一年前。

総司と一、そして平助は、ちょうど今日のようにぶらぶらと散歩していた。

その日はどんよりと曇った、今にも雨が降り出しそうな日であった。

平助が鼻をひくつかせ、「もうすぐ来るぜ」と他の二人に告げる。

総司は「何が」と問うた。


「雨だよ。匂いが重いから」

「匂い?空気の?」

「そう」


総司は苦笑し、一と顔を見合せる。

一は疑いないな、とばかりにこくりと頷いた。


「平助、お前の嗅覚には恐れ入るよ。犬より鋭いんじゃないの」

「犬ってなんだよ。ひでえの」


まなじりを吊り上げかけた平助だが、不意にあれ、と足を止める。

他の二人がそれに気付いて彼の方を振り向いた時、彼はあらぬ方向を見ていた。


「どうしたの」


と、総司。

すると、平助は「あっち」と細い路地を指差した。

家と家の間にある、何の変哲もない小路だ。

総司と一もつられて、ひょいとそちらを覗く。


「なんか変じゃねえか?」

「…男と女だな」


ぼそりと呟くのは一だ。

確かに彼が言った通り、路地の奥まった所に男と女がいた。

男がこちらに背を向けていて、女はその影に隠れて頭がちらちら見えるだけだったが。


「どこも変じゃないよ。そういうことに興味があるお年頃だと思うけど、放っておいてあげな」


総司は他の二人より少し年上のため、すまして言うことは大人びている。

とはいえ、少し緩んだ口元が言葉を台無しにしていたが。


「あ」


ふと、平助と一が揃って声を漏らした。

そして、顔を見合わせる。


「見えたよな」

「ああ」

「やべえ雰囲気だよな」

「ああ」


頷き合う二人。

そして彼らは、ふらりとその路地に入っていってしまった。

残された総司は苦笑を浮かべ、しかしやっぱり付いていく。

知ったような口をきく彼とて、「そういうお年頃」なのだ。


足音を忍ばせ、ゆっくりゆっくり近付く三人。

だんだんと、男の背中が大きくなってくる。


話が聞こえるようになったところで、三人はちょうどよくそこにあった大きな木箱の影に首尾よく収まった。

木箱は新しく、独特の深い香りが鼻腔をくすぐる。

その匂いを嗅ぎながら、耳をそば立てた。


「いい加減、離してくれねえか」


のんびりとした声。


「こっちも暇じゃないんでね」

「う、うるせえ!てめえらがどけば済む話だ!」


三人はこっそりと男を見た。

後ろ姿しか見えないが、鬢はほつれ、着ているねずみ色の着流しは埃っぽい。

砂埃を立てて必死に走ってきたような。

と、不意にその男が横に揺れた。

すると、大通りからは見えなかった女の姿がちらりと現れる。

しかし、そこにあったのは男と女の情緒溢れる場ではなく…


「お、お役人さま…どうか、どうか…」


——男が女の首に小刀をあてがっているという、凶行現場だった。


そしてもう一つ。

平助と一が見たものの正体も、とりわけ物騒なものであった。


「大人しくお縄になりやがれ」


鋭い声と共に男に向けられているのは、十手である。

二人が先ほど見たのは、この金物が光るところ、つまり十手がきらりと光るところであった。


十手が振りかざされているということは、どうやら岡っ引きが出張ってきているらしい。

それでは先ほどの暢気な声は、同心の旦那か。

しかし、その旦那は三人の所からは見えない死角に立っているらしく、ここからでは声しか聞くことができなかった。


「おめえ、一体何人殺したよ?俺たちゃ見たくもねえ仏を見せられてよ、そろそろ飽きてきてんだ。ここらで終いにしちゃあどうだい」

「黙れ!お縄になったらどうせ市中引き回しか磔か…待ってるのはそんなもんだろ。だったら逃げて逃げて、生き延びてやる」

「おやまあ、感心しねえな。人様殺しておいて、自分だけは生きたいってか。どこまでも欲が深いねえ、お前さんも」


相変わらずのんびりな旦那である。

捕り物に出くわすのが初めての三人は、興味津々、握った手に汗をかきながら彼らを見ていた。


「ま、とりあえずその女を離してもらおうか。話はそれからにしようぜ」

「嫌なこった。話なんざ、こちとらねえんだよ!」


男はそう叫び、じりじりとこちらに向かって後退し始めた。

さすがの三人も、見物人気取りはしていられなくなってくる。

お互いに冷や汗を流しながら、顔を見合わせた。


すると、わざとらしい大きなため息が聞こえてきた。

それと共に、同心の旦那が姿を現す。


すらりとした長身に、真っ黒な長羽織。

袖に手を突っ込んでいるその旦那は、くっきりとした丸い二重の目が印象的である。

そのせいかどこか幼く見え、年齢を分かりにくくさせていた。

微かに眉を寄せ、口元は「めんどくせえ」とばかりに歪んでいる。


と、その目が不意にちらりとこちらに向いた。

彼は一瞬驚いた顔になったが、すぐに元通りの童顔に戻る。


「なあ、どうしても離さねえつもりか?」


おもむろに旦那は男に向かって言う。

男は女を抱えたまま、喚いた。


「あったりめえだ。誰がてめえなんぞに捕まるか!」

「てめえなんぞ、とねえ…」

「おい、この方はお上の御用を預かる同心の旦那だぜ。命が惜しけりゃ黙るんだな」


これは岡っ引きである。

まだ三十を過ぎたばかりであろう彼は、鋭い目で下手人を睨み付けていた。

どうやら旦那を侮辱したことが許せないらしい。

今は剣呑な顔つきだが、それがなくなればよく焼けた肌にきりりと太い眉で、引き締まった精悍な顔付きだろうと三人は揃って思った。


再び旦那がからからと口を開ける。


「だとよ。親分は怖ぇや」

「旦那!ふざけてる場合じゃねえでしょうよ」

「いや、ふざけてねえよ。ま、確かに」


背の高い旦那が男を見下ろす。

心持ち顎を上げ、その瞳は挑戦的だ。


「命が惜しけりゃ黙った方が得策だわな。俺ぁ、上から言われてんだ。抵抗するなら斬れってな」

「そ…そんなことできるもんか!この女がどうなるか…」


男がしっかりと、女の白い喉に小刀を当てる。

今にも鮮血がほとばしりそうな勢いだ。

女の唇が、恐怖でわなわなと震える。


旦那は空を仰いだ。


「ったく…これだから雑魚はめんどくせえんだ」


呟きではあったが、その言葉はわざと男に聞かせているらしく、しっかりと三人の所まで届いた。

旦那はそのままくるりと首を回し、顎に手を当てる。


そして大袈裟にあーあ、と嘆息する。


「ここに三匹くらい、ねずみでもいてくれりゃあなあ。そうすればこいつの気を反らすことができるのによ」


再び、三人の視線が絡まった。

これは…どうするべきか。


「例えばこいつに石を投げるとか…」


と、旦那の目がちらりとこちらに向けられる。

ふと、平助は足元に落ちていた一寸ほどの石を拾い上げた。

その様子を他二人が凝視している。

彼は確認するように二人を見た後、にやりと笑った。

そして、力任せに男に向かって放り投げる。

それは彼の肩に命中した。


「いたっ!」

「御免」


――それは束の間の出来事だった。

だから三人は、何が起こったのか分からなかったのである。

三人がそれに気付いた時、男はすでに彼らの隣に倒れ込んでおり、それまで捕らわれていた女は岡っ引きの腕の中に保護されていた。


カチャリ。


鯉口を閉める音が、暗く、狭い路地に微かに響く。


「おめえら、助かったぜ」


呆気に取られている三人に向かって、人懐っこい笑顔が向けられる。


「一か八かの勝負だったがよ、おめえらのおつむがなかなかの上物で良かった」

「あ…この人…死んだのか」


平助は開いた口が閉まらない。

無理もない、瞬きをする間に旦那は下手人を斬り捨てていたのだから。

横に転がる男を恐る恐る覗き込む。

首筋がざっくりと開き、おびただしい血が泉のように湧き出ていた。

どう見ても、その体にもう命はない。


「いつの間にやったんだ…」


一も呆然とそう、洩らす。

総司はというと、眉間に皺を寄せ、下手人の男を睨んでいる。


「旦那、まさか三匹のねずみって、こいつらのことだったんですかい?」

「おうよ」

「な…」


岡っ引きの、やはり男前な顔がみるみる厳しくなっていく。

「おっと」と旦那は一歩下がった。


「なんでそんな危険なことをさせるんですか!もしこいつらに下手人が気付いてぐさっといっちまってたら、どう責任取るつもりだったんで?頼みやすんで、大人の分別をしてくだせえよっ」

「わ、分かったよ。悪かったな、おめえさんたち」


岡っ引きの形相にたじたじの旦那は、即座に三人に向かって謝る。

しかし三人は「いえ…」だの「全然…」だの、気の利かないことしか言えない。


「それにしても、もったいなかったな。できるなら生かしておきたかったんだが」

「…まったくで」

「そうぶすっとすんなよ。みんな無事だし、終わりよければすべてよしだろ?でも、あーあ、あずまからちくちく言われんだろうなあ…詮議まで生かしておけなかったとは、おぬしの手腕は未熟よのとかなんとか」


旦那はもはや屍と化した男を見ながらべーっと舌を出す。

下手人はまだ喉から血を流していた。


「すげえ」


平助が呟く。

総司と一もただ、旦那――正太郎を見つめながら頷くことしかできなかった。

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