利吉が去った後、正太郎は試衛館の門弟を引き連れ、道場内に侵入していた。

まだ建てて幾年も経っていないらしく、内装は明るい。

よく磨かれた床が、正太郎の足の下できゅっきゅっと音を立てた。


正太郎は引き連れてきた門弟たちを広い道場の真ん中に座らせ、上から睨み付ける。

門弟たちは何をされるのかと不安顔だ。

とはいえ、数名ばかりは違ったが。


「そんじゃ、池田ってやつについて教えてもらおうか」


正太郎がそう尋ねる。

だが、誰も口を開こうとはしない。

それも当然のことだった。

下手なことを言えば、自分がお縄にされかねない。


「すごくいい方でしたよ」


にこにこと先陣を切ったのは、総司である。

例の三人もまた、ちゃっかりとこの場に潜り込んでいた。


「剣の腕も立ち、頼りになるお方だった」

「そうそう。時には厳しく、時には優しく!尊敬してたよ」


一と平助も続く。

なぜ食客である彼らがはじめに口を開くのか少しばかり疑問だが、それを聞いた他の者たちもぽつぽつと口を開き出したので、文句は言わない。


「そうそう。いろんな話もしてくださった」

「指導は的確だったし、そろそろ免許皆伝だったのではないか」

「まだお若くて…それに、穏やかだったな」

「あの方に憧れて入門したやつも何人かいるぞ」

「あ、それは俺だ」

「見目もよくてなあ」

「まるで兄のように親身になって接してくれたなあ」

「小さな野花を見つけた時は、大事に育てろと言ってにこにこ笑っておられた」


等々。

一度勢いがついた一同は、先ほどまでが嘘のようにべらべらと喋り出し、気付けば一刻が経とうとしていた。

ともすれば拍手でも起こりそうな大絶賛の嵐の中、正太郎はほうほうの体で試衛館を抜け出し、自身番まで逃げてきたわけである。


「みんなが口々にやつを褒め称えるもんだからよ、俺も池田と友達のような気がしてきたぜ。なんだか悲しくなってきちまってよ」


と、おうめを見ながら冗談を飛ばす正太郎。

そして、ずずっと茶をすすった。


「ま、とにかく池田はいいやつなんだとよ。剣の腕前を鼻にかけるでもねえ、弱ぇやつをいじめるでもねえ。そりゃあまさしく仏のようだったとさ」


正太郎の口調はあっさりとしている。

だが、利吉は気付いていた。


「旦那」

「ん?」

「池田のことが嫌いですか」

「なんでそうなるかね」


くすりと笑う。

そして、あぐらをかいていた片方の足を立ててその上に肘を乗せた。

空中で微かに指が動く。


「好きも嫌いもねえよ。たった一刻前、知り合ったばっかだぜ。いや、俺が一方的に知っただけか」

「そりゃあね。けど旦那、嫌いでしょう」


利吉はその横顔を見つめた。

弛んだ皮も皺もない、若者だけが持つ美しい首筋。

その首がぴくりと動いた。


「嫌ぇじゃねえよ」


かったるそうに彼は呟く。


「虫酸が走るだけさ」


吐き捨てたわけでも、鋭く叫んだわけでもない。

なのにその声は真冬の川のように凍てついている。

利吉の背がすっと寒くなった。


…これだから怖ぇ。


普段はちゃらちゃらと適当に生きているように見えるがゆえに、時折見せるこの感情のない声音がひどく恐ろしい。


正太郎はおそらく「良い」というものが嫌いなのだ。

いや、正しくは「完璧」なものが。

本人に確認をしたことはないので確信は持てないが、数年もぴったりと張り付いていればそのくらいのことは分かる。

褒めそやされる者、称えられる者、粗の見えない者。

綻びも、ほつれもない人間。

時たまそのように見える者と出くわすと、彼は微かに笑うのだ。

ほとんど軽蔑と言っていいほど薄く。

それは目を凝らさないと見えないほどだったし、滅多に尻尾は出てこなかったが、利吉には分かった。

ああ、憎んでるんだ、と。


正太郎に何かあったのか、それとも元来の性質なのかは分からない。

薄く笑むことと少し饒舌になることを除けば、特段心配するようなことはないのだ。

しかし利吉は震えた。


もしこの方が感情を剥き出しにするようなことがあったら…

あの剣と相まって、何をしでかすか分からねえな。


「親分、さっきから何ぼーっとしてんだ。ほら、おうめが泣き止むぜ。さっさと話を聞いてこい」


正太郎はにやりと笑いながら利吉を前に押し出した。

こちらの思案など気付きもせぬ、いや気付こうともせぬ手つきだ。

利吉は小さく首を振り、眉をひそめた。


「なんであっしが。旦那の仕事でしょうが」

「無粋だねえ。いい女が気を許すのはいい男だけだって、世の相場だろ」

「………」


まったくもって意味の分からない理屈だが、悲しいかな、岡っ引きは同心に逆らえぬこのご時世。

利吉はしぶしぶとおうめに近付いた。


「…その、ちょいと聞きたいんだがね、おうめさん。お前さんと池田は――」

「親分さんっ」


それまで池田にしがみついていたおうめが、突然利吉に乗り換えた。

自分より十以上若い女子に抱き付かれ、利吉は戸惑う他ない。

正太郎がひゅうっと口笛を吹いた。


「あ、あの、おうめさん…」

「お願いします、親分さん!」


くりくりとした目のかわいい顔が、三十過ぎの男盛りに向けられる。

利吉の顔が、微かに色付いた。


「虎太郎さまを殺したやつを捕まえてください!」

「あ、いや、お、おうめさん…その、あっしらもそのつもりなんだがな…」

「親分さん!」


困った。

助けを求めるように、正太郎の方を見る。

しかし彼は、膝の上の肘に埋もれるようにして笑っていた。

小刻みに肩が震えている。


「旦那っ」

「親分、やっぱり仏の前でいちゃついてんじゃねえか」

「怒りますぜ!」

「おーこわ」


正太郎はやっとのことで立ち上がる。

その顔にはまだ笑みが浮かんでいた。


「おうめさんよ」


上から声を掛ける。

すると彼女は、顔だけを正太郎に向けた。


「おめえさんと池田は恋仲だったのかい?」

「…はい」


こくりと頷くおうめ。

「どんなやつだった」と正太郎が問う。


「とても優しくて…お茶を運んでくと、お前もどうだっていつも…」


再びその目に涙が盛り上がる。

正太郎は慌てた。


「そう泣きなさんな。それじゃ、あいつがどこの国出身か知ってるか?」

「詳しくは分かりませんけど…でも、上方の訛りでした」

「上方、ねえ」


上方の訛りならば特徴的だ。

それならば、池田のことを覚えている者が多いかもしれない。


「旦那…」


おうめがじりじりと正太郎に近付き始めた。

彼は顔を強ばらせる。


「な、なんでえ」

「お願いです、下手人を捕まえてください。あたしが、あたしが殺してやりますから!」


正太郎の、い草色の着流しの裾をおうめが掴む。

予想以上に強い力だった。

今度は正太郎が「親分!」と利吉に助けを求めるが、彼はおうめに乱された襟を直しているだけだ。


「殺してやるって…おめえ、それじゃあおめえさんが下手人になっちまう」

「いいんです、この人の仇を討てるなら…」


ここでも仇討ちである。

正太郎はため息をついた。


「頼むから死体ばっか増やすんじゃねえよ。どうせ下手人を殺した後、おめえさんも死ぬつもりだろ」

「………」


その顔が俯いた。

どうやら図星のようである。


おうめの手が正太郎の着物から離れた。


「俺は下手人を捕まえる。だがそれはお役目のためであって、おめえさんのためじゃねえ。だから下手人をお縄にしても、おめえさんに知らせはするが、引き合わせたりするつもりはない。そこんところを肝に命じときな」


彼女は何も言わない。

だが、正太郎はそれを肯定と受け取った。


「それじゃ、親分」


にっこりと笑う正太郎。

利吉は思わず身を引いた。

この笑みには、何かある。


「おうめを家まで送っていってやんな。それからまたここに戻ってこい」

「…へい」


にこにこ、にこにこ。

やれその笑顔が恐ろしい。


利吉は不安げに正太郎を見つつ、半ば放心状態のおうめを送っていくため、自身番を後にした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る