第8話 今日もお疲れ様でした

 教室に戻って、荷物を全部持って図書室に移動する間も、優香の別れ際の言葉が俺の頭の中でグルグル駆け回っていた。


「新之助君に私のお箸を舐めて欲しいかな……」

 うおー! アレってどういう意味だ?

 文字通りの意味なのか? それとも冗談なのか?

 駄目だ頭が混乱して、理解力が落ちている。

 ついでに理性も吹っ飛びそうだ。


 図書室に着いて教科書とノートを広げても、優香の最後の言葉が頭から消えないので、全く教科書の内容が入って来ない。


 きっと外から見ると、ニヤニヤしている様に見えるんじゃ無いか? 絶対不審者だよな俺。ダメだ、ダメだ。両頬を両手でバチンバチンと叩いて、気を入れ直す。

 それでも、ほんの少しでも油断すると、彼女の真っ赤な耳たぶの画像と「舐めて欲しいかな……」という言葉が俺の頭の中に無理やり入り込んで来る。

 どこから見ても、誰が見ても、俺は図書室で一人悶々としている怪しい男子高校生だ。


 ヤバイヤバイ、チョット冷静になるために、トイレに行って顔を洗ってこよう。


 ***


 なんとか冷静になれそうだ。あんな衝撃的なシチュエーションを無理に忘れようとするからダメなんだ。全てを受け入れてしまえばいいんだ。そうだ、今日も優香と一緒に帰れるんじゃないか。だったら、これ以上過去を思い返しても仕方ないじゃないか。未来に向かって羽ばたけ、オレ。


 とにかく、教科書を読め!

 参考書を読め!

 図書室の本を読め!

 今、目の前にある事をするんだ!

 どうせ部活帰りに優香と一緒に帰れるんだぞ!

 ……

 また、「舐めて欲しいかな……」が聞けるかもだぞ!


 しまった、また悶々スイッチが入ってしまった。トイレに行って顔を洗ってこよう。


 ***


 結局、優香の部活が終わるまで、図書室とトイレを数えられないくらい往復してしまい、何のために図書室に居たのかよく分からなくなってしまってた……。


「新之助君、お待たせ〜ッ! さあ、一緒に帰ろう!」


部活動を終えて、俺と一緒に帰るのが嬉しくて仕方ないオーラが出ている優香が、帰り支度をした格好で図書室に入って来た。


「アレ? どうしたの、すごーく疲れてる感じだよ? 髪の毛も濡れてるし! 図書室で勉強しないでトレーニングでもしてたのかな?」


「何言ってんだよ、全部優香のせいじゃないか! オレは放課後ズーッとお前の最後の言葉のお陰で悶々としていたんだぞ!」……とは口が裂けても言えないよな。悶々としてる俺が悪いんだもんな。別に優香は悪くないものな。


「イヤイヤ。別に何でもないよ。チョット眠かったんで、トイレで顔を何回も洗ってただけさ。さてと、それじゃあ久し振りに二人で帰ろうか?」


「そうね、今日は楽しい事が沢山あったから嬉しい気分で帰れるし、帰るときも新之助君と一緒だから私は嬉しいわ!」


 優香は、心底嬉しそうに俺の顔を上目づかいで覗き込む。


「じゃあ、帰ろうか優香」


 そう言って、俺は自分の勉強道具を無造作にカバンに詰めこんで、優香と一緒に図書室を出る。


 俺達は、朝来た道を歩いて学校の裏門からバス停に向かう。殆どの生徒は、正門から駅に向かうバスが止まるバス停に行くから、こちらの道を使う奴は殆どいない。このくらいの時間になると道は結構暗くなっているが、まあ男性が付いているから無防備では無いかな。


 バス停のそばには街路灯もあるし、バス停から少し離れているけど、お決まりの様にコンビニもあるから、危険なほど暗いわけでは無いんだ。でも、女子高生一人でバス停にいるのは防犯上よろしく無いと思う。


「優香、俺前から思ってたけどさ、もう少し明るいうちに帰ろうぜ? このバス停、暗くは無いけど人気が殆ど無いからヤッパリお前一人じゃあ心配だよ」


「えー、嬉しい事言ってくれるのね! 確かに人の気配が少ないから、時々怖くなる事はあるわ。そこの暗闇から、『ヒュードロドロ』ってオバケが出たらどうしよう? とかね」


「イヤイヤ、科学の時代にオバケなんて古い事言っている場合じゃないぜ! 今はお化けより怖いのは人間なんだからな。危ないヤローに比べたらオバケなんか可愛いもんだよ!」


「あら、『オバケを可愛い』って言ってくれる人、初めて見たわ。なんて嬉しい事を言ってくれるのかしら」


「ふーん、優香、何オバケの肩持ってるんだ? お前はオバケじゃあ無いだろう? オバケに知り合いでもいるのか? 本当に誰にでも優しいんだからな、優香は」


なぜか優香は、俺が『オバケを可愛い』と言った事にすごく反応して、暗闇の方を見ながら本当にうれしそうに微笑んだ。


「話は戻るけど、最近は物騒な奴が多いから本当に優香の事が心配なんだ。最後の大会も終わった事だし、もう部活動を引退してもいい時期だろう? 明るいうちに帰ろうぜ?」


「ウーン、確かにそうなのよね。ソロソロ引退の時期なの。本当は上級生なんかサッサと引退して、若い次の世代に任せるべきなのよ。それは私も十分に分かっているの。でもね、正直に言うとなかなか踏ん切りがつかないんだなあ、コレが……」


 優香は手提げカバンをブラブラさせながら考えこむように答える。


 プップ、ぷー!

 きーっ!


「お! バスが来たぞ、取り敢えず乗ろうぜ」


 俺は、優香に声をかけた。


 この時間帯のバスはまだ結構混んでいて、二人で座れる席は無かった。俺はバスの握り棒を掴みながら、二人が並んで立てる場所を探していた。


『出発しますー、お近くの握り棒にお掴まり下さいー』


 運転手さんのアナウンスが終わるのとほぼ同時にバスは加速を始めた。


 ブォーン!


 突然の加速で、握り棒を持たずに立っていた乗客は一斉に倒れそうになった。


「うわぁー」

「キャアー」


 俺の横に立っていた優香も、その流れに引き込まれそうになった。しかし間一髪、俺の腕に抱き着く事で難を免れた。優香は両腕で思いっきり俺の腕に抱き着いている。彼女のふくよかな胸が俺の肘に食い込んでくる。彼女の胸の膨らみは、彼女の呼吸と共にわずかに上下しているのが感じられる。


 と、突然優香が真っ赤な顔をして、俺の耳元で何かを囁き出した。バスの中は結構うるさいので、彼女が何を言っているのかよく聞き取れない。


「ブ……」の「フォッ……」が「はず……」


 ? 一体何が言いたいんだ?

 俺、足でも踏んじゃったかな?


 彼女の顔は火が出るくらい赤くなっている。

 放課後の時と同じく、彼女の髪の毛の間からちらりと見える可愛い福耳の耳たぶも真っ赤だ……

 バスの中は照明が少なくて暗いので、彼女の表情が見えるのは幸い俺だけだった。


 彼女は俺が聞こえていない事に気がついたらしく、更に俺の耳元に近づいて、小声で囁いてきた。耳元に近付き過ぎて、彼女の吐息が俺の耳たぶにかかって少しこそばゆいが、コレはコレで有りだと思った。


「ゴメンね、新之助君」

 と言うと、また本当に聞こえるか聞こえないかの声で囁いた。


「ブラジャーのホックが外れちゃった……」


「うへ?」

 思わず素っ頓狂な声を出しかけて、俺は慌てて飲み込んだ。


「帰り仕度を急いでたから、着替える時にちゃんとホックが止まっているか確認しなかったの……」


 優香は、俺の腕に抱きついた状態で、しきりに自分の背中を気にしている。


「バスの今の衝撃で、他のお客さんに巻き込まれまいとして体をひねったのが原因かしら……」


 俺と意思疎通が出来て安心したのか、彼女の顔の赤みが少しづつ引いていくのがわかった。でも両方の耳たぶはまだ赤いままだった。


「でも優香、俺は何をしたら良いんだ? ブラのホックなんて留め方知らないぞ。自慢じゃないけど……」


 俺も優香の耳元で、小さくてもハッキリとした口調で囁いた。彼女の耳たぶはまだ赤いままだ。彼女の首筋からは制汗剤の香料と彼女自身の汗が混じった匂いが、ほんのりと香ってくる。彼女のうなじに広がるうぶ毛には、キラキラと汗が光っている。


「うん、そこは大丈夫。ホックの留め方を知っている男子高校生がいたら、逆に怖い……」


 バスの動きに合わせて、優香の体はおれの腕の動きについて来る。


「とにかく、しばらくこのまま新之助君の腕に抱きついたままでいさせて。そうしないと、ブラジャーが胸から落ちちゃうの……」


 うえ!?

 俺の腕はブラジャー止めの道具か?

 でも、と言うことはしばらくの間彼女の胸とブラジャーは俺のモノという事か。


 バスがどんどん終点に向かっていくと、乗客はドンドン降りて行く。やっと後ろの方の二人掛けの席が空いたのを見計らって、二人共ピッタリくっついたままその席に移動した。


 席に座ってから、優香はおもむろに俺の腕から胸を離した。サヨウナラ、優香のオッパイとブラジャー! 短いつながりだったなあ、元気でな。

 俺が彼女のオッパイとブラジャーに別れを惜しんでいる間に、優香はシャツの間に手を入れて、ガサゴソとブラジャーの位置を直している。


 え?


 もしかして後半からは、すでにノーブラ状態で俺の肘には彼女の胸がダイレクトに当たっていたという事か? まさかなあー。流石にそこまでブラジャー落ちてないだろう?


「ウーン、ヤッパリ小さめのブラジャーだとキツイわね。ドンドン胸が大きくなると合わせるのが大変だわ。やはりサイズはこまめに合わせないとダメかしら? 新之助君はどう思う?」


「イヤイヤ、それは俺に聞く事では無いだろう。俺はブラジャーした事ないし。やはり下着売り場のお姉さんに相談するのが正しいと思うぞ」


「そうよね。ごめんなさい。色々と助けてもらったし。このご恩は一生忘れないからね」


「おう、困った時はお互い様だよ。それに、俺的には良い思い出を作らせてもらったしな。優香の胸にずーっとタッチしてた訳だものな。こんな夢みたいな事、もう一生無いんじゃないか?」


「え? そんな事無いわよ、これから一生新之助君に面倒見てもらうかも知れないし」


 お互いに会話をしていると、俺と優香の顔が、なぜか赤らんで来た。


「次は終点でーす」

 男子高校生と女子高校生がブラジャーの話をしていると、バスの無機質な自動音声が聞こえて来た。


 バスが終点に着いた。ここで降りるのは俺と優香だけだ。


「運転手さん、今日もお疲れ様でした。私たちを安全にここまで乗せて下さり有難うございます。それでは、おやすみなさいませ」


 相変わらず、優香の馬鹿丁寧な挨拶で、俺たち二人はバスを降りた。バスの運転手は、まんざらでもない顔をして、優香に向かって軽く手をふってくれた。

 優香って、ほんと誰にでも優しいんだよな。


 俺達はバスから降りた。バスはトビラを閉めると俺達を残して直ぐに走り去っていった。バスが去った道の向こう側には大学病院の救急救命センターを表す明かりがハッキリと見えた。

 そしてその背後には、就寝時間が過ぎて灯りがほとんど消えている病院の大きな入院棟のシルエットがぼんやりと見える。 

 さらに入院棟のシルエットに重なるように、沢山の星が瞬いているのが見えた。今日の星たちは、俺と優香をやさしく見守るように、ふだんよりもいっそう綺麗に輝いていた。


「そうか、今日は新月で月が見えないんだ」

 

 オレがボソリと言うと、優香が答えた。


「明るいお月様も、たまには隠れてもらわないと、空のお星様たちが一生懸命に輝いているところが分からないですものね」

 

……


 星たちが小さな光で精一杯輝いている中、二人はどちらからともなく、お互いに手を近づけた。最初は、そっとお互いの指に振れて、それから、お互いの意思を確認するかのように一本一本の指を絡めていった。

 二人は、お互いの手をシッカリと握りながら自宅に向かって歩いて行った。


 もちろん、新之助のシャツは優香が洗濯するためにもらい受けていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る