三
「そんなことあったか?」
総司が話し終えてもなお、正太郎は首を捻っている。
あくまでしらを切り通すつもりらしい。
「いろんな事件が起こるもんだからよ、そんな大昔のことなんざ覚えてらんねえんだな」
「大昔じゃねえよ。まだ一年前だぜ」
と、平助。
「いやあ、年を取ると、些細なことは頭からするする消えちまうんだ。おめえらもそのうち分かる」
「旦那が年取ってるってんなら、あっしはどうなるんですか」
「親分、そう突っかかってくんなって。あんまり剣突してっと、そのうち角が生えちまうぞ」
正太郎は顔だけ後ろに向け、利吉に笑いかける。
しかし、利吉はじとりとこちらを睨んでいた。
「そんな怖いツラしなさんな。せっかくの男前が台無しだぜ」
「…旦那」
「親分にもう少し余裕がありゃあなあ。そうすりゃ、今頃はたらしの親分って名でもついてんのに。もったいねえったらありゃしねえ。使わねえならそのご面相、俺と交換してくれよな」
「旦那っ」
利吉が吠える。
「まったく、親分は他の言葉を忘れちまったのかい?そう何度も旦那旦那言うんじゃねえや」
「何度でも呼んで差し上げまさあ。どうしやすか?もう一度お呼びしやしょうか?」
今度は笑顔を引っ込め、鬱陶しそうにしっしっと手を振る正太郎。
その様子を三人はしげしげと眺めていた。
「ほんと旦那って、利吉の親分に勝てた試しがねえよな」
「平助。それは公然の秘密だ。小野田さまが気分を害するだろう」
「一も言うね。本人の前ではっきり言うなんて、なかなかの根性だよ」
「おいこらそこのガキども。本人に丸聞こえだっての」
正太郎の口調に苦笑いが混じる。
そうやって会話を終わらせると、そろそろ潮時だと感じたのかその足が一歩前へと踏み出された。
「ま、おめえらも言うように俺は親分には勝てねえ。ってわけで、俺は見廻りに戻らあ。これ以上油を売ってると、後ろから頭を引っぱたかれそうだからよ」
「あっしはそんなこたあ、しやせん」
「どうだかな」
にやりと正太郎が笑う。
そして「あばよ」と手を上げた。
しかし…
「…逃げるな」
ドスを利かせた、およそ少年とは思えないような声が彼を止める。
一だ。
正太郎は彼らに背を向けたまま止まった。
ため息をつく。
「まだ何か用かい」
そう言いながら、先ほどと同じように首だけを後ろに向ける。
先程正太郎が踏み出した一歩ときっちり同じだけ、総司が間を詰める。
「ひどいなあ、勝負をしてくださいとこんなに頼み込んでるのに、またはぐらかして逃げる気ですか」
「そうだよ。俺はへっぽこだからな」
「そうは見えないですけどね。それに、あんなのを見せられたら…」
鯉口の音。
血の吹き出る音。
その二つは聞こえたのに、彼が動く音だけは聞こえなかった。
「あんなのって…総司、あれくらいなんてこたあねえ。ただ、聞き分けのねえ下手人を仕方なく斬り捨てただけだ」
「僕たちだって、剣士の端くれです。あなたの腕前を見抜けないほど、間抜けじゃありません」
そう言う総司の顔はにこやかだが、目は冷ややかだ。
一は総司からにこやかを取ったような表情だし、平助とて不満を全面的に出している。
まったく、近頃のガキどもは…
正太郎はそう胸の内で舌打ちをするが、彼とて三人とそう年は変わらない。
「あんな筋を初めて見たんです。僕だってなかなかのもんだと自分で思ってます。いや、思っていました、かな。だけど…」
あなたがその自負心を奪い取った。
総司の小さな沈黙には、そんな言葉が隠されていた。
「この二人だってそうです。二人は試衛館の門弟じゃないけれど、あれからほとんど毎日、うちに来るんですよ。それがどういう意味だか分かります?」
「いやさっぱり」
「でしょうね。旦那はいつもそうなんですから…」
彼の口から密やかなため息が洩れた。
ここまでしらばっくれられると、逆に毒気を抜かれてしまう。
と、今度は平助が口を開いた。
「なあ旦那。一回だけでいいんだ。手合わせしてくれよ」
「そいつぁ無理な話だな」
あっさりと断られる。
後生のお願いでさえ、正太郎にかかればこんなものだ。
平助の口がへの字に歪んだ。
「俺にはそんな暇はねえし」
「よく言うよ、たらたら歩いてるくせに」
「そいつも誤解だ」
片眉を持ち上げる正太郎。
「俺は公方さまのため、民のため、はたまた国のため…」
「よく言いまさあ。常に帰りたいとしか言わねえお方が」
利吉が鋭く指摘する。
正太郎は小さく舌を出した。
「ま、そんなわけだ。てなことで、俺ぁ行くぜ。あばよ」
「旦那ぁ!」
今度こそ、彼らに背を向ける。
そして歩き始めた。
利吉も呆れたような顔をして、主の後に付く。
「くそっ、またはぐらかされた」
心底悔しそうに、平助は自分の腿を叩いた。
しかし、正太郎はやはり左肩を下げながら去っていってしまう。
と、そこに。
「旦那、旦那!」
息を切らせ、額に汗を浮かべた若い男が前から走ってきた。
尻をはしょり、どうやら全力疾走でやってきたらしい。
彼の背後に砂煙が見える。
彼は三人から少し離れた所にいた正太郎の前まで来ると立ち止まり、前屈みになって息を整えた。
彼らの会話が、風に乗って少年たちの所まで届いてくる。
「江蔵、どうした」
正太郎が足を止める。
どうやら知り合いらしい。
恐らく、利吉が使っている手下の者だろう。
「事件でやす!」
「何?今度は本物だろうな。この間は事件だっつって呼び出されたら、迷子のお守りをさせられたからよ」
「あれはその…ま、まあとにかく聞いてくだせえ。実はさっき、死体が出てきたんで」
「死体、ねえ…で、どこでだい」
「それが、まさかのまさかなんで」
「そんな意外な所なのかい。で、どこでえ」
「いやもう意外も意外、聞いて驚き――」
「で、どこなんだ」
利吉が苛々したようにぴしりと江蔵を遮る。
彼は一瞬口をつぐみ、今度はいくらか声を低くして言った。
「…試衛館でやす」
「なんだって」
正太郎のただでさえ大きな目がさらに見開く。
総司、一、平助も、さっと顔色を変えた。
「案内しろ」
先ほどまでとは打って変わって厳しい表情の正太郎。
江蔵は頷くと、再び走り出す。
その後に旦那と利吉が続いた。
「僕たちも行きます」
総司もそう言いながら、後を追いかける。
もちろん他の二人も、だ。
「勝手にしろ」
三人が彼らを追いかけ始めると、前を行く正太郎がそう怒鳴った。
「ごめんよごめんよ、通しておくれ!」
賑やかな通りを、人をかきわけかきわけ駆けてゆく。
のどやかな春に、一陣の埃がふわりと舞った。
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