第1話 それが悲劇の始まり

 高校一年生の冬、あやは恋をした。

 初恋だったのだろう。私に嬉しさと恥ずかしさが混ざったような声音で相談して来たのだ。


「あのね、このあいだ葉波はなみ君がピアノを弾いてたの! もうそれがカッコよくてね!」


 嬉しそうに語る絢の顔を、私は今まで見た事がなかった。

 弾むような声も、紅葉のように紅潮させる頬も、私では絢から引き出す事が出来なかった。


 絢の初恋の相手──葉波順平じゅんぺいは部活動には入っていない。

 ただ、ピアノを習っているらしく、どこかのコンクールに出場したこともあるそうだ。成績は……興味がないから知らない。

 たまに音楽室のピアノを借りて弾いているらしく、絢はきっとその姿を目にしてしまったのだろう。


 正直に言えばショックだった。

 私は想いを伝えることはしなかったし、する気もなかったけれど……それでもやっぱり、胸が握り潰されているような感覚が襲ってきて、絢の恋を知ったその日は涙で枕がびしょびしょになってしまった。


 でも今は吹っ切れている。

 私の役目は変わらない。その事に変更はない。私は絢の恋もきちんと心から応援する。それがきっと、として出来る唯一のことだと信じて。


 そして現在──二年生の秋。





「絢。一緒に帰ろ」


 放課後、授業も終わって生徒たちが散り散りに帰り始めたので、私も絢に声をかけた。


 絢はポニーテールを揺らしてこちらに振り向くと、眩しい笑顔で応えてくれた。


「うん!」


 校門を出てバス停までの道。

 私たちはいつものように二人並んで帰る。


 絢はいつも上機嫌で、私にあれこれと話したり、私の話に楽しそうに笑い返してくれたりしてくれた。


「そういえばね、今日の放課後に葉波君が残って音楽室でピアノ弾くって言ってたの。聞きたかったなー」


 嬉しそうに笑う絢。けれどその笑顔は、私に向けられたものではない。

 私は努めて平常心で笑って応えた。


「それなら絢も音楽室に行けばよかったのに。私と一緒に帰ってきちゃってよかったの?」


「うん。葉波君ね、もうすぐコンクールに出るんだって。だから、邪魔しちゃいけないと思って」


「静かに観客として聞いてる分には迷惑になんてならないと思うけどなぁ」


「ダメダメ! それに大体、葉波君と二人きりなんて緊張で汗かいちゃうよ!」


「去年は二人きりでも平気だったじゃない」


「去年と今は好きの重さが違うのー!」


 今はもう恥ずかしくて無理ー、と首を振る絢に私は微笑んでみせる。

 幸せそうな絢を見ていると私も嬉しくなってくる。それが、私に向けられた表情ものでなかったとしても。


「はー……。葉波君の演奏また聞きたいなー」


「…………」


 私は、ふとこんなことを聞いてみた。


「絢が葉波君のこと好きって知ってるのは私だけなの?」


 何か考えがあって聞いたわけじゃない。ただ口から零れ落ちるように湧いて出た質問だ。

 それに対して、絢は照れるようにはにかみながら答えてくれた。


「そうに決まってるじゃん! こんなこと相談できるのは、結梨だけだよ」


「……そう、なの?」


「当たり前でしょ。私の一番の親友は、結梨しかいないよ」


 ──心の霧が晴れていくようだった。

 それだけで、その言葉だけで、救われたような気持ちになった。


「……そっか。私も、私の一番の親友は絢だけだよ」


「えへへー」


 ──それだけで、私は報われたような気持ちになった。





 バス停には私たちと同じ高校生が数人と、小さな子供とその母親と思われる女性が並んでいた。

 二人で仲良く列に加わってバスが来るのを待っていると、小さな子供が握っていた怪獣のぬいぐるみが、子供の手から滑り落ちてしまった。


「あー!」


 子供が気付いた時にはすでに、ぬいぐるみは車の通る道路へと転がっていってしまった。

 外でも肌身離さず持ち歩いていたのだから、きっと大切で気に入っていたものなのだろう。


 私は、離した自分が悪いのよ、と心の中で子供に対して呟く。

 大切なものは手にとって離しちゃいけない。いつか離れることになるとしても、今は手離してはいけないのだ。


 少し冷たいかもしれないが、私はそう思ってぬいぐるみが車にかれるのを黙って見過ごした。


 ……しかし。


「あっ、ちょっと!」


 母親が声を荒げる。

 驚いて視線を声のした方に向けると、道路まで転がり出たぬいぐるみを追いかけて、子供が走っていたのだ。

 母親も、列に並んでいた高校生たちも、もちろん私も、この瞬間ばかりは慌てずにはいられなかった。すでに視界には走る車が目に入っていたからだ。

 このままでは確実にあの子供も轢かれる。ぬいぐるみならまだしも、子供の命まで見殺しにしたら寝覚めが悪いどころの話ではない。


 しかし、人は誰しもが咄嗟の時に正確な判断を下せるわけではない。

 母親は声を荒げることしか出来なかったし、高校生たちは固まって動けなかった。

 私も、子供を目で追いながらどうにかして子供を止めなきゃと考えることしかできなかった。

 体は動かない。自己保身の為のブレーキがかかるばかりだ。

 私は頭の隅で、ああ、あの子は死ぬんだな、と冷静に判断してしまった。


 ──そして、私の横を誰かが走り抜けていった。


 走り抜けた人影は、絢だった。


「絢!?」


 私の制止の声なんて聞かずに子供の元へ駆けつける絢。

 子供はぬいぐるみを拾って一安心していて、絢は子供の腕を掴んでそのまま脇に放り投げた。


 車が迫る。


 私は、スローモーションのようになってしまった世界の中で、車の悲鳴のようなブレーキ音を耳にした。

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