって俺が――」


と言いかけながら門を開けに来たのは、誰あろう米澤であった。

彼はこちらに気付いた瞬間、顔を青くする。


「だっ、旦那!」

「よう」


至極ご機嫌に挨拶をする正太郎。


いってえどれだけ飲んだんだ。

旦那を酔わすには、酒樽一つだって足りねえだろうによ。


利吉はそう、心の中で毒づく。


「な、なぜ…まだ俺を…!」


じりじりと後ずさりをする米澤。

しかし正太郎はにこにこと彼に近付いていく。


「あーちげえちげえ。おめえのことなんざ、もう眼中にねえよ」


正太郎の言葉を聞いた途端、あからさまに胸を撫で下ろす米澤。

利吉が「小心者め」と苦笑いするのも無理はない。


「それなら今日は何ゆえに…」

「まあ、あれだな。聞き込みってやつさ」


正太郎にがっしり肩を掴まれ、米澤は身動きができない。

正太郎の口元にはうっすらとした笑みが。


「なあ米澤どの」

「な、なんでござろう」

「ちーっとばかし中を見学させてもらったって構やしないよなあ」

「いやその…ここは滝川どのの…」

「いいじゃねえか。ちょいと見て回るだけだからよ」

「そうは言っても…やはり某一人では…」

「どうぞ中へ」


ふと、か細い声が横から聞こえてきた。

誰かと思えば…


「清乃どの」

「中を回っていただいて構いません。わたくしがご案内いたしましょう」


道場主の娘にそう言われ、少々面食らう正太郎。

しかし、これで堂々と聞き込みができるというもの。

正太郎は米澤に回していた腕を解きながら、にやりと笑った。

その不敵な笑みは、やはり酒に呑まれてしまったそれではない。


「頼むぜ」

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