第15話 そして雨が降る

 事が終わってから、持っていたタオルであやの体を拭いて、乱れた髪や服を整えてあげる。

 タオルは絢と行為に及ぶようになってから持ち歩くようになったものだ。


「はぁ……はぁ……」


 絢は体力を使い果たしてぐったりとしている。私も興奮して息が上がっていた。

 私の方は前戯だけで終わっているようなもので、毎晩自分を慰めるのが大変だ。

 絢も同じことを思ってくれてるだろうか。


「はぁ……結梨ゆうり、キスして」


 絢がまたそんなことを言い出した。

 でも私は絢の要求を断らずに、優しく唇を重ねた。舌は入れずに、ゆっくりと。


「ん……今日はどうしたの、絢? ずいぶん欲しがるね」


「……はぁ。結梨が欲しかったの、それだけだよ」


「嬉しいけど、自分が怪我人って事忘れてない?」


「結梨は心配しすぎだよ。私、だってちゃんと気をつけて……はぁ……」


 疲れてちゃんと話せないのか、絢は息が切れて胸元を抑えていた。


「私……分からなくなって……ごめんね、結梨」


「謝るのは禁止だよ、絢」


「そう、だったね。私、結梨の恋人なのに、分かんなくなっちゃって」


「分かんなくなった?」


「うん。あのクラスメイトに、葉波はなみ順平じゅんぺいって人に会ってから、ずっと頭が痛いの。ずっと何かが違う気がして、胸もズキズキして」


「…………」


「結梨のモノになれば、何も考えなくても良くなるのかなって思って」


 葉波順平に何か言われたのか。

 あいつ、私の絢に何を吹き込んだんだ。


「結梨……私たち、恋人、だよね?」


「…………もちろん、私たちはずっと一緒だよ」


 ……記憶の齟齬そご、差異が確実に生まれ始めている。

 絢の苦しむ姿を見ると、私まで胸が痛んで辛くなった。





「葉波順平」


「どうしたの、洲崎すざきさん」


 翌日。

 私は放課後を待たずに、葉波順平が登校してきたところで声をかけた。


「ちょっと来てくれる?」


「……いいよ」


 場所は小音楽室。鍵は葉波が持っていたものを使った。


「それで、何か用事? 朝のホームルームが始まっちゃうよ」


「絢に何を吹き込んだの」


 単刀直入に聞く。葉波はなんてことないって顔で応える。ムカつく。


「何も。ただ普通にお話ししただけだよ」


「嘘ね。絢を苦しめて何のつもり? 何がしたいの?」


「……はぁ。仲本なかもとさんを苦しめてるのは、君だろ。洲崎さん」


「なっ」


「嘘の記憶を埋め込んで、記憶の齟齬が生まれて何も信じられなくなる。記憶喪失の人間ってね、嘘一つで簡単に壊れるんだよ」


 それは普通の人間も同じか、と呟く葉波。


「僕の母親もね、記憶喪失だったんだ」


「は?」


「仲本さんと同じ交通事故で、同じように記憶だけを欠損した。

 記憶喪失前の母親はね、虐待を日常的に行っていたんだけど記憶を失くしてそれが無くなった」


 淡々と話す葉波は、最初に抱いたイメージの透明人間か雲のように、人間臭さが無い。


「父親はそんな母を捨てて逃げた。

 残された子供の僕は、記憶喪失の母親に何をしたと思う?」


「…………まさか」


「そう、嘘をついた。

 記憶が戻ってまた虐待されるのを恐れた僕は、記憶を欠損した母親に言ったんだ」


『お母さんは酷い人だったよ。僕を殴るし、人のものは盗むし、お父さんにも暴力を振るっていたよ』


「……嘘というより、事実を極端に誇張したって感じだけどね。実際は息子に対する暴力以外は何もしてない。でも、記憶喪失でになったお母さんは、僕のついた嘘で酷く心を痛めた」


 こいつの言ってることはデタラメだ。嘘だ。そんなこと、そんな上手くいくわけがない。私と葉波のやってる事は同じじゃない。


「僕はどんどん嘘を重ねた。既に頭が空っぽだった母は、僕の嘘をどんどん信じた。そして気に病んで自殺未遂をして廃人になった」


「っ!」


「母は今も病院のベッドの上で廃人状態なんだ。

 ……もう一度言うけれど、記憶喪失の人間は簡単に壊れるよ。言葉だけで人は死ぬし、嘘だけで人は人を殺せるよ。善し悪しなんて関係ない。過程や発生がどうあれ、それは純然たる嘘でしかない」


 私は……違う。そんな事を望んでいるんじゃない。私はそんな悪意のある嘘をついたことはない。


「仲本さんは今、洲崎さんに依存しようとしてるんじゃない?」


「!」


 依存……私のモノになりたいと言っていた。頭を空っぽにしたかったと言っていた。けどそれは、私たちが愛し合ってるからで……。


「依存の次は思考放棄。そして最後に廃人だ。うちの母親と全く同じだよ」


「違う! 私は、私は絢を廃人になんてしない! させない! 私は、私は……!」


「そもそも、洲崎さんが好きになった仲本さんって、君に依存するような仲本さんじゃないでしょ? よく考えた方がいいよ」


「!」


「さぁ、教室に戻ろう。話がまだしたいなら、放課後にここにいるから」


「………………」


 外は分厚くて黒い雲に覆われて、昼を過ぎる頃には大きな雨粒がけたたましい音と共に降りそそいだ。


 その日の授業は何も頭に入ってこなくて、自分の行いと、絢の事だけが頭の中でいっぱいだった。

 私は、体調不良を理由に五時限目の授業を出ることなく早退した。

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