第7話特殊な鼻を持つ人達ー人生の転換期を匂いで感じ取る男性

 大本聡夫おおもとさとおは、ここ最近奇妙な能力を身に着けた。自分の転換期を匂いで感じ取ることができるのだ。



 この能力に気がついたのは、ほんの少し前。

 独身の聡夫は、今年で50歳。定期的にお見合いをしている。女性との交際経験は、ほとんどない。このまま死んでしまえば、魔法使いに転生することができてしまう。



 今まで女性と交際したいと思わなかった、というわけではない。むしろ女性には積極的に話しかけていたし、食事にも数えきれないくらい誘った。

 聡夫は誰それ構わず女性社員に声をかけて、その都度その場で振られた。その様子は瞬く間に社内に広まり、当然聡夫を危険視するが声が本人以外の全員に瞬く間に広まった。

 いつしか聡夫は社内で、“女性社員なら片っ端から声をかける、危険な中年平社員”として定着。聡夫が気がついた時には、会社の女性陣からあからさまに警戒されていたという具合である。




 聡夫自身は、女性に対して自分でも驚くほどに優しくて親切な男だと信じて止まない。

 声をかけていない女性社員には、すぐに声をかける。

 後輩の女性社員には、特別優しく接するのは当たり前。食事へ誘うときは、ネットで調べた夜景の見える高層ビル上層部の、高級レストランの名前を出して誘う。

 残業の女性社員には差し入れをして、必ず労う。

 しかし、日々血の滲むような努力を継続しているにも関わらず、それらが全く実る気配はない。それどころか、可愛いと思っていた新入社員の美幸みゆきちゃんが、社内ではイケメンで出世街道まっしぐらだと噂されている後輩男性社員に横取りされてしまった。

 どうしてあんなチャラ男がいいんだと、聡夫は内心美幸に対して失望した。


 聡夫は美幸への関心をあっさり捨てた。先ほども言ったが、聡夫は定期的に見合いをしているから、美幸だけに固執する理由はない。

 好きだとか、この人じゃないと付き合いたくないだとか、そう言った感情は持ったことがない。若くて可愛くて、自分のことを心底愛し、一生懸命尽くしてくれて、料理上手で、優しい女ならなんだっていい。

 理想は高くない。別にスタイルがよくなくったっていい。デブでブスじゃなきゃ、文句はない。

 相手女性への条件は、しっかりと持っておくに越したことはないだろう。交際すれば結婚するものだし、それに伴い身体を重ねることだって何度もあるのだから。

 結婚は一生に一度。自分が傷つかないように、後悔しないように細心の注意を払っておかなければ。

 聡夫の女性に対する思いは、30代からずっとこの調子である。



 昨今は歳の差婚が当たり前の時代。ようやく時代が自分についてきたと、聡夫は歓喜した。1LDKのゴミだらけのリビングでカップラーメンをすすりながら、芸能人の年の差婚のニュースを見て大きな希望を胸に抱き始めたのだ。


―芸能人だって俺と同じ人間の男なんだから、俺に可能性がないわけがない


そう信じて、毎週末お見合いをしている。もちろん相手の女性は、20代前半。年齢差が2回り違うが、これも年の差婚の範囲以内だと。聡夫の中にある常識たちが声をそろえて謳っているのだ。





 聡夫は、世間一般の常識を馬鹿らしいと思っている。とりわけ“モテるための行動”や“女性が喜ぶ行動”等々は全否定に限りなく近い。

 外見に気を付けなければ、女は寄ってこない。そんなバカな話があってたまるか。自分の容姿のすべてを愛してくれる女こそ、自分にふさわしい。

 女性にだけ家事や炊事をさせてはいけない?ふざけるな。俺は毎日仕事して帰ってきてるんだから、家事や炊事は女の仕事。どうせパートしかしないんだから、家のことくらいやって当然。

 疲れて帰ってきた亭主である自分をエプロン姿で笑顔で出迎え、包み込むように癒し、心身ともに自分に尽くす。結婚相手ならば、最低限これくらいするべきだ。



 聡夫の中の女性、とりわけ運命の結婚相手に関しては、ねじ曲がった認識と感情が脳に張り付いている。

 そしてそれを無意識のうちに常識と思い込んだまま年を取った。




 聡夫に転機が訪れた、普段と変わらないある朝。

 いつも昨晩の夕食の残りの匂いしか漂っていない室内に、この日はいい香りが漂っている。どんな香りなのかと例えるのであれば、子どもの頃に使っていた固形石鹸のような香りである。

 固形石鹸なんて、もう何十年も使っていない。何よりこの家には風呂場にしか、いい香りがする要素のものがない。それなのにどうしてだろうかと疑問を抱きながら、数日前に着て汗が染み込んだシャツに腕を通した。

 余談だが、聡夫は汗は完全に乾けば臭わないと信じている。だからよほど黄ばみが目立ったり、何かをこぼしたという時以外はシャツは洗わない主義だ。


 毎朝髪は手櫛で十分。気がつくと額が広くなっていたし、後頭部もかなり髪が薄くなっている。櫛を使うと細くなった髪が引っ張られ、抜け落ちてしまう。

 ヒゲは剃るが、顔は洗わない。目に水が入ると痛いから。歯磨きはするが、歯磨き粉は使わない。歯は人体の中で一番固い骨だから、歯磨き粉なんてなくってもなんとかなる。



 もうお分かりだろ。

 聡夫は、女性に対する理想があまりに高く、そして自らは極めて不潔なのだ。自分で見る自分の容姿と他人から見た自分の容姿に相違があるということを、聡夫は知らない。ありのままの自分が一番だと信じ込んでいる。



 出勤時も石鹸の香りが、ずっと聡夫の鼻に周りに漂っていた。いい香りだから嫌な印象は受けないが、どうしてこんなにいい匂いがするのか身に覚えが全くない。

 自分の体臭が石鹸の香りになったのかと思い手のひらを嗅いでみると、手のひらから石鹸の香りがした。着古した背広といつ洗ったのか覚えていないシャツからも、石鹸の香りがする。と、聡夫の嗅覚が言っている。

 出勤中の排気ガスが漂う道路も、会社に入ってからも、息を吸えばずっと石鹸の香り鼻の中に広がった。


 石鹸の香りは、その日限りのものではなかった。香りを感じ始めて数日間、ずっと聡夫の鼻をくすぶっている。嫌な香りではないのだが、一体どこからこの匂いは漂ってくるのか皆目見当はつかない。

 仕事中、20代前半の後輩の女の子が資料を届けてくれた際、聡夫は彼女に話しかけた。

「…ねぇ、石鹸みたいな匂い、しない?」

彼女は見てすぐわかるくらい露骨に顔を引きつらせ、聡夫からじわじわと距離を取り始める。

「さあ。私はわからないです」

そう言って後輩は逃げるように聡夫の前から去って行った。



 彼女の行動は、ほかの女性い社員と同じものなので、聡夫のメンタルは無傷。


―俺のことを無条件に全て愛することのできない女には、興味が沸かない。そんなことよりこの匂いは、どこから漂ってくるのだろうか…


石鹸の香りの正体がわからないまま、数日後。週末に入っていた見合いに出向いた。相手は23歳の派遣社員の女性。彼氏がいた期間はないと、仲介サイトから紹介を受けた。写真も見たが、まあまあの美人。合格点ギリギリ滑り込み、といった印象。

 仲介を通してその女性と数日前からメールでのやり取りを開始し、本日の見合いはカフェで待ち合わせ。服は洗濯したものを着用しているから、清潔そのもの。昨晩髪も洗ったし、今日は帽子を被っているから髪の毛の心配もない。

 約束のカフェはおしゃれそのもので、俺にピッタリだと聡夫は感じた。相手の女性が指定したカフェだったが、とてもセンスが良くて彼女に対する印象が良くなった。


 約束の時間の15分前に聡夫はカフェに入って、テラス席に座った。それから3分後に相手の女性が現れた。

「こんにちは。聡夫、さん?ですか?」

彼女は背が小さくて美人で、そして申し分なく豊かな胸で、声もかわいい。

「はい。詩音しおんさんですか?」

聡夫が声をかけると、詩音は嬉しそうにほほ笑んだ。

「はい。お待たせしてしまって、すみません」

彼女からは、ほのかな石鹸の香りがしていた。


―彼女の匂いと俺の匂い…同じじゃないか!


聡夫が運命を感じたのは、言うまでもない。




 カフェでお茶をして、買い物をして。夕方にになったから、次のデートの約束をした。

「今日はとっても楽しかったです。来週末が楽しみです」

詩音はそう言ってにこりと微笑んで、聡夫に一礼して聡夫が呼んだタクシーに乗り込んだ。


―合格だ…!彼女は俺の嫁にふさわしい!!


聡夫は詩音を見送り、家路につきながら内心とても高揚していた。詩音こそ自分にふさわしい。彼女は自分と同じ匂いがしたし、彼女であればありのままの自分を受け入れてくれるに違いない!

 あと何回デートをすればホテルに連れて行けるだろうかと、聡夫は脳をフル回転させて毎週末のデートのスケジュールを決め始めた。



 帰宅後、少し石鹸の香りが薄れているような気がした。

 だが日を追うごとに、また石鹸の香りが強くなってくる。そして詩音と再会すれば、また鼻の周りには石鹸の心地よい香りが漂う。彼女といると、石鹸の香りがする。


 そしてこの香りがしているとき、自分は今まで経験したことのない経験をしていると、聡夫は気がついた。

 人生初めてのカフェデート。その後動物園でのデートもして、その時正式に交際することも決まった。ふとした時に石鹸の香りが薄れることがあるが、完全に香りが無くなることはない。


 その後も石鹸の香りが強く香った時は、数日後に大きな変化が現れていることに気がついた。

 詩音と出会い、彼女と交際を始めた時もそうだ。その後も入社以来窓際定位置だった聡夫が小さな昇進を遂げた際も、数日前から石鹸の香りがしていた。中途採用の女性社員か告白されたときもそうだった。…会社の女は30歳を過ぎていたし自分好みではなかったし、詩音ほどよくできた女ではなかったからその場で振ったが。



 目まぐるしく起こった小さな人生の転換期と香りが重なっていることに気がつき、聡夫は少し変わり始めた。部屋の掃除をし始め、使ったことのない台所をきれいにして、大量に沸いていたゴキブリも処理した。

 フローリングに直に敷いていた布団を新調し、大きめのベッドを購入。詩音がいつ家に来ても良いように準備万端の状態を整え、いやいやではあるが毎日入浴し、毎日洗濯をしだした。

 詩音の趣味は散歩と言っていたから、毎日少し歩いて体力をつけ始めたのもこの時期だ。以前は仕事から帰ればコンビニ弁当とカップ麺を食べてそのまま放置していたが、今は帰宅してすぐに入浴して洗濯機を回し、弁当を食べてごみを片づけて散歩をして就寝。自分でも驚くほどに健康的な生活を送るようになっていた。

 石鹸の香りが転換期がサインだと気がついて数週間で、こんなにも自分が変わるのかと聡夫自身が一番驚いた。



 生活習慣が変われば、周囲の視線や態度も変わってくる。

 詩音が以前デートの時に「髪型はボウズが一番好き」と言っていたので、わずかではあった髪の毛も坊主にして毎日頭をバリカンで刈るようになった。

 シャツも毎日洗い、スーツも新調して以前着用していたものはクリーニングに出した。散歩の影響なのか、少しずつ痩せてきて昔から来ていたスーツのウエストが緩く感じる。

 清潔感が出てきて、自然と女性社員から声をかけられることも多くなり始めた。

「お疲れ様です」「お先に失礼します」といたって当たり前の声掛けさえも今まで聡夫にはなかったものだが、徐々に声掛けも多くなり始め、ふと気がつけば女性社員だけでなく若手の男性社員とも雑談することが増えていた。

 聡夫は徐々に変わっていく周囲の環境に心地よさを感じていた。

 そして転換期内に人から見て“プラスの行動”をとることによって、石鹸の香りがどんどん強くなる事にも気がついていた。


―石鹸の香りが強くなるような行動をするだけで、こんなに周囲に人が増えると思わなかった。これを利用すれば、俺はもっと人気が出るんじゃないだろうか


聡夫はそう感じるようになってしまった。





 聡夫は確かに外見は変わった。だが、性格や価値観などは変わっていない。

 転換期に合わせて変化すればいい。こんな楽な話はない。

 中身が変わらなければ、根本的な問題は解決しない。転換期を読み取れない、いわゆる普通の人間のような、日常からの変化を遂げたというわけではないのだ。


 石鹸の香り。転換期の香りをかぎ分けることができる。その特殊能力を、聡夫は間違えた方向でしかとらえることができなかったのだ。


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