だましだまし

うぐいす

旦那、暇もなし


広い、広いお江戸のとある町。

定町廻り同心の小野田正太郎は、手札を預けている利吉を半歩後ろに従えてぶらりぶらりと歩いていた。


「なあ親分」

「へい」

「最近、世の中が騒がしいよなあ」

「へい。近頃は盗みやら殺しやら、物騒な話が多いですからね」


草履の先で、小石を蹴る。

正太郎は袖に手を入れ、歩いていた。

見廻りと言えば聞こえはいいものの、その実態はただの散歩である。


「なあ親分」

「へい」

「もう帰ろうか」

「はあ?」


利吉の間抜けな声がすぐ後ろから聞こえ、正太郎の耳を通り抜けていった。

ふわっと大きな口を開け、欠伸を漏らす若き同心。


「旦那」


利吉のきつい声が飛ぶ。

彼は正太郎よりきっちり十年長生きしている分、常識というものをよく理解している。

理解しているだけならよいが、いつもその常識とやらを元に小言を飛ばしてくるのだ。

これは彼の難点だと、正太郎は思っていた。

今回もその常に漏れず、利吉は続ける。


「お務めを放り出すなんて、町の治安を守るお方がしていいことじゃあ、ありやせんよ。大体、旦那には堪え性ってもんがねえんだから。もうちっとばかし——」

「出たね、必殺小言殺し」


正太郎はあくまで聞き流しの体制だ。

利吉の凛々しい眉が潜められる。


「旦那」

「へえへえ。ちゃんとやりゃあいいんだろ、ちゃんとやりゃあ」

「旦那」

「うるせえな。そう何度も旦那と呼ぶんじゃねえよ」


はあ、と盛大なため息が、利吉の口から漏れる。


まったく、典型的なお役人気質なんだからよ、うちの旦那は。


同心というお役目はほとんどが世襲制なので、どんな阿呆だろうが、親が同心なら子も同心。

子が同心なら孫も同心。

公方さまの治めなさるこの世はそんな案配でできているのだ。


正太郎はほんの少し、左肩を下げてゆっくりと歩く。

それにつられて首も微かに左へ傾いているのに、彼は自分で気付いているのだろうか。


気付いてねえよなあ、旦那はさ。


利吉はそう思い、なんだか不意にその背中を蹴ってやりたくなった。


そんな彼をよそに、正太郎は巷ではやりの小唄を口ずさんでいる。

それがまたいい声をしているのだから、憎たらしい。


…うららかな四月の昼八つ。

風は微かにぬるく、緩やかに頬を撫でる。

これが自分の家ならうつらうつらしてしまうような気持ちの良さ。

新芽が若々しい、春の終わりだった。


江戸の町はいつもと同じように活気付き、あちこちから客を呼び寄せようと威勢のいい声が聞こえてくる。

両手に小さく大きく店が並び、色鮮やかな端切れが賑やかに目を楽しませ、売り歩きの男が子供たち相手にでんでん太鼓をぽたぽたと鳴らす。

すれ違う人々は、女も男も老いも若きも様々だ。

その中には「ご機嫌はいかがです」と、正太郎に声を掛けてくる者もいた。

そんな時、彼は毎回「おう」と手を上げ、にっかりと笑ってみせる。


気ままにふらふら歩きながら、正太郎は再びくわりと口を開けた。


と、その時。


「旦那、こんにちは」


目の前にまだ元服して間もないだろう美少年が現れた。

道場からの帰りだろうか、竹刀に道場着を引っ提げて肩に担いでいる。


正太郎は破顔した。


「おう、総司じゃねえか。試衛館帰りか?」


総司と呼ばれた少年は「はい」と微笑む。

それがまたなんとも言えず優雅なものだから、正太郎は頬を意味もなくぽりぽりと掻いた。

あと数年もして幼さが抜けた時、この少年は何人もの女の頬を赤く染めさせるようになっているだろう。


「今日は団子を食べに行こうって話になったんです。みんなもいますよ」


ほら、と総司は後ろを向く。

するとそこには、目をきらきらと輝かせた小柄な少年と、仏頂面で油断なくこちらを見据えている少年がいた。

二人とも十六、七といったところだろうか。

彼らもまた、竹刀を持っている。


その二人を確認すると、正太郎の笑顔がさらに広がった。


「平助に一じゃねえか」

「おう旦那、ここで会ったが百年目だな!」


はしこい悪ガキの風格さえ漂わせた小柄な少年が、びしりと人差し指で正太郎を指す。

その指を「人さまに指を指すんじゃねえ」と利吉がぺしりとはたいた。


「いや百年目って、平助、おめえまだ十六だろう」

「そんなこと言ってんじゃねえんだよ。言葉の綾ってやつだっての。旦那、今日こそ俺たちに付いてきてもらうぜ」

「団子をおごってくれるのか?気前がいいねえ」

「そんなわけないでしょう」


冷静、と言えば聞こえはいいが、どちらかと言えば暗い声が平助と正太郎の言い合いを邪魔した。

正太郎が首を振る。


「なんたって一はそう暗いんでえ。お前だって年頃の男なんだからよ、色恋の一つや二つ――」

「女を作れば戦ってくれるんですか」


にこりともせず、一は正太郎を見つめる。

その瞳は怖いほどにまっすぐだというのに、見つめられた本人はからからと笑うだけだ。


「戦うってどうやって?駒か?それとも花札か?」

「何度も言っていますが、そんなものじゃありません。これです」


一は肩に担いでいた竹刀をどん、と地面に垂直に突き立てる。

しかし、それでも正太郎は動じなかった。


「おいおい、お役人をからかうんじゃねえぜ。いくら武士だっつっても、この太平の世、めったなことじゃあこいつを抜くことなんてねえよ」


そう言って、彼は刀の柄に手を掛ける。

その様子を、利吉は呆れた目で見ている。


「じゃあ、あれはなんだったんだよ」


平助が不満げに唇を尖らせた。


「あれってなんでえ」


すっとぼける正太郎。

だが、今度は総司がそれを許さない。


「覚えてないとは言わせませんよ。僕たちとの記念すべき出会いのこと」

「いんや、まったく覚えてねえなあ。もう生まれた時から知ってるような気分だからなあ」

「そうですか。なら、思い出させてあげますよ。一年前…」

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