第6話特殊な耳を持つ人達ー相手の心の声が聞こえる少年

 木場文人きばふみとは、とても友達が少ない高校一年の男子である。性格は消極的の一言に尽き、自分から友達を増やすような行動はまずとらない。

 文人は元々人見知りだった。同年代の人に自分から話しかけることは、とても勇気が必要。幼稚園の頃からずっと一緒に居る幼馴染と小学校低学年の頃からの友人以外には、なかなか心開くことがない。

 それに拍車がかかったのが、16歳の誕生日を迎えてからだった。




 16歳の誕生日を迎えたその日の夜、少しいつもよりも豪華な食事を母親が振舞ってくれて、両親からゲームソフトをプレゼントとしてもらった。2歳年上の姉からは、ノートとシャープペンシルをもらった。

 小学生へのプレゼントみたいな姉からのプレゼントは、文人の心を和ませ、純粋に嬉しかった。というのも、文人と姉はの関係は仮にも良好とはいえない状態。姉とはここ数年間、会話がほとんどなかった。だから姉からの誕生日プレゼントは、文人にとって嬉しいものだったのだ。


 だがそれは一変する。

『誕生会とかマジ無理。なんであんな根暗が弟なんだろ』

姉の声が聞こえてきた。文人の小さな誕生会を終えて、姉はソファに座ってテレビを眺めている。姉とは今まで長らく険悪な雰囲気ではあったが、こんなにはっきり不満を言われることは今日が初めてだ。文人は内心震えつつも、勇気を握り締めて姉の近くに座った。

『いやいや、こっちくんなよ』

姉の声が、確かに文人の耳に入ってくる。大声ではないものの、声を潜めているという大きさの声でもない。言い返す勇気なんて持っていないし、至近距離ではっきりと不満を言われてしまって、文人は体がすくんで動けなくなってしまった。

『誕プレ渡せって小学生じゃあるまいし。母さんは私とこいつの関係を改善したいらしいけど、私にこんなダッサイ弟居るとかありえないんだけど。この前カツアゲした時にパクったノートが新品でよかった。シャーペンも傷なかったし。横流しするには、ぴったりだったわ』

姉は悪い人じゃないと思っていたのに。ちょっと話しづらい人くらいに思っていたのに。彼女の発言は、文人のそれをすべて殴り倒していった。

 ハアっと姉が一つため息をついて、テーブルの上のリモコンに手を伸ばす。

 その手の動きを目で追って、恐る恐る文人の目が姉の顔を映す。

『今回こいつの誕プレ代って母さんからもらったお小遣いとバイト代合わせれば、ちょっと遊んだ後ラブホ一泊分くらいになりそう。予定合わせるように連絡しとこっと』

恐怖に震えながら姉の顔を見ていると、彼女の口が動いていないことに気がついた。じゃなんで自分には姉の声が聞こえてきたんだろうかと、文人が考え始めた瞬間。

「なに?」

姉が文人を睨みつけながら声をかけてきた。これも自分にしか聞こえていないのかと、文人は呆然としたまま姉を見上げる。

「なにって聞いてんだけど」

「ふみくん、お姉ちゃんが話しかけてるよ」

母親から声をかけられ、文人はハッとした。

「な、なんでも、ないよ」

文人は焦りつつも、にこりと笑った。


 姉は文人のそれを見て、またため息を一つついて席を立った。

 先ほどの姉の発言は、母親の耳に届いていたのだろうか…?意を決して立ち上がり、洗い物をしている母親の背中に声をかけた。

「ねぇ、母さん」

「なに?ふみちゃん」

母親は手を止めて、こちらを振り向いた。

「さっき姉ちゃんが言ってたことってさ、母さん聞こえてた?」

ラブホだとか、カツアゲだとか。さっき姉がしていた物騒な話のことを、問いかけたつもりだった。

「お姉ちゃんはふみくんに、なに?って話しかけてた時のこと?」

母親は何も疑うことなく、姉からかけられた先ほどの一言について聞いてきた。

「いや、それじゃなくて…。あの…」

ラブホやカツアゲといった単語は、文人にとって全く免疫のない単語。そうやすやすと、口にする度胸はない。母親は文人のそわそわした様子を、不思議そうに眺めている。

「お姉ちゃんはあんまり家じゃしゃべってくれないもんね。そういう時期なのかな」

そう言って母親は苦く笑い、皿洗いを再開した。


―あれは俺にしか聞こえてないのか…?


母親が姉の話を聞き逃すとは思えない。両親は二人そろって子離れできていないし、多分するつもりもない。姉がもしもカツアゲしていると聞けば、母親はショックで寝込むだろうし、父親は激怒するだろう。彼氏がいることに関してはよくわからないけれど、そういうホテルに行くことは、両親そろって容認するわけがない。

 文人がその場で考え込んでいると、また声が聞こえた。

『そういえば卵って、賞味期限いつまでだったかしら』

母親の声が、はっきりと文人の脳に響く。

「母さん」

確認してみよう。文人が母の背中に声をかける。

「なに?」

母親はさっきと変わらない様子で、にこやかにこちらを見ている。

「今、何か喋った?」

「いいえ?なんで?」

母親はしゃべっていない。

「母さん今、冷蔵庫の卵のこと考えてた?」

「…ええまあ」

どうやら文人の読みは当たっているようだ。

「ありがとう」

母親に礼を言って、文人は部屋に引き上げていった。

 自分には人の心を読む能力がある。それを感じて確信した時、文人は少なからず高揚した。他人には恐らくないであろうこの能力を手にしたこの瞬間は、漫画の主人公になったような気分だった。



 しかし現実はそう甘いものではなかった。物事は漫画のように、美しく正義に輝くような何かに、この能力が仕上がるというわけではない。文人はそれを身をもって知った。

 誕生日を境に、文人は確かに人の心が耳に入ってくる能力を得た。だからと言って何か得があるわけでは、残念ながらなかったのだ。

 聞きたくもないクラスメイト達の本音が、自分が聞きたいかどうかの意思とは関係なく、どんどん脳の中に流れ込んでくる。

『隣のクラスの○○さん、どうしてうちのクラスの○○君と付き合えてるんだろ。ブスのクセに』

『数学ダリィ』

『あーあ、帰りたい』

人は本音なんて、そう口にしないものだ。それを口に出してしまえば、波風が立ってしまうものだと分かっているから。ニコニコしながら、腹の底ではたいていの人は黒い思いを抱えている。

 文人は聞きたくもないそれを、不特定多数常に聞くことになってしまったのだ。授業中だろうと、休憩時間だろうと、近くにクラスメイトが居れば、まるで息をするかのように心の中でのつぶやきが脳の中に流れ込んでくる。

 それを止める術なんて、文人は持っていない。もともと人見知りの酷かった文人の神経は、日を追うごとに削れて行って、いつしか保健室登校になった。


 保健室は、比較的静かに時間を過ごすことができる。座学は得意な方だったから、静かな環境さえあれば、勉強はどこでもできるというのが、文人の本音なのだ。


 保健室登校に切り替えて、文人は自分の能力について冷静に分析する時間を取ることができた。

 まず能力が発揮されるのは、一度でも言葉を交わした人のみであるということ。話したことのない人の心の声は、聞こえない。

 それにたとえ言葉を交わしたことのあるクラスメイトと鉢合わせたとしても、いつも心の声が聞こえてくるというわけではないということにも気がついた。とはいっても心の声が聞こえない確率の方が断然低い。


 一時期よりも文人の精神面が安定してきて、数少ない友達が保健室に来てくれた時には会話ができる程度に回復してきた。だからと言って、保健室登校をやめようという選択肢には至らない。保健室という学校内でも静かな空間の中に居られることは、文人の心身を健康に保つためには必要不可欠なことだ。


 文人の友人というのは、いわゆる文人と同じような系統の人間なので、文人を裏切るということはない人間ばかりである。数少ない友達を大切にしたいという思いは、文人同様に強い。友人に恵まれたことは、文人にとって大きな支えとなっていた。



 保健室登校を開始して月日が経ち、文人の学年は一つ上がった。それと同時に新入生も入学してきて、数か月間は保健室内も色々な人が出入りしていてうるさい日々を乗り切り、ようやく落ち着きを取り戻し始め頃。文人のほかに保健室登校者が増えた。

 彼は一つ下の学年で、入学早々いじめにあったらしい。この高校は決してお行儀の良い高校ではない。野蛮な人もいれば、不良みたいな人だっている。おとなしい性格の人間は、どうしても目をつけられやすい。文人も経験上それは承知していた。

 保健室で二人っきりにはならないものの、いつも勉強する時はほぼ二人で机を使っている。全く何も話さないというわけにはいかないのかもしれないけれど、何せ文人は言葉を交わした相手の気持ちが読み取れてしまうから、安易に相手に話しかけるというわけにはいかない。人見知りも手伝って、お互いに無言の期間がそれなりに長かった。


 話しかけてきたのは、後輩からだった。

「ここ、わからないんですけど…」

数学の教科書を持って保健医に相談しに行ったが、彼女は「私もわからない」と、いとも簡単に彼を突っぱねてた。肩を落として後輩は戻ってきて、恐る恐る文人に声をかけてきたのだ。

「教えてもらえませんか?」

後輩の目は泳いでいたし、緊張しているのが痛いくらいに伝わってきた。

「…いいですよ。どこですか?」

中学校時代は部活動なんてしていなかった。後輩という生き物と初めて言葉を交わし、文人も緊張しながら彼に勉強を教えたのが彼らの初めての交流だった。




 文人と後輩は、思いのほか早く打ち解けた。毎日顔を合わせているから、言葉をかけあう回数も自然と増えてきて。今まであまりなかった雑談や和気あいあいとした、ふんわりとした空気が漂う保健室は、彼らにとって天国のような場所になった。

 文人は後輩の心の中も、自分の意識とは無関係に聞くことができてしまう。だが後輩は、今まで見てきた人間が抱いているような、黒い感情があまり見えない人間だから、一緒に居て心が疲れることはない。


 憎しみや嫉妬という感情をあまり持っていない代わりに、人に対する過剰なほどの恐怖心を抱いている傾向が彼にはある。誰かが保健室に入ってくるだけで、

『誰だろう、怖いな…。何か言われたらどうしよう…』

と恐怖のような感情を常に抱き、見慣れぬ学生が退室するまで背中を丸めて自分を小さく見せようとしているのだ。

 最初こそ、後輩のそれを見て見ぬふりで流していたが、今はそうはいかない。彼に対して少なからず仲間意識のようなものを持っていたし、普段話している仲なのに相手が困っている時だけ他人のフリなんて薄情な真似は文人にはできなかった。

「大丈夫だよ。大丈夫」

後輩の手を握ると、彼の手は冷たくなって小刻みに震えていた。


―震えるほど怖いって思ってたなんて…。なんでもっと早く声をかけて助けてあげられなかったんだろう


こちらを向いてほんの僅か安堵の表情を浮かべた後輩の手を、後悔と謝罪の念を込めてさらに強く握って文人も笑顔を返した。


 その日の昼食時。文人と後輩は外のベンチで一緒に弁当を食べた。文人は母親が作った弁当。後輩はコンビニ弁当だった。

「文人先輩って不思議ですね」

彼は唐揚げを頬張りながら、文人に言った。

「そんなこと初めて言われた」

文人は苦笑して、卵焼きに箸を入れる。

「いえ、ほんとに。俺、本当は学校辞めようと思ってたんです。でも文人先輩とこうして毎日話しながらご飯食べたり勉強したり、一時期さっさと死にたいと思ってたのが嘘みたいに良くなって。文人先輩は俺が困った!って時に必ず声をかけてくれて、心が落ち着くんです。心が読まれてるみたいだけど、全然気持ち悪くないし」

後輩はそう言って、にこりと笑う。

 心読まれていると言われたときは正直ぎょっとしたが、彼の素直な気持ちに変わりはない。自分のことを気持ち悪いと思っているわけではないのは、心の声を聞くことができる文人だからこそわかる事実だ。

「気持ち悪くないって言われたの、ホッとした。今までそんな風に言ってもらえたこと、なかったから」

 文人は純粋に嬉しかった。今までの聞きたくもない真っ黒な心の声の中には、自分へのそれも含まれていた。聞きたくもない相手の本音。これを聞かされてしまうのは、心も体もしんどい。


 二人は、願っていた。

 こんな小さな安らかな学校生活が、1日でも多く続きますようにと。





 しかしそれはある日突然崩れ去ってしまった。

 後輩が、ある日突然入院したのだ。

 周囲に無理を言ってお見舞いに病院へ出向いた時には、後輩はもう植物状態に限りなく近い状態になっていた。

 看護師から案内された個室の中央に、機械と点滴に囲まれて眠る後輩が居る。初めてみる彼の母親が、憔悴しきった様子で椅子に腰かけていた。

「どうぞ」

彼女に勧められ、文人は彼女の隣に座った。

「学校の方…、ですよね。もしかして、木場文人さん?」

後輩の母親から名前を呼ばれ、文人は驚いて目を丸くした。

「あの子がね、毎日嬉しそうに話してたんです。保健室登校になって、学校が楽しくなったって。先輩がすごく優しいんだって、嬉しそうに話してて。あの子、なかなか友達ができなくて、いじめられやすくって。あんなに嬉しそうに話してるの、初めてみました」

後輩の母親は、涙を浮かべながらも、嬉しそうに話してくれた。

 こんな時気の利いた言葉なんて出るはずもなく、文人は黙って彼女の言葉を聞くほかない。

『文人先輩?きてるの?』

声が聞こえる。後輩の声だ。彼の心の声が、文人の中に流れてくる。

「ちょっと、彼の顔を見てきます」

そう言って文人は立ち上がり、足早にベッドで眠り込む後輩のもとへと駆け寄って行った。

「きてるよ。いきなりこんな風になって…。ビックリしたじゃん」

彼の耳元で、彼の手を握ってささやいた。

『風呂上りに急に頭が痛くなって、もうそのままです。脳梗塞だって。嘘みたいでしょ?昨日まで普通に学校行ってたのに』

後輩の声は、少し笑っていた。

「いつ、目を覚ますんだ?お母さん、心配してるよ?」

彼の母親に聞こえないように。細心の注意を払いつつ、文人は彼の耳元で話す。

『それがね、ダメなんだ』

「何言ってんだよ。諦めるな」

『そうじゃなくって。俺が諦めたくなくっても、もう生きてけない』

植物状態の彼の目から、スッと一筋涙が走った。



『俺、脳死なんだって。酸素を体に送り込む機械を外したら、脳の機能も停止するらしい。昨日先生が母ちゃんに言ってたの聞いたんだ』



文人の心臓が、痛いくらいに強く脈打った。



『それでね、文人先輩。一つ頼まれてほしいんだけど』

後輩の声は、努めて明るく文人の脳に届く。

『俺の部屋の机の上から3段目に、なんかあったときに読んで欲しくて書いた母ちゃんへの手紙がある。それを母ちゃんに伝えてほしい。できれば今すぐにでも』

気持が追い付かないが、文人は彼の願いに頷いて意思表示した。

 手から伝わる、頷いた時の振動。

『ありがとう。文人先輩。こんな状態の俺と話せるなんて、やっぱり先輩は不思議な人だ』

冗談ぽく言う後輩の言葉に、文人の目から涙があふれた。

『泣かないで先輩。先輩は優しいから、この不思議な力を活かした仕事に就いて、もっとたくさんの人を救ってください。俺を救ってくれたみたいに。約束ですよ』

後輩はいつもよりも、たくさん話してくれた。

「約束、するよ」

流れ始めた涙は止まることなく、文人は涙をぬぐって鼻をすすって、彼とそっと約束をして後輩の手を放した。

 後輩から頼まれた通り、母親に後輩がしたためた手紙のことを伝えた。その際、以前そんな話を聞いたことがあり、何かあったら伝えてほしいという小さな嘘をついた。




 それから2日後。

 後輩は息を引き取った。

 文人はお通夜とお葬式に参列した。この時初めて知ったが、後輩は母子二人の母子家庭だった。


 少し時間をおいて、後輩の母親から手紙が届いた。内容は、生前息子と仲良くしてくれたことへの礼と、お見舞いと葬儀に来てくれたことへの感謝などが綴られており、手紙の最後にはこう書いてあった。

『あの子の手紙から、臓器提供カードが出てきました。本人の意思を尊重し、可能な限りあの子の臓器を提供することにしました。手紙の存在を伝えてくれてありがとう。子どもの意思を尊重した最期を迎えてあげられました』

 文人は部屋で手紙を読み、思いっきり泣いた。




 この能力は、きっと自分のために使うためのものではない。

 後輩との約束。

 誰かの支えにこの能力と自分の経験を活かして、できる仕事に就きたい。




「母さん、俺カウンセラーになるよ」




 保健室登校ではあるが、学力は決して低くはない。その部分も存分に活かした、文人の決断だった。

 後輩の言葉と、あの日目覚めた心の声を聞く力を胸に秘め、文人は大きな一歩踏み出した。

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