第2話特殊な目を持つ人ー相手の死期を読み取る青年


 門倉英輔かどくらえいすけは、地域密着型の特別養護老人ホームで臨時職員として働いている。英輔が働く老人ホームは完全入居型で、ランクを付けるとすれば中の下くらいだろう。特に目立ったオプションはなく、大部屋で入居者を管理している。入居者への配慮は行き届いているし、職員はそれぞれに誇りをもって仕事を行っている。


 英輔がこの老人ホームに入ったのは、かれこれ3年前。この施設を選んだのは、自転車通勤可能な場所にあったから。高齢者と話したりお世話をすることは元々得意だったし、就職活動時に参考にした資料に載っていた施設の評判も悪くなかった。家から近くて評判もそこそこ。選ばない理由はなかった。

 高齢化社会なんて時代だから、英輔の内定はすぐ決まった。研修期間を経て、本格的に仕事を開始。毎日重労働で仮にもきれいな仕事とは言えないけれど、英輔は充実した毎日を過ごしていた。




 就職から2年が過ぎた頃。英輔は、不思議な夢を見た。

 その日の業務も肉体労働が主で、事務仕事を終えて帰宅し、すぐに食事を摂って風呂に入り、部屋に入ってベッドに倒れこんだ。何かと不自由だと感じる実家暮らしだが、こんな時に親に甘えてしまうから自分は一人暮らしなんてできないと英輔は思う。給料だって決して自立してやっていけるほどではないし、もし万が一結婚することになった場合、家族を養っていけるか不安ばかりが渦巻く。

 とはいうものの彼女がいるわけでもないから、今はここで満足いくまで仕事をして経験を積もう。なんて考えていると、瞼は閉じてしまい、意識も遠退いていって。布団から肌に伝わる心地よい冷たさ。気持ちが安らぐ柔軟剤と自分の匂い。英輔が深い眠りにつくまで、そう長い時間はかからなかった。


 ふと気がつくと見たことない、きれいな女の人が目の前に立っている。女の人のあまりの美しさに、これは夢だと瞬時に理解した。その人はとても優しそうに微笑んでいて、まるでシャンプーのCMにでも出演していそうなくらい輝くストレートのロングヘアが僕にとってはとても印象的だった。

「英輔」

どうして僕の名前を知っているのだろう。それにしても柔らかい声だ。

「英輔」

はい。なんでしょうか?

「今から授ける能力を活かし、一人でも多くの人の心に寄り添いなさい。しかしこの能力を他言してはなりません。貴方ができることを、相手にしてあげるための能力なのです」

…ちょっと何言ってるかわかんない。疲れてるんだろうか。

「わかりましたか?」

いや、そんなこと言われても。

「わかりましたか?」

顔笑ってるけど目が笑ってないって。

「英輔、わかりましたか?」

優しい声色から伝わってくる、言葉にならない圧。

「わ、…わかりました」

何が分かったのかよくわからないけれど、とりあえず頷かなきゃならないことだけは、なんとなく伝わってきて。その場の空気と圧に押されて頷いたら、きれいな女の人はニコッと笑って消えて行った。


 ハッと目を覚ますと、朝だった。

 さわやかな日差し。今日は休みだ。時計を見ると、10時を回っている。11時間ほど寝たようだ。心置きなく眠れたのか、体が軽い。仕事の疲れが完全に抜けている状態がここ最近なかったから、自分の体がこんなに軽いことに戸惑いさえ感じてしまう。

 それにしても夢に出てきた女性は、とても美人だった。スレンダー美女だった。程よく年上のロングヘアで、まさに英輔の好みドストライクだった。身体が軽いのは、夢見が良かったからかもしれない。


 能力云々に話なんて、この時の英輔は忘れてしまっていたのだ。

 ただいい夢だったと鼻歌交じりにリビングに向かい、両親と姉に挨拶をする。なんてことないいつもの休日。それを満喫している今が、英輔はただ幸せだった。




 翌日からは、いつもと変わらない日常。職場に出勤して事務室に挨拶をして職員室に顔を出し、更衣室で着替えを済ませてながら夜勤の人と情報交換と雑談をして職員室で朝礼を済ませる。

「○号室の○○さん、微熱があります」

「〇号室の○○さん、少し食が細いようです」

朝礼での情報交換は大切だ。入居者の情報を把握しておかなければ、何かあったときに手遅れになってしまうかもしれない。

 共有した情報はしっかりとメモをして、メモ用紙はポケットに突っ込んで、英輔は自分の担当している部屋の入居者の様子を見に行った。



 英輔の担当している部屋は一部屋4名入居可能で、今の入居者は3名だ。昨年末に1名天寿を全うした。やはり夏と冬は旅立つ人が多い。施設内の温度が四季関係なく常に一定の状態で管理されていても、暑い時期と寒い時期に体調を崩す入居者は多い。

 寒い冬を乗り切り、今は春真っ盛り。施設の近くにある河川敷には桜がこれでもかと花を咲かせていて、ちらちらと花びらを落とし始めていた。暖かさと肌寒さを同時に感じるこの季節は、入居者にとっても職員にとっても四季を楽しむことのできる時期なのだ。

 今日も散歩の予定が入っている。家を出る前に天気予報を確認した。最高気温も申し分ない。散歩好きの入居者もたくさんいるから、英輔の心は踊っていた。

「おはようございます」

自分が担当している部屋に入ると、いつもと変わらない様子の3名の男性入居者の顔がこちらを向いた。

 いつもなんとなく不機嫌で、すぐに突っかかってくるけれど、たまに折り紙を折って渡してくれる宇藤うどうさん。絵ハガキを書くことが趣味で、美しいものを見つける達人の園崎そのざきさん。そして、寡黙で家族のことだけでなく自分のことさえもなかなか語ってくれない愛野あいのさん。

「おはようございます」

笑顔で挨拶を返してくれたのは、園崎さんだけだ。これもいつもと変わらない。宇藤さんは最初からやっぱり不機嫌だし、愛野さんに至ってはいつも通りすぐに視線をそらされてしまった。


 英輔はいつも通り、まず最初に愛野の手と足のマッサージから取り掛かるべく、彼に声をかけた。

「愛野さん、おはようございます。昨日、よく眠れましたか?」

彼は英輔をちらりと見てすぐに視線をそらし、一度ゆっくりと頷いた。その様子を確認していつもと変わらない愛野に英輔はにこりと微笑んで、いつも行っている指先のマッサージを行うために彼の手を取った。

「マッサージしますね」

そう声をかけて握った愛野の手を見たとき、英輔の心臓が痛いくらいに大きく脈打った。


―…え?


いつもと同じ、仕事の始まり。の、はずだった。

 違う。昨日までの、英輔がよく知っている“愛野さんの指先”じゃない。今手を握っているのは、愛野で間違いない。指先以外の外見的な変化は昨日までと変わらないのだ。少し痩せこけた頬も、どこか哀愁が漂う雰囲気も。

 しかし英輔の眼は、愛野の指先の異変である“それ”をしっかりと映している。しかし愛野本人は指先の異変を訴えることなく、指先のマッサージを英輔に任せ、そのあと足のつま先のマッサージを行うべく靴下を脱がせた。


―…


手の指先同様に、足のつま先も、昨日は見受けられなかった異変が起こっていた。

 僕はもしかすると、疲れているのかもしれない。昨日だって変な夢を見たんだし、きっと疲れているんだろう。そうに違いない。英輔は自分にそう言い聞かせて、愛野の手足のマッサージを終えて、園崎と宇藤にも愛野と同じようにマッサージを施した。

 彼らの手先もつま先も、昨日となんらおかしい場所はなかった。愛野のみに異変が起こっていることを、英輔はしっかりと確認したのだった。


 いつもマッサージをしながら英輔は入居者に声をかけている。昨日はよく眠れたか、今朝の調子はどうだといった内容の話をして、入居者本人から自分の体の状態を伝えてもらっている。この施設には、認知症を患っている入居者も少なくない。その予兆を見逃さないのも、英輔たちが担う大切な仕事の一つである。

 英輔は全員のマッサージを終えて、部屋から出る前に愛野に声をかけた。

「愛野さん、お体どこかおかしいなと思ったら、すぐに言ってくださいね」

愛野はいつも通り、ほとんどしゃべらない。でもやっぱり違っているのだ。一緒にこの部屋を担当している先輩の様子を見ると、普段と変わらない様子で入居者と談笑している。昨晩のあの夢のことが、ふと英輔の脳裏をかすめて行った。

 気のせい、なのかもしれない。気のせいであってほしい。取り越し苦労であってほしい。そう願いながら、何か大きな出来事が起こるわけもなく、英輔のその日の業務は終了した。


 愛野に対しての違和感を払しょくしきれないまま、半月が過ぎた。桜は開花から散りゆく時期に差し掛かり始めている。

 元々食が細かった愛野は、徐々に食欲が減退し始めていて、半月前よりも少し物理的に痩せた。ほんの少し頬がこけて、ほんの少し腕が細くなった。でも痩せすぎていると言わけではなく、定期的に行っている検診でも異常はない。毎日計測している血圧にも変化はない。痩せたことは事実ではあるが、色々な数値結果には問題は見られない。というのが英輔以外の職員が愛野に抱いている印象だった。

 それよりも、ほかの部屋には認知症の入居者もいるから、そちらの方が気になっている職員も多くいる。

 しかし数値や僅かな体重の減少とは全く違っている愛野の異変を、英輔の眼は確実にとらえ始めていた。


 気のせいだと思いたかったのに、やはりそうはいかなかったのだ。

 愛野の腕と足の筋肉が徐々にしぼんでいっている。それも徐々に細くなって骨皮になって行っているというものではなく、風船がしぼんだように腕とふくらはぎがしおれているように英輔の眼には映っていた。

 骨と皮膚。その周りについているはずの筋肉や脂肪、血液や水分などを無視した四肢末端のしぼみ方。今まで見たことのない光景だった。

 もちろん同僚や先輩に相談した。愛野の筋肉のしぼみ方は異常だといったが、相手にしてもらえなかった。

「疲れてるんじゃない?」

「少し休んだ方がいいよ。変な病気にかかられても困るし」

「愛野さんの手足?少し痩せただけにしか見えませんよ?」

皆口をそろえてそう言い、中には英輔の体調を心配する人までいた。

 そうじゃないのに!愛野さんの手足の肉の落ち方は、今まで見たことのないものなんだ!どう説明しても誰にも伝わらない上に、愛野の話をし始めると英輔を異常なものを見るような目で見始めるスタッフまで出てきた。

 分かってほしいのに伝わらないだけでなく、異常者のような視線を向けられて。ここでどんなに説明しても自分の見えているものを理解してくれる人間がいないことを英輔は痛感した。それ以降、英輔は愛野の体の変化を誰かに話すことはなくなった。


 愛野の痩せ方というかしぼみ方は、英輔の眼に異様な形で映っていた。指先足先から始まった人ならぬ愛野の体のしぼみ方は、徐々に体に浸潤し始め、手がしぼみ足首までがしぼみ、腕がしぼみ足全体がしぼんでいった。

 日を追うごとに愛野の体は空気が抜けていくかのように薄くしぼんでいき、腕全体がしぼむ頃にはスプーンが使えなくなって、足全体がしぼむ頃には自力歩行ができなくなっていた。

 おかしい。これは異常なのだと分かっているが、誰も信じてくれない。英輔は医者ではないが、これが病的な何かではないのかもしれないと歩行が不可能になった愛野を眺めながら感じていた。



 愛野の体は、ゆっくりとしぼんでいった。足から臀部がしぼみ、腕から胸部がしぼんでいく。人間には骨があり内臓だってあるはずなのに、その厚みさえも全く感じないくらいに、愛野の体は、いわばぺしゃんこのような状態になっていった。


 足先手先から始まった異変が愛野の前身を食い尽くすまでに、およそ2か月の月日を要した。季節は夏の手前。この頃彼は、自発呼吸ができなくなっていた。

「あんなに元気だったのに、急に呼吸困難になって」

「人はいつ何があるかわからないわね」

「でも愛野さんは体力があるから大丈夫!持ち直すかもしれない」

職場の先輩たちは、いつだってのんきだ。英輔は心の中で、彼女たちに冷え切った視線を向けることしかできない。だって彼女たちの目には、愛野が“普通の弱った入居者”にしか映っていないからだ。英輔が目の当たりいにしている愛野の姿とは、まるで違っている。

 職場入りして身支度を整えて、事務所に挨拶をして職員室に顔を出して担当入居者に挨拶をしに行く。宇藤と園崎は相変わらず元気に毎日過ごしている。彼ら二人は、英輔が見てもちゃんとした“人間”の姿だ。

「愛野さん」

彼が寝込み始めたのは、2週間ほど前だった。立てない、座れない、食べられない。2か月の間に急速に愛野の体がしぼんでいき、彼が弱っていくのを英輔はただ見ていることしかできなかった。医者は彼に異常はないという。

「歳だからね」

事務所で聞いた主治医の一言が、英輔の頭に鈍い衝撃を与えた。うすうす勘づいていたが、医者も彼の体のことは気がついていないのだ。

 愛野は徐々に言葉も話せなくなっていった。それはそうだろう。喉さえもしぼんでいたのだから。英輔の眼には、愛野は首から上のみしっかりとした人間の原型をとどめているような状態だった。頭部のみ人間だと分かるが、そのほかの部位はまるで彼の体を模した紙きれを置いているかのようにさえ思えるほどに、厚みはなく風が吹けば飛んで行ってしまいそうなくらいに厚みはなくなっていた。

「愛野さん、今日はいい天気ですよ」

彼の手足のマッサージは、もうできない。英輔の眼には、愛野の手足は紙のように薄ぺらく見えているのだから。触れてしまうと壊してしまいそうで、触れられない。だから英輔は、そっと目を瞑る愛野のしわだらけの手の甲を優しくなでた。

「僕ね、今日はお散歩お留守番の日なんです。散歩の時間になったら、お部屋の空気、入れ替えますね」

愛野は散歩が好きだった。外の空気に触れている瞬間、彼の硬い表情は、施設に居る時よりも幾分柔らかくなっていたことを英輔は知っている。愛野はもう散歩には行けない。だからせめて、外の空気を吸わせてあげたいと。英輔は切に願い、彼に声をかけて山積みの雑務をこなすべく、先輩と交代して部屋を出た。


 午前10時前後に宇藤と園崎は車いすに乗って、先輩と共に散歩に出かけた。それを見送り、英輔は愛野のもとへと出向いた。彼は相変わらず目を閉じたまま、ベッドに横たわっていた。

「愛野さん、窓開けますね」

一声かけて窓を開ければ、ふわりと風が部屋を駆け抜けていく。カーテンを揺らし、英輔の肌と髪をなで、そして愛野の鼻を風がくすぐる。振り向くと、愛野の目がゆっくりと開き始めていた。

「寒くないですか?」

英輔の声掛けに、愛野はわずかに頷く。

 明るくて白い天井。久しぶりに見た気がする。動かない体、少し前から出しづらくなった声。自分の死を、愛野はひしひしと感じていた。宇藤も園崎も、悪い人間ではない。しかし死が近い自分には、もう話しかけてこなくなった。世話をしてくれている介護士も、自分の顔を眺めては何か世間話を吹っかけてきて、点滴の様子と器具に異常がないかだけ確認して立ち去っていく。

「いい風が吹いてますね。もうすぐ梅雨が来るみたいです。やだなぁ、僕チャリ通勤なんです。雨降ると困っちゃう」

でも。この青年は違った。私の体の異変に気がつき顔色を変えたが、彼だけ私をちゃんと“生きている人”として見てくれる。声をかけ、自分の気持ちを伝えて、笑ったり悩んだり。彼はとても表情豊かな青年だ。

 妻は20年前に死んだ。子どもはいない。身寄りはなく、人見知りな私にこの青年はいつも正面から向き合ってくれた。

「かど、…ら、さ」

老人ホームは人生の墓場だと思っていたし、実際そうだった。楽しい思い出なんてそうない。ただ流れる毎日を、心地の良い気温で過ごしたという記憶が大半だった。同部屋の人間が死ねば、自分にもそんな日がそう遠くない未来やってくるんだろうと思っていた。怖くはなかったが、空しかった。

 でもこの青年がこの部屋の担当になって、私の毎日はほんの少し潤った。私も今を生きる、小さな希望を持つことを許された人間なのかもしれないと思うことができた。

 手を伸ばせば、彼はすぐに私の手を握ってくれた。

 言いたいことはたくさんある。風が気持ちいい。毎日風に当たりたい。夕食は点滴ではなくて、味があるものを口に入れたい。尿道のカテーテルを挿入した看護師はへたくそだった。でもとてもこんなにたくさんの言葉を話す力は、私にはもう残っていない。

 だから。

「あ…りが、と」

声が出るうちに。彼には感謝の言葉を贈った。

「…どういたしまして。声が聴けて、嬉しいです」

彼は、門倉英輔という目の前の青年は、ほんの少しだけ寂しげな顔をして、それを隠すようにほろりと笑顔をこぼした。




 英輔の勤務時間は、夕方で終了した。帰宅して夕食を摂って、お風呂を済ませて。ベッドに入って数時間後、携帯が鳴った。職場からだった。

「愛野さん、先ほど亡くなりました」

愛野の体に自分の目には目に見えた変化があったのに。誰にも理解してもらえなかった。

「わかりました。ご連絡、ありがとうございます」

電話を切って、悔しさと悲しさに涙を流すことしか、英輔にはできなかった。


 自分の目に見えていたことを、もっと他の人に伝えておけば、何か変わっていたのかもしれない。誰も信じてくれなかった愛野の異変を、もっと言葉を変えていろんな人に伝えておけば…。英輔は悔やみながら涙に暮れて、明け方眠りについた。


「英輔」

少し前に聞いた声だ。女性の…。あのきれいな女の人の声だ。

「英輔」

目を開けると、いつぞや夢で見た美しい女性が英輔の目に映った。

「貴方はこの能力を、他言してはなりません」

彼女の言葉は、英輔にしか見えなかった、愛野の体に起こった事を指していることはすぐに分かった。英輔はすぐに彼女に言葉を返した。

「どうして!僕がもっと愛野さんの体のことをほかの人にも分かるように話していれば、あの人は助かったのかもしれないのに!」

「いいえ。彼は天寿を全うしました」

「そんなのわからないじゃないか!医学は日々発達しているんだ!もしかすると、もっと生きていられたかもしれないのに」

「貴方はあのご老人に、管と機械に囲まれた最期を迎えてほしかったのですか?薬の投与は、おそらく長い時間がかかります。身体が徐々に弱っていく中での投薬は、言葉を失った本人の意志が尊重されず、生きている人間の意見で続行されることもあるのです。人間が人間として、幸福な最期を迎える。それはおそらく、自分が生きている人であると実感し、自分の心に誰かが寄り添ってくれているという、人間としての幸福感を持つことではないでしょうか」

彼女の言っていることは、わからなくもない。ある意味での正論なのかもしれない。でもそれでは、何のために自分はこの力を得たのかわからないではないか。

「僕はないもできなかった」

なにもできなかった。ただ愛野を気遣い、声をかけ、彼が心地よい毎日を送れるように配慮して、なんてことない話題を提供することしかできなかった。英輔の心の中には、後悔ばかりが渦巻いていた。

「貴方が何もできなかったかどうかは、彼の眠るあの場所で、彼の顔を見てから考えなさい。貴方ならわかりますよ。貴方の使命も、時期分かるでしょう」

女性はそう告げて、光の中へと消えていった。



 目が覚めると、目覚まし時計が鳴っていた。ベッドから体を起こし、泣き腫らした目のまま、英輔は職場へと向かった。

 身支度を済ませて事務所に顔を出し、職員室で先輩と落ち合って一緒に霊安室へと向かった。移動中、会話はなかった。部屋の中は冷たく、白いベッドの上に愛野が白い布を顔にかぶせられて横になっていた。身体に布団はかかっておらず、いつも身に着けていたパジャマのままだった。体は相変わらず紙のように薄く英輔の眼には映っていた。

 先輩と並んで愛野の傍らに立ち、二人で彼に手を合わせた。愛野の顔にかけられた白い布は、先輩が取った。

「安らかな顔ね」

愛野は苦しんだ様子を感じさせない、幸せそうな顔で眠っていた。

「愛野さんのこんな安らかな表情、初めて見た」

先輩はそう言った。でも英輔は違う。昨日見た。窓を開けて風を呼び込んだあの時。彼が「ありがとう」と伝えてくれたあの時。

 彼は幸せだったのか。それは英輔にはわからない。ただ、自分と話したあの瞬間、彼はきっと不幸ではなかった。

 英輔は、何もできなかったかもしれない。でもほんの少しでも、愛野の心を救うことができたのならば。それはこの能力のおかげだ。



 その日の業務を終えて帰宅し、就寝した英輔は、再度あの美しい女性と夢で逢った。

「あなたに聞きたいことがあります」

英輔から彼女に声をかけた。

「なんでしょう」

彼女は穏やかな声色で英輔に声を返す。

「この能力は他言してはならないと、あなたは言いました。他言しなければ、この能力はずっと僕に貸していただけるんでしょうか?」

愛野の表情を見て、英輔なりに導き出した答えがある。それを遂行するためには、この能力が必要なのだ。

「他言しなければ、その体が朽ちるまで能力は英輔のものです」

彼女の言葉を聞いて、英輔は小さくうなずいた。

「…そうですか。ではこの能力は、僕が死ぬまで使わせてもらいます。ありがとうございます」

そう言って英輔は、女性に頭を下げた。

「忘れてはなりません。他言してはなりませんよ。これだけは厳守するのです。他人の寿命の他言、本人に死期を悟られるような発言は、貴方の命が消し飛んでしまうのですから」

彼女はそう言い残し、光の中へと消えていった。


 彼女は女神なのかと思っていた。だがそうではないのかもしれない。

 もしも彼女が美しい悪魔だったとしても、英輔にはこの能力が必要だった。


 自分の手の届く範囲で、入居者の最期を心穏やかで悔いの少ないものにしたい。英輔は他言しないと言う約束で手にしたこの能力を活かし、今日も施設で働いている。

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