二
一刻後。
試衛館を出た正太郎は、自身番へとやってきていた。
池田の体は彼より先に運び込まれており、筵を掛けられて横たわっている。
正太郎は彼の側に座り込み、所在なさげに町代がついでくれた茶を口へと運んだ。
それにしても…
正太郎は筵から飛び出た足を見ながら考える。
どうしてこいつは殺されたのかね。
殺しには人の情が付いて回る。
憎しみ、嫉妬、恨み、怒り、はたまた愛情。
そんな、どんよりと重苦しいものが付いて回る。
複雑で、奇怪で、この上なく厄介な人間の情。
そんなどろどろしたものに、できれば触れたくはない。
一度手を付けたが最後、自身も巻き込まれてしまうからだ。
他人の強い心の色は、時として思わぬ誤算を招く。
だから正太郎は、できればそんなものと関わりたくなかった。
しかし悲しいかな、彼の仕事は心の機微に触れなければ何も始まらないのである。
ったく、よくもまあ同心の家なんかに産み落としてくれたもんだぜ。
何年か前に流行り病でぽっくり逝ってしまった母を思い出し、苦笑いが浮かんだ。
ちなみに父である政之助は、一昨年に隠居生活に入ったばかりである。
今では埜左衛門と将棋に明け暮れる毎日だ。
いいよなあ、隠居。
半ば本気でそう思う正太郎だが、まだまだ彼の先は長い。
そんなことを思って我が身を嘆いていると、自身番の扉が開いた。
そこには利吉の姿。
入り口の真正面、上がり框からすぐの所に池田は寝かされているため、彼が正太郎を探して目を走らせたのはほんの一瞬のことであった。
「お?」
思わず声を洩らす。
というのも、利吉の後ろにほっそりとした小さな顔の女がいたからだ。
「なんでえ親分。仏の前でのろけようってかい」
正太郎は利吉が側まで来たのを見て、そう軽口を叩く。
すると、利吉が何かを言う前に女が動いた。
「虎太郎さまっ」
筵がばさりと捲られる。
その下にあった青白い顔を見て、女はその体にすがり付いた。
わああという泣き声が聞こえる。
「あれがのろけですかい?」
「悪かったよ」
肩をすくめる正太郎。
だが、その顔には謝罪の気持ちも憐れみも、同情さえも浮かんでいない。
職業柄、このような愁嘆場には慣れているのだ。
どんなに痛ましくても、慣れればそれはただの風景である。
心はそよとも動かない。
「で、あの女は?女房か?」
「いえ、池田の住んでいた長屋の表にある茶屋の看板娘でさあ。どうやら池田とは深ぇ仲のようで」
「はーん」
茶汲み娘と深ぇ仲、ねえ。
茶屋の娘といえば、口先だけというのが世の常ではないか。
なのに深い仲とは…
すると、彼の疑いを見抜いたかのように利吉が言う。
「言っときやすが、ありゃ本当に惚れてますぜ」
「なんで言い切れる?」
「あの女…おうめって言うんですが、そのおうめが働いている茶屋で聞き込みをしたんです。池田っていうこのすぐ裏の長屋に住んでる浪人を知ってるかって。そうしたらおうめは血相を変えてあっしの所までやってきやしてね」
「名前を聞いただけで?」
「そうです。まあこの辺りがあっしのシマでやすからね、おうめだってこの顔と肩書きくれえは知ってたわけですよ。岡っ引きが恋しい男について聞き回ってるなんて、そりゃあ胸騒ぎもしまさあ」
「まあそうだな。岡っ引き稼業も楽じゃねえな、親分」
「まったくで。旦那、分かってらっしゃるんならもうちっと労ってくれたっていいんですよ」
「で?」
自分に都合の悪いことは知らぬ存ぜぬの正太郎である。
利吉の言葉を見事に無視し、先を急かす。
急かされた相手は束の間むくれたが、すぐに続けた。
「で、おうめが必死に尋ねてくるもんだから、何があったのかこっそり教えてやりました。そうしたらいきなり奥へと走っていきやしてね。なんだあ、と思っていたら、何やら奥から悲鳴が聞こえたんですよ。それで行ってみると、おうめが包丁で自分の喉を掻っ切ろうとしてたんでさあ。女中と一緒になんとか止めやしたがね、あっしたちがいなかったら間違いなく死んでやしたよ」
「そりゃ…見上げた心掛けだあな」
げに恐ろしきは乙女の恋心。
正太郎はちらりとおうめを盗み見た。
彼女はまだ盛大な泣き声を上げている。
「男に触られただけで気絶しそうな、なよなよした顔してんのによお、意外にやることやってんだな」
「旦那…言っていいことと悪いことがありやすぜ」
利吉が顔をしかめる。
正太郎は小言など、どこ吹く風である。
「まあおうめについては後でじっくり詮議にかけるとして…池田については何か分かったかい」
「今、手下が調べてくれてますよ」
利吉はぶすっと不機嫌だ。
いい男なのに、なまじ真面目なもんだからなあ。
これじゃあもてるもんも、もてねえや。
日頃、正太郎はそんな風に思っている。
「そうか。俺の方でも試衛館のやつらにざっと当たってみたんだがよ」
「どうでした」
「とにかくいいやつだったらしい」
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