第20話 足の怪我

 それは最初は大した怪我では無かった。

 優香と新之助が二人で暮らし始めてからしばらく経った時だった。


 山でイノシシを追いかけている時に、足を捻っただけだと新之助は思っていた。

 しかし、足首は翌日には大きく腫れあがり、新之助は高熱で床に伏すようになってしまった。


 優香は心配になって直ぐに和尚様を尋ねた。


「うーん、それは足の捻挫ではなくて、足首に傷を受けてそこから毒が入ったのではなかろうか? 確か、山向こうの町に高名なお医者様がいるから、その方に診てもらえる様にお願いして進ぜよう」


 そう言って、和尚様は書架から筆とすずりを出してきた。


「しかし、お医者様への報酬が必要になるがどうしようかのう? こんな貧乏寺ではどうする事も出来ん」


 和尚様は、紹介状を書こうとした手をとめ、腕を組んで考える。


「和尚様、どうか、わたしが預けた着物を治療代にして下さい。絹で出来た高級な仕立てですので十分なお金になるはずです。もう私には一生縁の無いものですし、そんな物を持っていればまたイヤな過去を思い出してしまいますから。わたしは新之助様さえ元気でいてくれれば、それだけで良いのです」


 優香はそう言いながら、和尚様を見る。


「そうか、そうか。そう言う事であれば致し方ない、オヌシから預かっている着物を治療代として渡してしまおう。それでは、早速早馬を仕立ててお医者様に来ていただこう。しかし山向こうの町からお医者様を連れて来るには早駕籠でも二日はかかるぞ?」


 和尚様は、治療代以外にも問題がある事を優香に告げた。


「私が行きます! 早馬の代わりに、私がお医者様に和尚様の紹介状を届け、お医者様を連れて戻って参ります。新之助様の様態を見る限り、もう一刻の猶予もございません」


 優香は、そう言って和尚様に詰め寄った。優香には、新之助の症状に猶予がないことが痛いほどわかっていたのだ。


「あい、分かった。良し、今からワシが紹介状を書くからそれを届けてくれ。それと優香殿の着物は奥の箪笥に入っているから持って行きなされ」


 和尚様はそう言って大急ぎで紹介状を書いた。


「ハイ! 和尚様。本当にお心遣い有難うございます」


 そういうと、優香は和尚が書いてくれた紹介状と彼女がお城で着ていた絹の着物を持って、山向こうの町まで馬でひた走った。

 町に着くと、高名なお医者様がいるという診療所に飛び込んだ。そして大急ぎで和尚の紹介状を見せて、治療をお願いした。


「どれどれ、ふーむ、ふむ。この病状を見ると、傷から毒が入った可能性が高いな。もしかしたら、切開手術が必要になるかもしれないから、その道具と毒消しの薬を用意して、いまから直ぐに向かおう。コレは一刻を争う事になるじゃろう」


 高名なお医者様は、診療所にいる患者達に、今日は急患が入ったから、申し訳ないがまた続きの診療は明日にして欲しいと告げた。優香もお医者様の横で深々と頭を下げた。

 待合室にいる患者達は、急患では仕方がないか、とお互いに話をしてから、ゾロゾロと診療所を後にする。

 高名な医者は、優香が乗って来た馬に、診療道具を持って飛び乗った。


「さあ、娘さん。私をその患者のいる場所に急いで連れて行っておくれ」


「わざわざ、わたしのために診療所を閉めていただき、ありがとうございました」


 優香はお医者様に深々と頭を下げた。


「わざわざお礼を言われる筋合いはないよ、娘さん。目の前で一刻を争う患者がいたら、そちらを優先するのは医者としての道理であろう? それよりも、早く私を連れて行っておくれ」


 お医者様は、そう言ってニコリとしながら優香に目配せをする。


「ありがとうございます。それではしっかりとわたしに捕まっていて下さい」

 そう言って、優香は馬を走らせた。


 優香とお医者様は、出来る限りの速さで、来た道を戻って行った。それでも、里に着くころには日も暮れかかっていた。


 かろうじて日が暮れる前に、小屋に着くと、そこには義姉達が心配して待っていてくれた。

 小屋の中は何本ものたいまつに照らされて、煌々と明るかった。


「よし、お前たちは大至急大量の湯を沸かしてくれ。それから、必要な人間以外はこの小屋から出て行ってくれ。人が持ち込む毒気は、傷口から入ると大ごとになるからな」


 お医者様は、テキパキと周りの人間に指示を出しながら、新之助の傷口を見始めた。


「うーむ! これはやはり毒素が回って、足首の部分が死にかかっているんじゃ。この腐ってしまった部分を切り取らないと、腐った部分が体中に広がって、このお方は死んでしまうじゃろう」


 お医者様は新之助の傷口を細かく見ながら、そう優香に告げた。


「娘さん、いや、奥方様か。オヌシの判断は的確じゃった。今なら、足首の一部を切り捨てれば間に会うが、明日になっていたら片足はダメじゃったろう」


 お医者様は、優香に診断結果を伝えながら手術の準備を始めた。


「よし、奥方様は、今からワシが腐った部分を取り除くから、ワシの助手になっておくれ。


「それから、そこのおぬし。お前さんは、たいまつを持って、傷口の傍まで来ておくれ」


 そう言って、おイチさんにたいまつを近づけるように言った。


……


 それから半刻はたったであろうか。


 手術は無事に終わった。

 最後に、傷口を縫いながら、お医者様は言った。


「このお方は体力がありなさるから、何とかこの手術に耐えたが、普通は死んでいる処だ。それぐらい大変な手術だった」


 お医者様は、手術で血だらけになっている手をお湯で洗い流しながら優香に言った。


「よいか、化膿止めと毒消しを置いていくからな。一刻ごとに、可能止めと毒消しを飲ませてくれ。多分、本人は意識がないだろうから、無理やりにでも口に入れて流し込んでおくれ。そこまでしても、正直今晩乗り切れるかどうかは、ワシも分からん」


 そう言って薬箱から薬を取り出して、優香に渡す。


「とにかく、ワシが知っている知識を総動員して、やれる事は全てやった。あとは、この患者の『生きたい』という思いと、奥方様の『生きてほしい』という思いの強さがどれだけかにかかっている」


 お医者様は、うなされている新之助を見ながら優香に告げた。


「今晩一晩乗り切れれば、後はなんとかなるじゃろう。治療の代金は、この御仁が生き残ったら、払ってもらえば良い……。ワシも疲れたから、隣の小屋で寝かせてもらうぞ」


 そう告げると、お医者様は小屋を後にした。

 姉たちも、一人一人と小屋を後にして、残ったのは優香と熱にうなされる新之助だけだった。


「天の神様、どうか新之助様をお助け下さい。新之助の命が助かるならば、私の命を差し上げます」


 優香は、そう祈りながら、新之助の頭に当てている手ぬぐいを冷たい水に浸しながら代えていた。


 一刻が過ぎたころ、優香は新之助に加納止めと毒消しを飲ませようとした。

 しかし、新之助は意識が混沌としていて、口を開かない。

 そこで、可能止めと毒消しを水に溶かして、優香の口移しで、新之助の口に流し込んだ。優香の舌が新之助の口の中に入って、新之助の舌に優しく触れると、新之助は口に入っていた薬の溶けた水を飲むのであった。


 優香は、薬の口移しと、頭を冷やすための手ぬぐいを変える作業を、一刻ごとに一晩中繰り返した。


 やがて、当たりが明るくなってきた。

 優香も疲れてうとうとし始めていた時だった。


「優香……、ありが、とうな」

 優しい新之助の声が聞こえた気がして、優香はハッと目を覚ました。


 ああ、寝てしまっていたんだ。

 そう思いながら、目を覚まして新之助の方をみると、新之助が目を覚まして優香を優しい目で見ていた。


「ああ、意識がお戻りになられたのですね!』


「おお、俺は一体どうしていたんだ? 昨日の朝具合が悪くて倒れてから、まったく意識が無いんだ。足首が無性に痛いのだが、俺の足首はどうしちまったんだ?」


 そこで、優香は、昨日の朝から今朝までの顛末を、新之助が理解出来るように、ゆっくりと語った。


「そうか、そんな事があったのか。優香、ありがとう。おまえのおかげで、俺は足を切り落とさずにすんだんだな」


 新之助は、優香の話を聞いてから、疲れたかのようの目を閉じてつぶやいた。


「確かに、里の者も、時々山でけがをして戻ってきて、数日後に高熱を上げて死んじまうものも多いからな。おれも、そいつらの仲間になるところだったんだな」


 新之助は、再び目を開けてから優香の方を見て告げた。


「優香、すまないが喉が渇いた、水を一杯もらえるか?」

 新之助は、そういって、からだ無理に起こそうとする。


「新之助様、まだ体を上げてはなりませぬ。私が口移しで飲ませてしんぜます」


そういうと、優香はひしゃくから冷たい水を一杯口に含んで、まだ床に伏している新之助の口に合わせた。優香の口から、新之助の口に、冷たい水が入っていった。


「うー、うまい。生き返ったようだ。優香の唇のぬくもりを感じられて、本当におれは生きているんだと思えたよ」


 そういうと、新之助はふたたび目を閉じて、安らかな寝息を立て始めた。


 優香は、お医者様が眠っている小屋に行って、事の顛末を説明した。お医者様は、驚いたような口ぶりで。


「それは、良かった! ワシも心配じゃったが、峠は越えたな。あとは、うまいもんを沢山食わせて、養生しなさる事だ。それではワシも戻るので、また町まで送ってもらえまいか?」


「はい、承知いたしました。お医者様。それから、私の着物はあのまま町の呉服問屋で処分していただければ、かなりの金で引き取ってもらえるはずです。あの着物は決してやましい物ではございません。わけあって手放す、私自身の物でございます」


「あいわかった。それでは、あの着物を確かに治療費としてもらい受ける。素人のワシから見ても、良い仕立ての物であることが分かるからな。呉服問屋で高く引き取ってもらえるじゃろう」


 優香は、お世話になった医者を乗せて、町に連れて行った。そして、帰り際に、寺によって、和尚にも報告した。


「おお、それは良かった。姫様の機転のたまものじゃよ。姫様の新之助への思いの強さが、御仏や天の神様にも伝わったのじゃろう。良かった、良かったワイ」


 優香の話を聞いた和尚様は、心から喜んだ。

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