「まだ店は開いてねえぜ、お役人さんよ」


こんなに近くから声を掛けられるとは思っていなかったので、思わず半歩退いてしまう。

返事をした相手は、狭い店内にある一番隅の机に座っていた。

三尺と離れていない。


「…おめえさん、ここの主かい」


入り口に突っ立ったまま、かろうじてそう尋ねる。


薄い眉、薄い唇。

すうっと切れた目に、涙ぼくろが強い色気を添えている。

髪は結っておらず、肩の辺りで美しく流していた。

そんな男が長い指で徳利を持ち、ゆらゆらと揺らす。

それが、問いに対する答えだった。


正太郎は男の前にどかりと腰を下ろす。

利吉はその後ろに立ったままだ。


「店は開いてねえ。なのにお前さんは客としてここで飲んでるってか」

「ここの主人と懇意なんでね」

「なるほどな。お前さん、名前は」

「名乗るほどのもんじゃねえ、と言いたいどころだが、あいにくそんなもったいつけるほどのもんじゃあねえ」

「十分もったいつけてるぜ」


正太郎が言うと、男はくすりと笑った。

伏し目がちなのがなんとも艶かしい。


「タカだ」

「は?」

「名は鷹次。だがみんなはタカと呼ぶ」

「タカ…この店の名はたかの屋だよな」

「たまたまだ。偶然名前がかぶっちまっただけだ」


少し掠れた声。

なのに、どこか甘さを含んでいる。


花魁と並んでも、こいつぁ見劣りしねえぐれえのタマだな。


正太郎はなんだか、自分とは違う生き物を見ているような気になった。


「で、主人は?奥か?」

「…弥吉。呼んでるぜ」


そう大きい声ではないのに、奥からのそりとひょろ長い図体が出てくる。

彼は軽く頭を下げた。


「悪いが、まだ店は開いてねえんで。もう少し待ってもらわねえと」

「いや、この人はお役目で来たんだ」


思わずタカの方を凝視してしまった。

口元には微かな笑み。


ふと背筋が寒くなった。

野郎、何者だ。


「お役目?」


弥吉と呼ばれた主が警戒心を丸出しにして、正太郎を見下ろす。

彼も背は高い方だが、立っても弥吉には到底敵うまい。


「俺はなんにもしちゃいませんが」

「いや、お前さんのことじゃねえ。数日前、ここに米澤ってやつが来ただろう」

「米澤…」


弥吉は少し首を傾げる。

どうやら名前だけでは分からないらしい。


「ほら、徳利を床に投げ付けた」

「ああ」


弥吉の細い目がさらに細められた。

不意にくっくっと抑えた笑い声が聞こえてくる。


「なんでえ、タカ。人の店のもんが壊されたんだぜ。笑うんじゃねえや」


口を尖らせる弥吉。

しかし、本気で怒っている様子はない。


「あれはおかしかった。浪人風情のあの男だろ?一人で勝手にキレて、物に当たって…とばっちりを受けた相手にゃ同情したぜ」

「おめえもその場にいたのか」

「ああ。あんなおもしろいもん、今どき滅多なことじゃお目にかかれねえ」


正太郎と利吉は素早く顔を合わせる。

それから二人は少しだけ表情を引き締めた。


「米澤がどこのどいつか知ってるか?」

「知らないね」


あっさりと答えは返ってくる。

その顔にはすでに、穏やかな笑みが戻ってきていた。


「そうか」


正太郎は表情を変えることなく返事をした。

同じことを弥吉にも聞いてみるものの、首を振るだけだ。


じゃあ、もう用はねえな。


がたりと音を立て、立ち上がる。


「ありがとよ、邪魔したな。今度は客として来るぜ」


行こう、と利吉を促す。

すると、タカが「待ちな」と呼び止めた。


「条件によっちゃあ、探してやってもいいぜ、小野田の旦那」


足を前に出そうとしていた正太郎の体が固まった。

ゆっくりと得体の知れない男を見下ろす。


「おめえ…なんで俺のことを知っていやがる」

「さあね」


その唇が柔らかく弧を描く。

その瞳は正太郎を射抜いていた。


闇。


じっと見ていると、取り込まれてしまいそうな闇を湛えた瞳だった。


「条件ってのは、なんでえ」


気丈にも口を開いたのは、利吉だった。

タカの視線がそちらに移る。


「十両」

「は?」

「報酬十両で調べる」

「ふざけてんのか」


利吉の声に苛立ちがこもる。

正太郎が彼を制した。


「一介の同心にそんな大金が払えるとでも思ってんのか?そうだとしたらお前さん、えらく常識はずれだぜ」

「そう言うと思った」


くすりと笑い、ゆらりと立ち上がるタカ。

彼も正太郎と同じくらいの目線だった。

彼らに比べるといささか背の低い利吉は、一人劣等感を抱く。


「旦那、池田ってやつが殺された事件を追ってるんだってな」

「…耳が早ぇな」


正太郎は警戒を解かない。

タカはそんな彼に、少しだけ顔を近付けた。

妖艶な顔を。


「さっきのは、からかっただけさ。あんた、なかなかおもしろそうな男だから、手伝ってやる」

「ほう…随分と上から来るもんだな」

「タダだぜ。悪くはねえ話だと思うが」

「悪くは、な。だが、どう転んだって良いとは言い切れねえ」

「守りが堅いねえ。たまにはならずもんを使うってのも、いいんじゃねえか」

「単なるならずもんならとうの昔に使ってるさ。だけどおめえさんはどうもそういうのとは違うみてえだからな。こっちだって警戒もするさ」


タカは正太郎を見据え、ふんと鼻で笑った。

正太郎もにやりと余裕の笑みで返す。

しばらく沈黙が下りた。


「…報酬はこの店で一杯おごる。それで、どうだい」

「悪くねえ」


目の前で交わされた会話を聞き、利吉は先ほどと同じように驚愕の表情を正太郎に向けることとなった。


「いいんですかい?こんな信用できねえ男を…もしかしたら下手人かもしれねえんですぜ」

「おや、随分はっきりとものを言う親分だねえ」


そう言いながら、利吉を見下ろすタカ。

その暗い瞳に見据えられ、なぜだか胃のあたりがざわついた。

しかし、こんなことで引いていたら岡っ引きなど務まらない。


「旦那。さっきのガキどもといい、ちっと思慮配慮が足りなさすぎじゃあねえですかい」

「なんだい、さっきのガキってのは」

「試衛館のやつらさ」


正太郎はそう説明する。

すると一瞬、タカの目が伏せられた。


「試衛館ってえと…近藤か」

「知ってんのか?」

「いや、ちょいと知り合いがいるもんでね」


再び意味深な笑みを浮かべるタカ。

しかし正太郎は軽く首を傾げただけで、特に問い詰めなかった。


「まあいいや。そのうち使いっ走り三人も連れてくるからよ」

「楽しみだ」


じゃ、と手を上げる正太郎。

その横ではまだ文句を言い足りなさそうに、利吉がぶすっとしている。


「弥吉、邪魔したな。今度は客として来るぜ」


先ほどとまったく同じ台詞を言い、今度こそ本当に店を出る。

二人の背に「いつでもどうぞ」という声が掛かった。


ぴしゃりと戸を閉める。


外はすでに半分暗くなりかけていた。


「旦那」


そらきた。


正太郎はお小言を右から左へと受け流せるよう、耳の中に通路を作る。

案の定利吉は口早にまくし立てた。


「あんな怪しい男に助太刀してもらうなんて、何考えてるんですかい?旦那のこと知ってるようでしたし、危ねえ輩かも。旦那だけのことならあっしだっていつものこったと何も言いやしやせんけどね、今回はませた鼠たちの面倒も見なきゃならねえんですよ。分かってやす?」


正太郎は下唇を突きだしつつ、暮れなずむ空の下を歩き出す。

利吉もその後に続いた。

小言も続く。


「ガキどもを事件に巻き込むわ、怪しい話にほいほい乗っかるわ…杉浦さまや政之助さまがこのことを知ったら何とおっしゃるか」

「妥当だと言うぜ、きっと」

「都合のいいように考えないでくだせえっ」


ぴしゃりと障子を閉める時のような言いよう。

正太郎は無意識のうちに懐に手を入れた。

彼の癖だ。


「あっしだって何人か手下を抱えてるんですぜ。ろくにお手当てをもらえねえってのに、やつらは一生懸命働いてくれて…なのに何ですか。ぽっと出の素人に手伝えだって?人をバカにするのにもほどがありまさあ」

「うっ…心が痛むぜ、親分」

「存分に痛めばいいんです!大体、一人じゃ何にもできねえくせして一丁前の口をきくんですから」


もはや何も言い返せない。


ったく、これじゃあどっちが上なんだか…


ため息をつきたくなってくる。

しかし、ここは我慢だ。


正太郎はぶすぶすと遠慮なく耳を突き刺す言葉をなんとか流しながら、その日のお役目を終わらせたのだった。

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