三
利吉が去った後、正太郎は試衛館の門弟を引き連れ、道場内に侵入していた。
まだ建てて幾年も経っていないらしく、内装は明るい。
よく磨かれた床が、正太郎の足の下できゅっきゅっと音を立てた。
正太郎は引き連れてきた門弟たちを広い道場の真ん中に座らせ、上から睨み付ける。
門弟たちは何をされるのかと不安顔だ。
とはいえ、数名ばかりは違ったが。
「そんじゃ、池田ってやつについて教えてもらおうか」
正太郎がそう尋ねる。
だが、誰も口を開こうとはしない。
それも当然のことだった。
下手なことを言えば、自分がお縄にされかねない。
「すごくいい方でしたよ」
にこにこと先陣を切ったのは、総司である。
例の三人もまた、ちゃっかりとこの場に潜り込んでいた。
「剣の腕も立ち、頼りになるお方だった」
「そうそう。時には厳しく、時には優しく!尊敬してたよ」
一と平助も続く。
なぜ食客である彼らがはじめに口を開くのか少しばかり疑問だが、それを聞いた他の者たちもぽつぽつと口を開き出したので、文句は言わない。
「そうそう。いろんな話もしてくださった」
「指導は的確だったし、そろそろ免許皆伝だったのではないか」
「まだお若くて…それに、穏やかだったな」
「あの方に憧れて入門したやつも何人かいるぞ」
「あ、それは俺だ」
「見目もよくてなあ」
「まるで兄のように親身になって接してくれたなあ」
「小さな野花を見つけた時は、大事に育てろと言ってにこにこ笑っておられた」
等々。
一度勢いがついた一同は、先ほどまでが嘘のようにべらべらと喋り出し、気付けば一刻が経とうとしていた。
ともすれば拍手でも起こりそうな大絶賛の嵐の中、正太郎はほうほうの体で試衛館を抜け出し、自身番まで逃げてきたわけである。
「みんなが口々にやつを褒め称えるもんだからよ、俺も池田と友達のような気がしてきたぜ。なんだか悲しくなってきちまってよ」
と、おうめを見ながら冗談を飛ばす正太郎。
そして、ずずっと茶をすすった。
「ま、とにかく池田はいいやつなんだとよ。剣の腕前を鼻にかけるでもねえ、弱ぇやつをいじめるでもねえ。そりゃあまさしく仏のようだったとさ」
正太郎の口調はあっさりとしている。
だが、利吉は気付いていた。
「旦那」
「ん?」
「池田のことが嫌いですか」
「なんでそうなるかね」
くすりと笑う。
そして、あぐらをかいていた片方の足を立ててその上に肘を乗せた。
空中で微かに指が動く。
「好きも嫌いもねえよ。たった一刻前、知り合ったばっかだぜ。いや、俺が一方的に知っただけか」
「そりゃあね。けど旦那、嫌いでしょう」
利吉はその横顔を見つめた。
弛んだ皮も皺もない、若者だけが持つ美しい首筋。
その首がぴくりと動いた。
「嫌ぇじゃねえよ」
かったるそうに彼は呟く。
「虫酸が走るだけさ」
吐き捨てたわけでも、鋭く叫んだわけでもない。
なのにその声は真冬の川のように凍てついている。
利吉の背がすっと寒くなった。
…これだから怖ぇ。
普段はちゃらちゃらと適当に生きているように見えるがゆえに、時折見せるこの感情のない声音がひどく恐ろしい。
正太郎はおそらく「良い」というものが嫌いなのだ。
いや、正しくは「完璧」なものが。
本人に確認をしたことはないので確信は持てないが、数年もぴったりと張り付いていればそのくらいのことは分かる。
褒めそやされる者、称えられる者、粗の見えない者。
綻びも、ほつれもない人間。
時たまそのように見える者と出くわすと、彼は微かに笑うのだ。
ほとんど軽蔑と言っていいほど薄く。
それは目を凝らさないと見えないほどだったし、滅多に尻尾は出てこなかったが、利吉には分かった。
ああ、憎んでるんだ、と。
正太郎に何かあったのか、それとも元来の性質なのかは分からない。
薄く笑むことと少し饒舌になることを除けば、特段心配するようなことはないのだ。
しかし利吉は震えた。
もしこの方が感情を剥き出しにするようなことがあったら…
あの剣と相まって、何をしでかすか分からねえな。
「親分、さっきから何ぼーっとしてんだ。ほら、おうめが泣き止むぜ。さっさと話を聞いてこい」
正太郎はにやりと笑いながら利吉を前に押し出した。
こちらの思案など気付きもせぬ、いや気付こうともせぬ手つきだ。
利吉は小さく首を振り、眉をひそめた。
「なんであっしが。旦那の仕事でしょうが」
「無粋だねえ。いい女が気を許すのはいい男だけだって、世の相場だろ」
「………」
まったくもって意味の分からない理屈だが、悲しいかな、岡っ引きは同心に逆らえぬこのご時世。
利吉はしぶしぶとおうめに近付いた。
「…その、ちょいと聞きたいんだがね、おうめさん。お前さんと池田は――」
「親分さんっ」
それまで池田にしがみついていたおうめが、突然利吉に乗り換えた。
自分より十以上若い女子に抱き付かれ、利吉は戸惑う他ない。
正太郎がひゅうっと口笛を吹いた。
「あ、あの、おうめさん…」
「お願いします、親分さん!」
くりくりとした目のかわいい顔が、三十過ぎの男盛りに向けられる。
利吉の顔が、微かに色付いた。
「虎太郎さまを殺したやつを捕まえてください!」
「あ、いや、お、おうめさん…その、あっしらもそのつもりなんだがな…」
「親分さん!」
困った。
助けを求めるように、正太郎の方を見る。
しかし彼は、膝の上の肘に埋もれるようにして笑っていた。
小刻みに肩が震えている。
「旦那っ」
「親分、やっぱり仏の前でいちゃついてんじゃねえか」
「怒りますぜ!」
「おーこわ」
正太郎はやっとのことで立ち上がる。
その顔にはまだ笑みが浮かんでいた。
「おうめさんよ」
上から声を掛ける。
すると彼女は、顔だけを正太郎に向けた。
「おめえさんと池田は恋仲だったのかい?」
「…はい」
こくりと頷くおうめ。
「どんなやつだった」と正太郎が問う。
「とても優しくて…お茶を運んでくと、お前もどうだっていつも…」
再びその目に涙が盛り上がる。
正太郎は慌てた。
「そう泣きなさんな。それじゃ、あいつがどこの国出身か知ってるか?」
「詳しくは分かりませんけど…でも、上方の訛りでした」
「上方、ねえ」
上方の訛りならば特徴的だ。
それならば、池田のことを覚えている者が多いかもしれない。
「旦那…」
おうめがじりじりと正太郎に近付き始めた。
彼は顔を強ばらせる。
「な、なんでえ」
「お願いです、下手人を捕まえてください。あたしが、あたしが殺してやりますから!」
正太郎の、い草色の着流しの裾をおうめが掴む。
予想以上に強い力だった。
今度は正太郎が「親分!」と利吉に助けを求めるが、彼はおうめに乱された襟を直しているだけだ。
「殺してやるって…おめえ、それじゃあおめえさんが下手人になっちまう」
「いいんです、この人の仇を討てるなら…」
ここでも仇討ちである。
正太郎はため息をついた。
「頼むから死体ばっか増やすんじゃねえよ。どうせ下手人を殺した後、おめえさんも死ぬつもりだろ」
「………」
その顔が俯いた。
どうやら図星のようである。
おうめの手が正太郎の着物から離れた。
「俺は下手人を捕まえる。だがそれはお役目のためであって、おめえさんのためじゃねえ。だから下手人をお縄にしても、おめえさんに知らせはするが、引き合わせたりするつもりはない。そこんところを肝に命じときな」
彼女は何も言わない。
だが、正太郎はそれを肯定と受け取った。
「それじゃ、親分」
にっこりと笑う正太郎。
利吉は思わず身を引いた。
この笑みには、何かある。
「おうめを家まで送っていってやんな。それからまたここに戻ってこい」
「…へい」
にこにこ、にこにこ。
やれその笑顔が恐ろしい。
利吉は不安げに正太郎を見つつ、半ば放心状態のおうめを送っていくため、自身番を後にした。
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