第9話 記憶にない愛情表現
私の名前は
交通事故に遭って記憶喪失になったそうだ。
私は自分が誰なのかも分からないし、親だと名乗る大人の人が誰なのかも分からない。
親だと言われても、私からすれば初対面の人に過ぎなくて、それがとても寂しくて、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
私の記憶喪失は、私や家族、友人や学校の事を綺麗に失くしている。
けれど、『信号は青で渡る』『林檎は赤いもの』とかの常識は覚えているので、多分私の記憶喪失は『人間』に関するものだけなのだろう。……ひょっとしたら忘れている事自体を忘れているだけで、人間以外の事も忘れているのだろうか。
そして、私は一つだけ、常識とは違う関係を持った人がいた。その人は──
「こんにちは、絢」
病室の扉ががらりと開いて、一人の制服姿の女の子が眩しい笑顔を浮かべながらやってきた。
「こんにちは、
その女の子の名前は
私の──恋人らしい。
結梨は私が寝ているベッドの横の椅子に座ると、本当に幸せそうな笑みを浮かべて私に微笑んでくれた。
私が布団の隙間から右手を結梨に差し出すと、結梨は宝物にでも触るように優しく両手で包んでくれた。
私と結梨は女の子同士だけど恋人。
お互いがお互いを好きで、愛し合っていて、大切に想っている存在……のようだった。
私はその関係に最初戸惑いを隠しきれなかった。私の記憶している常識の中では、同性愛は普通じゃなかったからだ。
勿論、同性愛者を否定するつもりは無いけれど、そういうのはフィクションの中だけの話だと思っていた。
でも実際は、私には女の子の恋人がいた。
記憶喪失前の私は、同性愛者だったということだ。
……記憶喪失前の私は、どんな人だったのだろう。きっと今の私とは人物像が大きくかけ離れているはずだ。
それなのに、私の目の前に座って嬉しそうに話す結梨は、大きく変わってしまった私を変わらずに愛してくれている。
……私は、その事を嬉しく思うと同時に、なにか得体の知れない焦燥感が身を焦がしているような気がしてならない。
今の私は、結梨を恋人として見れていない。自認は異性愛者のままだ。だからきっと、早く記憶を取り戻したくて焦っているのだろう。
早く記憶を取り戻したい。
父と名乗る男性に、心からお父さんと慕いたい。母と名乗る女性に、心からお母さんと甘えたい。
──恋人と名乗る結梨を、心から愛してあげたい。
それがきっと、本来の正しい感情であるはずなのだから。
「ね、絢。今日もしていい?」
つと、結梨は椅子から腰を浮かして私に甘えた声でそんな事を訊ねた。
結梨は、私が勝手にしたら怒ると言われてから事あるごとに私に許可を求めてきた。言い出したのは私なのだけど……わざわざ口に出して許可を出すのはすごく恥ずかしくて、どうしても耳に熱がこもってしまう。
「……うん、いいよ……」
私が許可を出すと、結梨はベッドの端に腰を下ろして、私に顔を近づけてきた。
私は怖くなって目を
暗闇の中で、結梨の吐く息を感じてすぐに唇に衝撃が走った。
結梨の柔らかい唇が、私の唇に重なって、とても心地よい感触に包まれた気がした。
私と結梨は一昨日キスをした。それを皮切りに、結梨はキスを求めるようになった。
今まで心配と我慢を重ね続けさせてしまった結梨の事を思うと、その要求を断ることは出来なくて、今日で三度目のキスをした。
結梨とのキスはすごく気持ち良くて、口しか交わっていないのに、体全体がふわふわとしていてどこかに飛んで行ってしまいそうになる。
「ふ…………んっ……」
しばらくすると結梨は私の口の中に舌を入れてきて、私を体の芯から
ビリビリと電流が流れるみたいな感覚が全身を伝って、私は結梨から離れないように必死に手を握る。舌を絡ませる。
延々と続く柔らかな快感の中。
私は結梨の体温を感じながら、思考の隅に刺さった棘のようなものが邪魔をして、結梨だけを考える事が出来ないのが、とても心苦しかった。
◇
結梨が帰って一人になると、いつも同じ事を考えるようになった。
「…………私は、本当に結梨の事が好きなのかな」
……結梨は私の事を愛してくれる。
記憶を失くしても、変わらず愛してくれる人がいる。それはとても幸福な事で、恵まれた事だと思う。
なのに、私はその想いに未だに報いることが出来ていない。
私は母親が持ってきてくれたスマホを取り出す。ロックは自分の誕生日らしい数字を入力したら簡単に開いた。
……流石に不用心すぎると自分が心配になる。
スマホに記録された写真フォルダを眺める。友達との写真ばかりが入ったフォルダの中には、当然だけど結梨とのツーショットや遊んだ時の写真も数多く残っている。
しかし、おそらく最近撮ったものと思われる一枚の写真だけが、他の写真とは系統が違うように見えた。
それは、ピアノの写真だ。
何処か──音楽室とかで撮ったものらしいその写真には、ピアノと、ピアノを弾く誰かの姿が映っていた。
顔は見えない。ピアノとの位置関係上演奏者が誰かは分からない。けれど……。
「………………」
どうしてか、この写真ばかりが目に留まり続けた。
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