第8話特殊な鼻を持つ人達ー生き物の死期を嗅ぎ分ける少女

 死にそうな生き物は、独特の匂いがする。

 これは何と例えていいかわからないが、仮にも「もっと嗅いでいたい心地の良い香り」ではないということだけは断言できる。

 その匂いはいわば“死臭”というやつなんだろう。幸田こうだマーサは、そう感じ取っていた。





 マーサは今、トリマーになるべく専門学校に通っている。小さい頃から動物が好きで、とりわけ犬が大好きだ。

 実家通いの理由も、家に愛犬が居るから。高校卒業と同時に一人暮らしの自由を手にしようかと一瞬考えたが、家に居る愛犬が脳裏をよぎり一人暮らしはあっという間に諦めた。

 専門学校は、鈍行電車で片道30分ほどかかる街中にある。マーサが住んでいる場所も決して田舎ではないが、都会でもない。家を出て数分歩けばバス停があるし、バスも1時間に数本通る。駅まで直通のバスも1時間のうちに何本か走っているから、実家暮らしでも不便しない。


 マーサの父親はイギリス人だが、日本語しか話せない。父の両親、マーサから見た父方の祖父母もイギリス人だが日本語しか話せない。母親は日本人だから、マーサは日本語しか話せないハーフという立ち位置に居る。

 いじめは多少受けたが、それらは全て彼女の美貌に嫉妬した人間からのものだった。マーサは、誰が見ても美しい顔立ちをしている。キレイとかカワイイとは違う、美しいという言葉がしっくりとくる顔立ちだ。


 彼女がこの能力に目覚めたのは、祖父が逝去してからだった。

 マーサが11歳の頃に祖父が亡くなり、その後愛犬の死を香りを嗅いだことで能力が発覚。当時の愛犬はまだ4歳。老犬等年齢ではなかったが、マーサの鼻はその死を感じ取りった。

 マーサは愛犬の死について、祖母にのみ相談した。これは祖父が生前マーサに「嗅いだことのない臭いを嗅いだら、おばあちゃんに相談しなさい」と常々言われていたからである。

 それはマーサの弟にも祖母が話していたが、弟のリクはまだ3歳だったから彼女の話の意味がかわからないといった顔をしていたのをマーサはよく覚えている。


 両親にこのことを話していいか祖母に相談すると、彼女は横に首を振った。

「この力は、隔世遺伝していくもの。おじいさんもこの能力を持っていて、おじいさんが亡くなったからマーサが引き継いだんだよ。この能力を知っていいのは、一つ飛ばしの血縁者のみ。だからマーサは、お父さんやお母さんにこの能力のことを言ってはいけない。そしてマーサはこの能力を貴方の孫に引き継がせることになるから、孫には能力のことを話す義務がある」

祖母は基本的に非常に優しい性格だが、この件に関して話す時だけは厳しい表情で、目線をそらすことさえ許さないという眼圧を込めてマーサとリクに話したのだった。




 マーサは11歳での能力開花以降は、人間だけでなく動物や昆虫の死を嗅覚で捉えることができるようになった。

 私生活にさほど支障は出ないが、学校で出会う動物から死臭が漂ってくると悲しい気持ちになることもある。そして電車通学をしていると、たまに死臭を鼻が拾うことも多少経験した。

『死』とは、遠くないものだ。どんな年齢の人も、その人の寿命さえくれば死んでしまう。長かろうが短かろうが、それは必ずやってくるもの。生きている限り、死から逃れることは不可能だ。18歳の今、マーサは心の片隅でそう思っている。




 今幸田家には、15歳になるおばあちゃんシェパードのララと、10歳のおじいちゃん柴犬のバシーと、2歳になりたてのお子様プードルのサクラがいる。両親祖父母共に犬が大好きで、マーサが物心ついた時には大きい犬種から小さな犬種まで様々な種類の犬が多頭飼育されてきた。


 大人だけでなく、歴代の愛犬たちからも、マーサとリクは愛されて育った。特にマーサは、犬を深く愛している。好き、大好き、という可愛い言葉では足りない。心から深く、愛している。自宅にいる愛犬はもちろん、目に留まった犬は無条件にいとおしく思えるくらいに犬のすべてを愛している。




 今年の冬は寒かった。

 幸田家の暮らす地域はあまり雪は降らないが、今年は雪が舞う日が何日かあって。屋内に居るといっても、やはりおばあちゃん犬のララの身に堪えたようだ。ララは冬の間に寝たきりになった。

 その頃から、マーサの鼻は死臭を拾い始めていた。


―ララが天国に逝くのは、近いかもしれない


ララが寝たきりになって、家族みんなできるだけララと過ごす時間を作るようになった。寝たきりになるということは、やはり良いことではない。寝たきりの状態で数か月間生きた歴代の愛犬もいたが、寿命に関してはマーサ以外は察知することはできない。

いつ、何があっても、すぐにララのもとに駆け寄れるよう。ごく自然と、家族の中心はララに照準が合わせられていた。


 マーサが死臭を感じ取って2日後。夜中にララが全身けいれんを起こした。人間のように、夜中駆け込む病院はない。母親から声がかかり、家族みんなで夜中リビングに集い、ララの体に家族全員分の手が乗った。

「ララ、愛してるよ」

「みんなここにいるからね」

父母の言葉に、リクの涙腺が緩む。死臭は就寝前よりもはるかに強いものになっていた。

 もう長くない。家族は視界から入るララの状態を見てそう察し、マーサは嗅覚からそれを感じる。


 けいれんから6日後。ララは天国へと旅立った。15歳。シェパードの平均寿命は8歳から10歳と言われている中、ララは非常に長生きで愛嬌のある賢い犬だった。



 ララの死後、家族は悲しみに暮れた。ララは死後火葬し、小さな骨壺の中に納まった。幸田家の庭には、歴代の愛犬たちが眠る場所がある。そこに雑草はなく、一年中色とりどりの花が咲き乱れるよう、家族で管理しているその場所。ララは四十九日を終えて、色とりどりの花が咲くそこに眠った。

 手を合わせ、神様と歴代の愛犬たち、そしてララに祈りを捧げて。みんなで家の中に戻ろうとしたその時だった。


―え…?


マーサの鼻を、先日まで色濃く漂っていたあの臭いがかすめて行った。ララを看取るその瞬間、家の中一杯に漂っていた死臭。マーサの鼻をくすぶるそれは、微かではあるがそれと同じ臭いだった。

 信じたくない。ララを失って、さらに誰かを失うかもしれない恐怖。それは言葉では表せず、マーサの指先が小さく震えて冷たい汗が滲む。

 臭いは嘘をつかない。それは今までの経験上重々承知している。だかマーサはまだ18歳。経験を積んでいるとはいえ、事実を正面から受け止めるほどの度量はない。



 言い訳はいくらでも浮かんだ。


 ララの死臭が強めだったから、まだ臭いが鼻の中に残ってるだけ。

 ララが倒れて天国に旅立つまでの期間に、家の中に臭いが染みついたのかもしれない。

 今はうっすら臭うけど、そのうち消えてなくなる。


 浮かんでは消えていく言い訳達は、どれも説得力に決定的に欠けていることはマーサが誰よりもわかっているはずなのに。

 大丈夫、大丈夫と。心のどこかで呪文のようにそう唱え、鼻に入ってくるこの何とも言えない不快な臭いの正体から目をそらすことしかできなかった。




 どんなに時間が過ぎても死臭が家から抜けることはなく、消えてほしいのに徐々に徐々に臭いがきつくなっていく。嫌だと思っていても、それから目をそらし続けることはできない。

 マーサの脳裏によぎっていたのは、この家で最年長の祖母かおじいちゃん犬のシバーだった。もしかすると、どちらかからこの臭いがしているのかもしれない。

 この家はずっと家の中にいるメンバーが限られている。父は会社勤め、母は英会話講師、弟は小学校に行っている。家にいつもいるのは、祖母と愛犬たちのみ。まだまだ若いサクラは、死臭の元凶ではないはず。

 考えたくはないが、時間経過と共にはっきりと漂い始めた死臭の原因について考える時間は嫌でも増えていった。



 夏を目前にしたある日。

「ただいまー」

夕方マーサが学校から帰宅。この日は早く学校が終わり、珍しく遊ばずに直帰した。リビングに向かうと祖母と愛犬2匹が出迎えてくれた。

「おかえり、マーサ」

「ただいま、おばあちゃん」

にこりと微笑み、マーサは愛犬2匹からの歓迎を受けて、嬉しさに表情を緩ませてそれぞれの頭やあごの下を撫でているときだ。


―あれ…?


いつもよりも家の空気が澄んでいる。死臭がしない。

 死臭が、しないのだ。

 祖母もシバーも、おばあちゃんと犬の匂いしかしない。

 幸田家は基本的に全員がリビングにそろっている家庭。全員そろっているからこそ、家族それぞれ個人の臭いの嗅ぎ分けが難しい。だからマーサは、老齢のどちらかからの死臭だと信じ込んでいたのに。

 今のリビング内の空気は、昔から変わらない我が家の匂いしかしない。マーサの血の気が一気に引いて行った。



 誰がこの臭いの元なのか。



知りたい気持ちはあって当然なのだが、知りたくない気持ちも大きい。この場に居ない人間となると、父か母かリクが臭いの元凶となってしまう。

 おばあちゃんや愛犬が旅立つことはもちろん悲しいが、両親や弟となると平静を装っておくことそのものが難しくなる。この能力のことは祖母か自分の孫にしか声に出して言うことは許されていないし、基本的に能力の話をすること自体タブーという雰囲気さえある。

 できるのであれば祖母に相談したい気持ちはあったが、能力の話をすると祖母は厳しい表情になってしまう。マーサはそれがどうしてもいやで、自分の気持ちを声に出すことができない。

「ただいまー」

リクが帰ってきた。

「姉ちゃん早いじゃん」

リクじゃない。

「ま、まあね」

マーサの笑顔に安堵の色が滲む。

 幼い弟に先立たれてしまうのは耐えられない。可愛い私の弟。ずっとそばに居たい。マーサは小学生のリクの頭をポンと撫でた。リクは訳が分かっていないようで、小首をかしげる。その表情すら可愛くて、マーサは一瞬死臭のことなど忘れてしまうほどに心が安らいだ。

「ただいま」

立て続けに父と母が帰宅。彼らがリビングに入ってきたと同時に、むわっとマーサの鼻に死臭が蔓延した。


―お父さんかお母さんのどっちかだ…!


一瞬息もできなくなるような強い臭い。二人のどちらかから漂ってきたこの臭いに、マーサはほんの僅か息を止めてしまった。



 どういう気持ちで顔を合わせればいいのだろうか。

 死臭による精神的なショックで、マーサは夕食後早々に部屋に引き上げてしまった。もっと家族と一緒に居たいのに。どうして死臭なんてしてきたんだろう。

 泣こうと思っていなくても、心が締め付けられて自然と涙がこぼれてくる。

 しかも臭いもきつくなってきている。あの臭いでは、恐らく後数か月も持たない。

 でも両親は至って健康に見える。元気に毎日仕事に行っているし、食事も毎日摂っている。でも思い違いではないことは、マーサが誰よりもよくわかってしまう。


―もしかすると、今病院で診てもらえば助かるんじゃないかな


マーサの脳裏に小さな希望が浮かんだ。臭いの傾向からして、まだ末期というわけではない。正確に言ってしまえば末期に近い状態ではあるが、それでも二人とも今のところ健康そのものだ。元気に行動できて食事も摂れているのであれば、もしかすると病院で精密検査を受ければ助かるかもしれない。

 直接死臭がするということを相手に伝えなければ、約束を破ったことにはならない。マーサは意を決してリビングへと下りて行った。


 階段を下りてリビングのドアを開けると、やはり強い死臭がマーサの鼻を殴る。

「マーサ。体調は大丈夫か?」

「熱でもあるの?」

父も母も本当に自分のことを心配してくれる、心優しい両親。マーサは両親のことが大好きだ。

「大丈夫。それよりお父さん?」

マーサは父親に話しかけながら、彼の座っているソファーの隣の席に腰かけた。

「どうしたんだい?」

父は大きな目を見開いて、笑顔でマーサを迎え入れる。

「最近調子が悪いところとか、ない?頭が痛いとか、おなかが緩いとか」

可愛い娘からの質問に、父親の表情が緩む。

「一体どうしたんだい?不健康そうに見える?」

「いいや、そうじゃなくて」

困ったようなマーサの笑顔を見て、父は少しだけ息をついてマーサの頭を撫でた。

「不調なところはないよ。今日もバリバリ仕事をして、家に帰ってきただろ?」

「そうだよね」

父親にニコリと笑うマーサ。部屋中に死臭が漂っていて、父のものか母のものかもよくわからない。父の話を信じたい反面、何を材料に信じればいいのか頭の中で模索している。死臭を嗅ぎ分ける能力があると言っても、部屋中に広がり、どこにいても同じくらいの臭いしか感じ取ることができないほどの強い死臭。どうしようかとマーサは戸惑う。

「はい、体温計。熱、測ってごらん」

母親が体温計を持ってこちらに歩いてきた。少しだけ空気が動いているように感じる。

「ありがとう」

ソファーの後ろに立っている母の方を振り向くと、むせそうになるくらいの臭いがマーサの鼻に押し寄せてきた。

「明日身体がきつかったら、学校お休みした方がいいかもね」

そう言ってマーサの額に、今まで洗い物をしていた母親の少ししっとりと水気を含んだひんやりとした手が当たる。


―…お母さん!


心配そうに腰をかがめて自分の顔色を観察している母から、どうしようもなく強烈な死臭が漂ってきている。

「お母さん、どっか調子が悪いところない?」

「どうしたの?藪から棒に」

「いいから!ない?!」

「ないけど」

そんなわけない。そんなわけない!こんなに死臭がしているのに、全くどこにも支障がないなんてことがあるはずがない。

 だが今目の前にいる母親は、いつもと変わらない少し痩せ気味の母親そのもの。どのようにすれば病院へ連れていくことができるだろうかと、マーサの脳がものすごい回転速度で思考を巡らせていく。

「明日熱があったら、お母さんと病院に行きたい」

「なにいってんの、そんな急に仕事は休めないわよ?」

苦笑する母親。そうじゃない、そうじゃないんだと、内心マーサは下唇をかみしめる。

「マーサは甘えたい時期なのかもね」

そう言って父親は入浴の為席を外した。やはり部屋の中の死臭は薄れることはない。これで母親から死臭が漂っているということが確証された。

「お願い、一緒にきて。できるだけ大きな病院に行きたいの」

「どうしたのマーサ…。どこか痛むの?」

「違うのよ、お母さん…!」

二人でやり取りしているところに、祖母が入ってきた。

「あら喧嘩?」

祖母の声に、マーサは一瞬ひるみ、母親は困惑の表情を浮かべる。

「マーサが病院へ行きたいみたいで…」

母親のそれを聞いて、祖母の表情も不安の色に染まる。

「まあ…、どこか悪いの?」

言えない。本当のことを言ってはいけない。祖母を見れば刷り込まれたそれが、体の中から湧き上がってくるのも感じる。言ってはならない。わかっている。


 だけど。

 だけどもしも、今病院に行けば。

 今治療を受ければ、もしかすると助かるかもしれない。

 このままでは数か月後に、お母さんが死んでしまう。




 そんなの、耐えられない!!!!





「お母さんから死臭がしてるの!もうすぐ死んじゃう人の臭いがしてる!!お願いだから明日大きな病院に行って!手遅れになってしまったら、あと何か月もしないうちに死んじゃう…!!」






 リビングに沈黙が流れた。


 祖母は目を、今まで見たことないくらいに大きく見開かれていた。




「ちょっと…、何を言ってるのマーサ」

母親は苦笑して、それを信じまいとした。

「お願い…お母さん…、お願い…」

ぼろぼろと涙をこぼして自分に縋りつくマーサの姿に、母親は言いしれない胸騒ぎを感じた。マーサは元々嘘をつくのが下手な子だ。今回のこれも、きっと演技ではない。

「わかったわ。明日なんとか休みをもらって、できるだけの検査を受けてくるから」

母親からの答えにマーサは安堵し、母の胸で声をあげて泣いた。

 祖母はマーサに何か声をかけるわけではなく、泣きじゃくるマーサの背中を優しくさすることしかできなかった。



 幸田マーサ。

 優しい少女。


 母への思いを貫き、彼女はパンドラに触れた。




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