第4話 うれしいー、でも辛いー

 バスが出発してから、何個かの停留所を過ぎた。俺たちは始発から乗ってきたのでバスはガラガラだったけど、停留所を通過するたびに乗客がドンドン乗ってきて、既に席は全て埋まっていた。


 俺たちが下りるバス停まではまだ大分先なので、普段の俺ならこのあたりで睡魔に襲われる。でも、今日はとてもじゃないけどそんな気分になれない。心も体も火照ったままだ。

 と、隣に座っている優香が船を漕ぎだした。


 ゆーら、ゆーら、ゆーら。がく。

 ゆーら、ゆーら、ゆーら。がく。


 しかたないか? 今日は俺の分の弁当を作るのに朝早くから大変だったんだろう。いつも全力な彼女でも、こんな事があるんだなあ。


 ゆーら、ゆーら、こて。


 彼女の頭が俺の肩に倒れこんできた。彼女の頬っぺたが俺の肩に乗っている。さっきと違って、俺の眼前には彼女の安らかな顔がある。彼女のほっぺたから俺の肩越しに彼女の体温が伝わって来る。

 改めて思う。人間って温かい動物なんだよな。俺の肩には明らかにポカポカしたぬくもりが伝わって来る。それと同時に二人の肉体に挟まれた俺のシャツは少しづつ湿り気を帯びて来た。

 一つは、俺の体から出ている湿気、そしてもう一つは優香のほっぺたから出て来る湿気だ。この二つの湿気を、おれのシャツは優しく受け止めて二人分の湿気を交わらせた上で吸収しているんだ。

 交わるなんて言葉は、高校生には禁句だけど、あえてここでは使いたい。今、俺の肩では、優香の湿気と俺の湿気が交わっているんだー。おれは湿気になって優香の湿気と交わってみたい。そう思って俺はほんの少しだけど、自分の湿気に嫉妬した。


 しかしこうして改めて優香の寝顔を眺める。俺の寝顔は何回に優香も見られているだろうけど、俺が優香の寝顔を見る事なんて普通にしてたら100%無いだろう。これはある意味いい機会だった。


 鼻筋はすーっと通っていて、細めの眉はキリリとしているのだけど、目じりは少し垂れ気味な感じで、全体的に優しさと言うか愛らしい感じがする。

 まつ毛は長めで、眠っているからだろう、ぴくぴくする瞼とおなじタイミングで緩やかに上下している。

 やや薄めの唇は、わずかに開いていて、唇の間からかすかな寝息が聞こえて来る。唇の色はうすピンクで艶やかだ。彼女の色白な顔に素晴らしいワンポイントを与えている。

 なんだろう、完全に安心しきって無防備な状態で寝ている子猫のような感じだ。

 かすかに聞こえる寝息に合わせて、女性として立派に育った彼女の胸はゆっくりと波打っている。

 制服の隙間からは、今度こそ本当に、彼女の柔らかくはち切れそうな胸を優しく包み込んでいるブラジャーの模様がはっきりと見て取れた。


 ああ、生きていて良かった!

 神様、本当にありがとうございます。

 これこそが、至福の時というやつなんだろう。

 今、この瞬間に神様に召されても、俺は何も後悔する事は無いと確信出来る!


 それとも、いっそこのまま野獣と化して、彼女の柔らかそうな唇を奪ってしまうという悪魔のような妄想も受かんで来る。

 でも、彼女の無防備な寝顔を見ていると悪魔も退散してくれそうな感じだった。


 ただし、この至福の時間ももうすぐ終わりになってしまうのがなんとも惜しまれる。このまま、永遠にバスに乗っていたい。

 もしも今、俺の前に悪魔が現れて望みは何だと言われたら、おれは自分の命を差し出してもこのバスを永遠に走らせてくれと伝えるだろう。

 それか、何かの偶然で魔法というものが使えたら、俺たちが下りるバス停を消してしまってバスを永遠に走らせ続けたいと心の底から思った。


―――


 しかし、結局俺の処に悪魔は来ないし、魔法が使えるようにもならなかったんだ。


「次は、一丁目ー、一丁目ー。県立高校前です。降りる方は、お近くの呼び出しボタンを押してください」


 俺の至福の時を壊す、地獄からの悪魔の叫び声が聞こえてきた。

 このバス停で降りるのは俺たち2人だけだから、俺が停車ボタンを押さないと乗り過ごす事になる。でも、この至福の時間をもっと続けていたいという思いもある。

 今この瞬間、俺の中で天使と悪魔の戦いが全力で行われているはずだ。


 結局、勝ったのは悪魔なのか天使なのかは分からなかったが、俺の右手はバスの呼び出しボタンを押していた。


 ピンポーン。

「次、止まります!」


 無味乾燥な人工音声が、次のバス停に停まる事を告げた。


「優香、優香! ほら、もう着くぞ!」


 俺は優香に小声で声をかけながら、彼女の肩を軽く揺すって、起きるのを促す。


「うーん……」


 周りの乗客に迷惑をかけないように、彼女は借りて来た子猫のように俺の横で小さく伸びをしてから、こちらを覗き見る様にして小声で聞いて来た。


「あれ? もう着いたの? ごめんなさい、なんか寝ちゃったみたい。でも、すごーく熟睡出来た気がする。凄い目覚めがスッキリしてる。チョットした時間でも熟睡すると疲れが取れるって言われるけど、本当にその通りね」


 優香はそう言って俺の肩の部分を見る。俺のシャツの肩口は、優香のほっぺの湿り気と俺の肩からの湿り気でうっすらと濡れていた。


「新之助君の肩って魔法の枕ね。私の汗が肩に着いちゃったかな? お詫びとして、今日持って帰って洗ってあげるから後で頂戴ね。あ、お母様にも伝えておいてね。勝手に持ってくと気にされるからね」


 イヤイヤ、オマエの汗が染み込んだシャツは洗わずに俺の家宝にしたいぐらいだ……、心の中でそっと叫ぶ。


 キーッ!


 バスが停まったので、バスの後方の席から出口に向かうために、俺が先頭になっ乗客を掻き分けながら移動していく。乗客を掻き分けている俺の後ろを、彼女がピッタリと着いてくるのが気配でわかる。

 彼女が通るに従って、周りの乗客の視線が移動している気配も、余計な事だけれど感じられる。

 更に追加すると、彼女を見た視線がそのまま俺の方に刺さるのも、痛いほど感じられる。

(あんな可愛い女子高生の彼氏がアレなのかしら? そんな事無いわよね。多分兄弟か何かなんでしょう?)


 別に優香が悪い訳では無いんだ、絶対に! ここだけは俺も譲れない。

 ……だけど、彼女と一緒に人混みの中を歩くのは本当に辛い。

 彼女には美人の才能(オーラ?)があって、彼女が歩くと誰もが彼女を見る。しかし俺が彼女と一緒に歩いていると、最初に彼女に向いた視線が、折り返す形で俺に突き刺さる。

 人間の視線がこれほどイタイ物だとは、優香と一緒に人混みを歩く様になってから気が付いた。


 高校の体育の授業で剣道があるし、俺も部活動で経験があるけれど、竹刀で防具以外の場所を叩かれるとメチャ痛いんだ。ホント、アレの連続攻撃って感じだ。


 人の視線て本当に刺さるんだよ! ホントだぜ。

 一人二人ならまだしも、何十人の人間から刺されたら、流石の俺も体力ポイントと精神ポイントをガンガン削られている感覚だ。体調が悪い時なんか直ぐにゲームオーバーになるだろう。


 でも、だからと言ってそれが彼女と歩く事の障害なんかにはならないぜ。

 刺されようが、切られようが、何をされようが、俺にとって彼女と一緒に歩ける幸せの方が百万倍上なんだ!


 とか考えながら、バスを降りた俺たちは高校に向かった。

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