旦那、乗り出す


「おいおい…」


天然理心流の流れを引く、試衛館道場。

その敷地内の一番奥、道場裏の井戸の側に、そいつはうつ伏せに寝かされていた。

じめじめとした、あまり日の当たらない狭い所である。

井戸から三歩も歩けばそこには縁側があり、上がって扉を開ければ稽古場だ。


「こりゃまたなんというか…」


正太郎はそう呟いて、思いっきり顔をしかめる。

利吉は口に手を当てた。


「ひでえこった」


おそらく正太郎と同じほどであろう年頃の男は、きちんと袴を穿いていた。

武家の者であると一目で分かる。

その目は半ば開かれ、どんよりと濁った涼しげな目元からは何の表情も読み取れない。

分かるのは、明らかにもうその身に命がないということだけだ。


正太郎は彼の側にしゃがみ込んだ。


「江蔵」


少々頼りのない利吉の手下を呼ぶ。


「へい」

「自身番に知らせな」

「分かりやした」


江蔵は大きく頷くと、去っていった。

彼は足が速いので、伝達役としてはうってつけだ。


それを見届けると同時に、今度は利吉が大声を出し始める。


「ほらほらどいたどいた。芝居小屋じゃねえんだ、お前さんたちは稽古に戻ってくんな」


狭い裏庭に、たくさんの人が集まっていた。

おそらく試衛館の門弟たちだろうが、皆痛々しい表情と、ちょっぴりの好奇の目を彼に向けている。


人という動物は、ある種の状況下で同じ性質を持つものだ。

何か奇特なことが起こった時に、わらわらと集う習性である。

それを巷では野次馬と呼ぶ。

彼らは多くの場合、正太郎と利吉の邪魔となった。

あったはずの罪の証が踏み倒され、荒らされ、消されてしまう。

そのせいで苦い思いをしたことが何度もあったのだ。

ゆえに、利吉は一刻も早く彼らを散らせたかった。


「これから旦那がお調べなさるんだ。お上の仕事を邪魔したくなきゃ、とっとと退いてくんな」


仏となった彼を庇うように、しっしっと野次馬を追い払う。

慣れた手つきであるが、そんなことで退くような人間さまではなかった。

減ってほしい見物人は増えに増え、がやがやと騒がしい。


「………」


しかし正太郎は、そんな野次馬を気にする素振りもない。

ただ、馴れた手付きで死人を調べていく。


その体には、バツ印の刀傷があった。

しかし、それは正面からではなく背中についている。

左肩から右脇への一太刀と、右肩から左脇への一太刀。

武士の背中傷は恥とされているこの時代、珍しいものであった。

正太郎が「ひでえ」と言ったのも、このことが原因である。


正太郎は「ちょいとごめんよ」と、死体の着物を上半身だけ脱がした。

と言っても、すでに硬直が始まっているため容易なことではない。

それでもなんとか脱がせる。


「…親分、ちょっと」


不意に正太郎が利吉を呼んだ。

野次馬を押さえ付けていた利吉は「へい」と俊敏な動きで彼に近寄る。


「なんかおかしかねえか」


決して筋骨隆々というわけではないが、見れば「剣術をやっているんだな」とすぐに分かるような均整の取れた体つき。

その背には、体におよそ似合わない生々しい傷が刻まれていた。


「背中の傷はそれほど深えわけじゃあ、ねえ。だがよ、これだけやられてりゃ…」

「血がもっと出るはずでやすね」


利吉も眉間に縦皺を刻む。

死体にはほとんどと言っていいほど、血液が付着していないのであった。


「そうだ。だが、喉は綺麗なまんまだ。紐の痕や人の手形が残ってる、なんてこともねえ」


彼はそう言いながら、つるりと死体の喉を撫でる。


「てえことは、斬られる前に絞められたってわけでもないらしい。だがよ、血の量がこんだけ少ねえってことは、少なくとも斬られたのは死んでから半刻以上後だぜ」

「心の臓に病でも抱えていたんですかねえ」

「発作を起こして息が止まった時、ちょうど辻斬りでも現れたってかい?」

「…変ですね」

「ああ、おかしい」


大体、と彼は続ける。


「心の臓が弱かったんなら、薬の一つや二つ持ってるはずだろう」

「たまたま切らしてたとか」

「まあ考えられねえことはねえが…」

「池田は至って丈夫な体だったぜ」


不意に凛とした声が頭上に降ってきた。

二人は同時に後ろを向く。


そこにいたのは、冷たいほどに美しい男。

彼はしゃがんでいる二人を、腕を組んで見下ろしていた。


「酒はよく飲んでたからどっかおかしいところはあったかもしれねえが、心の臓が弱えなんて聞いたことがねえ」

「おめえさん、誰でえ」


正太郎がすっくと立ち上がる。

長身の彼と、ほぼ同じ目線だった。

男はふっと笑う。


「試衛館の門弟、土方だ。土方歳三」


そう自己紹介する彼は、正太郎よりいくつか年上だろう。

頭の高い位置で束ねられた漆黒の髪、切れ長の瞳、薄い唇。

美形の一言に尽きる。


「土方…土方、か。聞いたことある名前だな」


正太郎は懐手をし、束の間考える。


「俺ぁ、八丁堀の旦那に世話になったことなんかねえよ」


土方はそう言って鼻で笑った。

小憎らしいしぐさだが、似合っているから許せてしまう。

正太郎は肩をすくめた。


「まあいいや。で、仏さんは試衛館のやつかい?」


ああ、と頷く土方。

そして、目を伏せた。


「池田虎太郎って名で、浪人だ。ま、浪人にしちゃあ礼儀正しいやつでな、恨まれることなんざねえと思うが…」

「あれ、珍しい。土方さんが他人を誉めてる」


ひょっこりと顔を出したのは総司である。

野次馬を押さえる役目の利吉が死体の方に付きっきりになってしまったので、ちゃっかりこちらまで来てしまったらしい。

土方が「うるせえな」と鼻白んだ顔をした。


「土方さん、この人ですよ、例の方は」

「ああん?」


彼の目がさらりと正太郎の全身を舐める。

正太郎はきょとんと目を瞬きさせた。


「…へえ。旦那なのかい、総司たちが惚れた剣士ってのは」

「悪いな、俺は男には興味ねえんだ。総司、すまねえが他を当たってくれ」

「ほらね、食えない人でしょう」


総司はにこにこと土方に向かって言う。


「確かに」


再び鼻で笑い、だがなと彼は続ける。


「食えようが食えまいが、今俺たちが頼りにできるのはこの旦那だけだ」


そう言う彼の顔が真剣だ。

正太郎は「お?」と、懐手をするのをやめた。


「頼む、旦那。池田を殺したやつをお縄にしてくれ。俺たちじゃあ、どうにもできねえ」


この通りだ、と土方は頭を下げる。

正太郎はへえ、と内心感心した。

気位の高そうなやつだってのに、なかなかのもんだな。


「池田は試衛館の仲間だ。その仲間が理由もなく殺されたとしたら、許せねえ」

「理由はあるかもしれねえぜ」

「…けど、殺されたのには変わりねえ。だろ?」

「そりゃな」


ふふん、と正太郎の顎が上がる。

土方の頭もゆっくりと上がった。


「まあ、はなっからそのつもりだったしな。いいだろう、事件を解決してやろう」

「旦那、偉そうに言うことじゃありませんよ。それが旦那の仕事なんですから」


正太郎に代わって死体を検分していた利吉が、ふいと割り込む。

もちろん、正太郎はしかめっ面だ。


「分かってらあな。だからはなっからそのつもりだったって言ってんだろ」

「へえ…じゃあ聞きやすけど、旦那、これまでにお一人で事件を解決したことがありやしたかい」

「うっ」


さすがは岡っ引き、人の痛いところをぐさりと突き刺すのが上手である。

正太郎の視線が利吉とは反対方向に流れた。


「殺しや盗みが関わるといっつも逃げてたじゃあ、ありやせんか。いつもいつもめんどくせえ、俺には無理だ、そんなことばっかし言って…それがいってえどんな心境の変化です?」

「いやそれはおめえ、誤解もいいとこだぜ。俺ぁ、逃げてたわけじゃあねえ。俺なんかよりずっと切れ者のあのお方がいたからだな…」

「ああ、杉浦さまですか」


利吉がぽんと手を打った。


「杉浦さま」とは、杉浦左衛門ざえもんのことである。

齢六十をとうに越え、この度めでたく隠居生活に入った、正太郎の先輩の定町廻り同心だ。

正しくは、同心だった、だが。

この埜左衛門は「よろずの旦那」と呼ばれ、盗み、殺し、誘拐、なんでもござれの切れ者である。

彼にかかれば下手人が捕まらないことはなかった。

そのため、正太郎は何かあると「杉浦さまにお頼み申す」と言って仕事をほっぽり出すのであったのだが、彼が隠居してしまった今、もはやその手は使えない。


「頼みの綱が巣穴に潜っちまったからな、俺がやるしかねえんだよ」


はあ、とため息をつく正太郎。


「まあ今までが今まででやすからね、ここらで腹をくくったらようがす」

「親分…ちっとは主を労ろうって気はねえのかい」

「へえ」


にっこりと笑う利吉に向かって、正太郎は膨れてみせる。

そんな彼を見て、これまたいつの間にやら側に来ていた平助が言う。


「旦那に任せて大丈夫?」


土方も首を捻る。


「俺もだんだん心配になってきたけどよ…そうは言っても旦那しかいねえからな。そういえば、師匠は?」

「わしはここにおる」


不意に土方の背後から、がっしりとした大柄な初老の男が出てきた。

体躯とはちぐはぐな、どこか優しげな顔をしている。


「八丁堀の旦那」


彼が正太郎を呼ぶ。


「おめえさんがここの主かい」

「はい。近藤周助と申します」


軽く会釈をする周助。

しかし正太郎は黙って彼を見ているだけだ。


「この度は残念なこって…」


律儀な利吉が深く頭を下げた。

しかし、やはり正太郎は冷めた眼差しだ。


「旦那、この池田は優秀な剣士でございました。そのような者が背に傷を受けるなど、あるまじきこと。どうか、お願いいたします」


真摯な瞳だ。


いい道場主なんだろうな。


正太郎はそう思い、しかし口にはしない。


「下手人をどうぞ、お捕まえください」

「それはいいけどよ。仇討ちとかいう、バカげたことは考えるなよ」


土方の目がきらりと光った。


「バカげたってのは言い過ぎじゃねえか」

「むしろ言い足りねえくれえだがな」


土方の瞳に、剣呑なものが混じる。

その手が何気なく腰のものに触れた。


正太郎はにやりと笑う。


「土方さんよ、そう簡単に刀を抜くもんじゃねえぜ。武士ならな」

「………」


土方の薄い唇が、真横に引き締められる。

そんな彼を知ってか知らずしてか、正太郎は回りにいた大勢の門弟たちにも声を掛ける。


「おめえらもだぜ。おめえらも、仇討ちなんてこたあ考えるなよ」

「どうしてだ?池田さんが殺されたんだぞ!」

「くそっ、俺がこの手でばっさりやってやる」

「下手人なんて、お縄にする前に斬っちまえ!」


わいのわいのと、さらに辺りが騒がしくなる。

正太郎は片眉を上げた。


「ばかやろう、そんなことしたら御用の妨げで、てめえらの手が後ろに回る。下手人を裁くのは、てめえらじゃねえ。もちろん、俺でもねえ。それは他のやつらのシマなんだ」


淡々とした口調に、口をつぐむ門弟たち。

しかし、明らかに不満そうである。


「時々いるんだよなあ、勘違いしたやつが。自分に采配があると思うんだろうが、とんでもねえこった」

「…旦那の言う通りだ。わしらに下手人を裁く権限は、ない」


周助が静かに言った。

はあ、と、どこからか密やかな息が洩れる。


「そういうこった」


いくぶん、軽い口調になった正太郎は再び池田の側にしゃがみ込んだ。

半眼だった彼の瞼をそっと閉じる。


「親分」

「へい」

「まずは池田の身辺を洗いざらい調べな。出身国、交友関係、女関係、全部だ」

「へい」

「人柄についても調べろ。いいか、いろんなやつに聞くんだぜ。もしかしたら試衛館でのこいつと女郎屋でのこいつは、人が違ったりするかもしれねえからな」

「分かりやした」

「それから、存分に手下を使え。中には江蔵のようなぼんくらもいるが、使えるもんは使わねえと損だからよ」


利吉は苦笑を浮かべ、「行ってきやす」と、この場を離れていく。

残された正太郎は、さてと、と立ち上がった。

そして、土方や周助の方に向き直る。


「ほんじゃ、手始めにおめえさんたちからだな」


その場にいた者たちは、揃って顔を見合わせた。

正太郎の顔にはいたずらっぽい笑みが浮かんでいる。

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