第5話特殊な耳を持つ人達ー動物や昆虫の声を聞く青年
私は市が運営している小さな動物園のスタッフとして働いている。
スタッフはそう多くないため、一人の欠席がほかの職員の業務に大きく響く程度に慢性的な人不足だ。
私たちスタッフの中の一人。
彼はいわゆる、草食系男子なんだと思う。私が勤め始めて3年が経つけれど、小宮山さんに彼女がいるだとか、デートに行くといった浮いた話は一度も聞いたことがない。本人が言わないだけと思っていたけど、先輩たちの立ち話を聞いていると小宮山さんには彼女がいない、というより彼という存在そのものがよくわからないようだ。
小宮山さんは休憩時間でさえも、自分の担当の動物を眺めていたり、園内の動物を見て回っている。コミュ障なのかな?と勤め始めて日が浅い頃は思っていたけど、スタッフと普通の会話もできる。
私が新人だった頃、小宮山さんが教育係だった。顔と雰囲気からそんなに厳しい人ではなさそうだと思っていたけれど、その期待を裏切ることなく彼はとても優しくて指示も的確だった。厳しい言葉をかけられたのは、ほんの数回。しかもその指導は、動物の命や健康に関わる重要なことのみ。そのほかは紳士で、独り立ちした今でも、つかず離れずの関係性を保っている。
新人時代、どこにでもいるだろう意地悪な先輩からミスを指摘されて、事務仕事を押し付けられたことが何回かある。その先輩は自分のミスを誰かに擦り付ける天才。他の先輩も、距離を置くような性格の人だ。
私が事務仕事を押し付けられて居残りをしていると、あっという間にあたりは真っ暗。他の先輩たちは全員引き上げていて、静けさが耳に刺さるような夜だった。
もう自分しかいないだろうと思いながら仕事をしていると、事務所のドアがガラガラと開いた。驚いてドアの方を見ると、小宮山さんが入ってい来た。
「お疲れ様。居残り?」
彼は背が高い。事務所のドアは比較的背が低めだから、いつもドアを通る時はかがみながら事務所に入ってくる。
「はい」
私は手を休めることなく、声だけ小宮山さんに返した。
「ああ、
私の仕事をちらっと覗いて、小宮山さんはため息交じりに言った。
「…そう、ですね」
先輩のことだから、そんなに悪く言うわけにはいかない。でもひどい人ではあるから、気持ちはこもっていたけれど霞んだような返事をした。
「どうして事務仕事押し付けるんだろうね。理解できないや。自分の担当の動物の日誌も、一緒に担当してる新人さんに押し付けてるもんね」
見ていないようで、この人は見ている人だ。この時初めて知った。
「やだねぇ。僕、的井さん嫌いなんだよね」
「小宮山さん、的井さんと年齢って近いんですか?」
「え~?的井さんに興味ないから何歳か知らないけど、僕より先にここにいたから、いい歳なんでしょ?知らないけど」
小宮山さんは案外冷たいようだ。
「…小宮山さんって、何歳なんですか?」
そういえば、私はこの人が何歳なのか知らなかった。新人の指導係をしていたからそれなりの年齢なのだろうと思っていたけれど、黙っていれば若く見える。
「何歳に見える?」
アラサー女子かよ。
「何歳、かな~?」
小宮山さんはフフフと笑って、事務仕事をしている私の隣の席に座った。
「34歳」
「20代と思ってました」
「よく言われる~」
年齢をけん制しあう女子みたいな会話をして、そのまま会話は一旦途切れた。小宮山さんは私が事務仕事をしている様子を見守りながら、自分の事務仕事をさっさと終わらせて鼻歌を歌っている。
「小宮山さんも的井さんから、仕事を押し付けられたことってありますか?」
押し付けられた事務仕事の終わりが見えてきて、私にもしゃべる余裕が生まれた。
「ん~?事務仕事は断った」
「断った?!」
「そう。断ったよ。自分の仕事なんだから、ちゃんとやんなきゃね。後輩に押し付けるとか、首飛んだって文句言えない所業だと思うし。大体日誌を後輩に押し付けるような人から仕事もらったって、ロクなもんじゃないでしょ」
先輩からの仕事を断る勇気を持っていたなんて…。小宮山さんの心臓の毛の多さと神経の図太さをなめていた。
「す、すごいですね…、小宮山さん…」
「どーも」
にこりと小宮山さんは笑って、また鼻歌を歌い始めた。この人は基本的にいつもこんな感じで、とっても機嫌がいい。
「そういえば、小宮山さん」
この前気になる噂を聞いた。
「はいはい?」
彼はやはり上機嫌だ。
「小宮山さんって、動物と話せるんですか?」
私の問いかけに、小宮山さんの鼻歌が止まる。
「誰から聞いた?」
彼の声が少し低くなったように聞こえる。
「的井さんが。この前事務所で言ってました」
「あの人ってなんでそんなことばっかり言うんだろ。仕事しろよ」
ため息をつきつつ、的井さんに対してちょっとした愚痴をこぼす。そして小宮山さんは、私の顔を覗き込んできた。何だろうかと思って彼の方を向くと、小宮山さんはにっこりと笑って、私の頭に彼の大きな手のひらが乗っかった。
「そうだよ。僕は動物と昆虫の声が聞こえてる。会話はできないけどね。これは内緒にしといてね」
彼の笑顔からは、言いようのないい圧力が伝わってくる。
「は、はい!」
私は何度もうなずきながら、小宮山さんのそれに従った。
最初は嘘だろうと思った。冗談の中でも幼稚な部類だし、そんなことがあるわけないじゃないか。
でも小宮山さんが動物を眺めている嬉しそうな眼差しは、彼の言っていたあの秘密が本物なのかもしれないと思わせるような何かを感じずにはいられない。仕事の合間に目にする小宮山さんは、いつだって機嫌がよくて、動物たちを見てたまに頷いたりちょっと驚いたような表情をしていた。
秋。園内のもみじも鮮やかな色が目立つようになってきた。開園前の作業をしていると、小宮山さんがこちらにやってきた。
「おはよ」
「おはようございます」
「ちょっと前にさ、僕が動物と昆虫の声が聞こえるって言ったじゃん?」
唐突に少し前のあの話を振ってきたから、私は正直驚いた。
「君にはね、見せてあげようと思って」
そういうと、小宮山さんは人差し指を立てた。するとあっという間にトンボが数匹指に留まり、肩にスズメが留まり、足もとに園内に居るかもしれないと噂になっていた野良猫が何匹も近寄ってきた。
見る見るうちに動物と昆虫が、小宮山さんのもとに集まってくる。エサを持っているわけではないし、何かいい匂いがするわけでもない。私は内心ゾッとした。
「ここに来た動物たちは、いつも僕に話しかけてくれる。仲良しなんだ」
小宮山さんはいつも通り、とてもうれしそうにニコニコ笑っている。
「本当はこのことは他言しちゃいけないんだけどね。君になら見せていいような気がして。黙っといてね」
私は茫然としたまま頷くと、小宮山さんはまた嬉しそうに頷いて、動物たちに声をかけた。
「呼んじゃってごめんね。僕は仕事に戻るから、またあとでね」
声をかけても、動物たちに特に変わった様子はない。パーッと動物たちがはけていくのかと思ったのは、私の想像力が豊かだったからなのだろうか。トンボは手に留まりっぱなしだし、スズメも目いっぱい肩に乗せたままだし、猫も足元にまとわりついたままだ。
動物昆虫を体に引っ付けたまま歩いてく姿はやはり滑稽で、すれ違う先輩たちは「うわ!」と小さな悲鳴を上げていた。全然スマートじゃないのが、また小宮山さんらしいなと。私は小さく笑った。
それから数日して。
的井さんが飼育担当をしていたミーアキャットが、半数近く変死した。
原因は食事の中に混入していた菌だった。
スタッフ全員がその死に沈み、的井さんは一緒に飼育担当をしていた後輩を攻め立ててしまい、その後輩は園を去って行った。
私には心当たりがあった。
「的井さん、ミーアキャットの様子、ちゃんと見てますか?ちゃんと見てあげないと、いきなりいなくなっちゃいますよ」
ミーアキャットが死んでしまう数日前に、事務所で小宮山さん自ら、面倒な性格な的井さんに噛みついていた。
「はぁ?逃げたりしないだろ」
的井さんはいつも通り小宮山さんを小ばかにしていた。
「逃げると思ってるんですか?逃げれるんなら、もう逃げてると思うんだけどなぁ」
「喧嘩売ってんの?」
「ははは、そんなまさか。的井さんに喧嘩売るほど、僕は時間に余裕がないんで。お疲れ様でーす」
小宮山さんは力いっぱい的井さんを煽って、さっさと事務所から出て行った。
的井さんが退勤して、事務所内は小宮山さんの話でひとしきり盛り上がった。
「小宮山さんって不思議系だよね」
「顔はいいんだけどね。性格がよくわかんない」
御もっとも。小宮山さんは不思議な人だ。私は事務仕事をゴリゴリこなしながら、そっと頷いた。
「そういえばさ、あの噂知ってる?小宮山さんは動物と喋れるってやつ」
私は表情を変えないように頑張りながら、生唾を飲んだ。もう半分くらいみんなにバレてるんじゃないか…?
「嘘でしょ?どう考えても」
そうだ、嘘だと言うんだ!私は内心、嘘だと言った先輩を全力で応援した。
「小宮山さんが担当してるキリン!異変がなかったのに小宮山さんが急いでドクター呼んでって騒いでて、予定より早くドクターに来てもらった途端キリンの調子が急に悪くなったって」
「偶然じゃないの?」
「それだけじゃないんだって!最初に小宮山さんが担当した象も、何回も病気したけど、全部初期治療が功を奏して高齢になるまで元気でやってるって話もあるじゃない?」
「いやいや…。偶然が重なってるだけだって」
「小宮山さんが脱走したサルを、開園前の1時間以内に全部肩に乗せてきて、無事開園できたこともあったし」
なにやってんだ。隠す気あるのか、小宮山さん。伝説作りすぎでしょ。私の脳内ツッコミが全然追いつかない。
バレてないと思ってるのは小宮山さん本人だけなんじゃないのかとも思えるような会話が続いたが、結局噂は噂でしかない。こんなことあったら面白いのにね、という程度に話のネタにされて小宮山さんの話は鎮火した。
ミーアキャットの一件以来、的井さんは前ほどスタッフたちにオラオラしなくなった。担当の動物の死は、やはり彼に大きなショックを与えたのだろう。小宮山さんはそんな的井さんに何か声をかけるわけでもなく、いつもと変わらないふわふわした様子で動物たちの世話をしていた。
一日の業務が終了して事務所に戻ると、的井さんが小宮山さんに言い寄っていた。出て行こうかとしたけれど、小宮山さんが「いいよ、仕事しちゃって」と言わなくていいことを言ってくれたし、何なら腕も引っ張られてしまったから、私はしぶしぶ席に座った。
当たり前だが的井さんからの視線が痛い。ひりひりする空気の中で、殺されるんじゃないかという圧迫感に耐えながら、日誌を書き始めた。
「で、なんでお前はミーアキャットがあんなことになるってわかってたんだよ」
「わかってたなんて、一言も言ってないです」
二人とも今までしていたのであろう話の続きに入った。
「お前はわかってたんだろ?!逃げるとかなんとか言ってたよな!」
「逃げなかったでしょ?」
「どこか調子が悪かったのを、見透かしてたんだって噂が出てるんだよ!」
「噂を信じて僕を呼びつけてるんですか?」
「噂が本当なら、今回のことは俺だけじゃなくて、お前にも責任があるってことだからな!」
「見殺しにしたってことでですか?」
動物が死んだのは、誰の責任なのか。それは誰がどう見ても、普段の様子を把握していなかった的井さんの責任だろう。頭の悪い私にだって、それくらいわかる。
「そうだ!動物の異変を感じておきながら、お前は俺に報告せずに見殺しにしたんだ!」
もう濡れ衣どころの話じゃない。この人は今回の責任を、小宮山さんに全部被せたいのだろう。
「僕の担当はキリンです。担当の動物の異変に気がつかなきゃならないのは、的井さんじゃないんですか?」
小宮山さんはド正論しか言わない。オブラートなんて、きっと単語すら知らないんじゃないかと思う。
「お前動物と話せるんだろ!!俺は知ってるからな!お前がサルの檻の前で、サルと話してたのを聞いたんだ!」
「サル、日本語話してたんですか?どの子だろ」
「とぼけるんじゃねぇ!お前が動物と話ができるって噂は、ずいぶん前から出てたんだからな!これが証拠の動画だ!!」
的井さんは自分のスマホで録画した動画は、小宮山さんと檻の向こうのサルが何かコミュニケーションを取っているものだった。はたから見ればただの動物好きである。
「…撮っちゃったんだ。へぇ。よくそんなことしようって、思いましたね」
小宮山さんの声のトーンが変わった。私の手は気がつけば、日誌を書くことをやめていた。
「これを明日の朝いちばんでスタッフ全員にばらして、そのあとネットに晒してやる!」
的井さんは完全に頭の線がおかしくなっているように、私の眼には映っている。こんな動画、誰がどう見ても会話だなんて受け取らないし、飼育係とサルのふれあい動画でしかないのに。的井さんは何に勝ったと思って、こんなに誇らしげに鼻息を荒くしているのだろうか。
「辞めといたほうがいいと思いますよ。それにこの際言っときますが、僕の持ってる力を他言すると、貴方が消されます。消えたくないなら、静かにしといたほうがいいんじゃないかな」
いつもの小宮山さんじゃない。脅しじゃないのが伝わってくる。
「馬鹿が!神にでもなったつもりか!明日お前の人生は終わる!覚悟しておけ!!」
的井さんは高笑いを残して、事務所から走り去っていった。
人間の狂気に触れた気がした。
「ごめんね、怖かったね。あの人はやっちゃいけないことをしたんだ。他言しちゃいけないんだよ、僕のこともこの力のことも」
私に声をかけた小宮山さんは、いつもと変わらないふんわりした小宮山さんだった。
「だからね、君も僕のことは内緒にしといて。君が消えちゃうのは、僕が耐えられない」
私は小宮山さんの言っていることが、今ひとつわからなかった。
「なんで私が消えると、小宮山さんが耐えられないんですか?」
何言ってんだ私。
「僕が君のこと、好きだから」
…何言ってんだ!小宮山さん!!!
「だから君が消えちゃうのは困るんだよ。君は僕というパンドラを知ってしまった。ごめんね、悪いようにはしないから」
そう言って小宮山さんは、私を優しいく抱きしめた。恥ずかしいはずなのに、彼に抱きしめられたら安心してしまったようで、全く気がつかない間に私は意識を手放してしまったのだった。
目が覚めると、事務所のデスクで顔を突っ伏して寝ていた。窓からは朝日が差し込んでいる。事務所にはもう誰かいるようね、ストーブが付いていた。私の背中にもブランケットがかかっていた。
とりあえず立ち上がって、大きく背伸びをした。昨日の小宮山さんと的井さんのやり取りがなんとなく記憶に残っている。どうして私は寝てしまったのだろうか。
そうだ爪を切らなければ。ふと手を見てみると、付けた覚えのない指輪が、左手の薬指に入っている。なんだこれと思っていると、スタッフたちが出勤してきた。
「おはようございます」
私は指輪の意味が分からないまま、先輩たちに挨拶をした。
「おはよう、小宮山さん」
…え?
「旦那さんは?」
旦那?って…?
「もう園の中プラプラしてるんじゃないの?あの人よくわかんない人だし」
先輩たち、何言ってんの?
「ちょ、っと待ってください!私結婚なんて…」
「したじゃん。つい最近、小宮山さんと」
「変な夢でも見たの?素敵な式だったじゃん!」
「まさか小宮山さんがあんたと結婚するなんて思ってなかったなぁ。どこがよかったの?」
待って待って!!なんで私、小宮山さんの嫁になってんの?!
「どこがって…、どこかなぁ…」
としか言えない。結婚?私が小宮山さんと!?え?
「そうだ、的井さんって」
昨日の言い争いの後、的井さんは小宮山さんのことをみんなに言いふらすって言ってた。それが本当なら、的井さんももうすぐ来るはずだ。
「的井?誰それ。そんな人いないよ」
的井さんが居ない…?先輩たちの表情からして的井さんが退職したんじゃなくて、的井さんという存在が無となっているのが伝わってくる。混乱する私の体と脳からスーッと血の毛が引いて行ったその時だ。
「あれ?優子、起きたの?すごい寝顔だったよ~」
小宮山さんが私の頭をポンと撫でて、通り過ぎていく。
「ちょっと、待って!小宮山さ…」
小宮山さんはシーっと自分の唇に指を添えて、私に言った。
「あらやだ!仲良し夫婦なんだから」
「朝からアツいね!」
先輩たちから冷やかされてしまい、彼らは更衣室へと向かった。
小宮山さんは混乱している私の方へと歩いてきて、私を席に座らせて彼は私の隣の席に座った。
「内緒の約束だよ」
小声で小宮山さんは私に言うけれど、私はもうパニックだった。
「だって!的井さんは存在しなくなってるし、私はいつの間にか小宮山さんと結婚してるし!!」
「僕のこと嫌い?」
「そういうことじゃなくって!」
「僕の能力を他言しないように君を見守るには、これが最善だったと思うんだけど。僕、優子が好きだし」
「恥かしいこと言わないでください!!」
私がつい大きな声を出したとき。ふっと彼の唇が私の唇を塞いだ。甘い香りがして、ふわふわして。とても心地よかった。
そうだ、この人は顔がいい。背も高いし、優しい。
私のことを愛してくれている。
ちょっと変わっているけれど、飼育員としての実績もあって仲間からの信頼も厚い。
好きな食べ物はオムライスで、嫌いな食べ物はピーマン…。
そうだった。
私、この人の奥さんだった。
結婚して、すごく幸せなんだった。なんで忘れてたんだろう。
私は、
夫の名前は小宮山正康。
どこにでもいる、平凡な夫婦。
夫は動物や昆虫と話すことができる。
それは内緒にしなければならない。
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