夢の中の幸せ
@gon0472
=死の淵から生還して感じたこと=
【医療の発展について】
【私を襲った急性大動脈解離】
【反省したこと】
【自宅で】
【救急車が到着して】
【救急車内で】
【医科大学付属医療センターで】
【夢の中】
【夢の中の夢】
【夢の中で夢を観ていた夢の中】
【麻酔から覚めると】
【早く仕事へ復帰したい!】
【退院した後に待っていたものは】
・暇な日々の連続
・医師からの言葉と気力を回復するまで
・仕事に復帰できない苦痛
【最後に】
私が観ていた夢とは。
無意識に観ている夢は不思議なもの。
痛みなどを感じることもなく。
季節の香りなどもせずに。
ただ、頭の中で一人だけで観て楽しんでいる物語。
身体も自然と動いて。
景色も自然と動いて。
みんなが自然に不思議なこともなく動いて。
ストーリーに不思議さを感じることもなく。
楽しいひとときだけが心にとどまり。
【医療の発展について】
人工血管などの医療器具などが開発され実用化されてはいますが、合併症や後遺症などで、苦しんで、このまま生きていて良いものか?悩んでいるところです。
私の場合は、大動脈瘤解離を発症して人工血管への置換手術を行いました。
ところが手術中に血栓が影響して、軽い脳梗塞を発症してしまい、足の自由が効かず元の職場に復帰できないこととなり、手術後の大きな悩みとなってしまいました。
医療の発展も完全に完治させられることを考えて研究開発をしていただきたいが、構造が複雑で千差万別の生物に対しては不可能と思います。
これしか仕事をしたことが無い人間にとっては簡単に転職することもできず、ただ毎日が暇の連続であることの苦しみは単純では無いと思いますし、他の病気で、これからの人生を悩んでいらっしゃる方も多くいらっしゃるのが現状だと思います。
ただ、生死の淵を彷徨って命を救われて、今、現在を生きていることへの価値などをこれから先の内容を、お読みになって見いだすことへの、ご参考にしていただければと思います。
人生に諦めは厳禁なのです。
これからを悲観して生きることを自分で諦めての自殺は厳禁です。
それは、悲しむ方々を自分以上に苦しめてしまうだけです。
また、巻き添えで被害に遭われた方々に対しての大罪です。
人間は寿命となれば死を避けられませんが、寿命までを楽しく生きたいではありませんか。
あの人は『長寿を全うした』・『良い終焉だ』などと周囲の方から、言われることが人間としての幸せな最後であると思います。
長寿を全うするためには『何とかなるとの気持ち』と『心のゆとり』や『固執している頭の転換』に加えて『できないことはできない、けれども変わることがある』との気持ちに余裕を持たせて、生まれてから神様が決められている生涯を生き抜くためにも、病気から回復した後に合併症や後遺症などから勝つためにも大切なことだと思います。
ことわざの【病は気から】が最適な表現ですか?
私の体験は全ての病気や合併症や後遺症などに該当するとは思いませんが、生きるための力を出す一粒だけの力にでもさせていただければ幸いです。
夢のはじまりは、これから始まった。
【私を襲った急性大動脈解離】
突然の病らしい急性大動脈解離、芸能界の方も発症して報道されている病気で突然に発症により生死を分けてしまう。
ドリフターズの加藤茶さん・タレントの笑福亭笑瓶さん・俳優の石原裕次郎さんも発症し、大手術の元に生還されています。
しかしながら、無念だった方として声優の鶴ひろみさんは冷静にも運転中の自動車を停車させて病院まで搬送されずに自動車内で亡くなられてしまい、俳優の中嶋しゅうさんは舞台上で発症されて病院に搬送されたものの亡くなられてしまったことが、報道されました。
発症する前は痛くも無く、通常生活も行えて、我が身には起こるまいと油断している病気であると思います。
一般的に、高血圧症の方に多く訪れるとされ、血管には心臓からの血液を体内に送る動脈と体内の血液が心臓に戻るための静脈に末端の毛細血管があり、それぞれが外膜・中膜・内膜の三層で頑丈につくられていますが、心臓から太く各分岐する動脈まで血液を送る大元の血管が大動脈です。
大動脈瘤は外膜と中膜・内幕の三層のうち、内幕の一部が裂けてしまい、流れている血液が血管の内壁・中幕の外に場所に溜まってしまい、瘤をつくり、最悪の場合には血液が瘤となり溜まっている箇所が突然破裂して血管の外に流れ出して体内に溜まるため血の流れが阻害されて各種臓器まで血液が行かなくなり各種臓器が虚血壊死をしてしまう病です。
色々と解離した部分をStanford A型やStanford B型のなどや、Stanford分類のほかに、DeBakey分類のⅠ型・Ⅱ型・Ⅲa・Ⅲb・弓部型などの数種類に分類されていますが、詳細を知りたい方は、医学知識の無い私が調べて、あまり、私がネット検索して詳しく書くと語弊が生じてしまうため、詳しくお知りになりたい方は図書館などでお調べになるか、ネットで検索して参考にしてください。
症状は前兆として無く、突然血管が裂けている部分に沿い激しい痛みが走り、意識を失ってしまうこと。
Stanford A型は、症状の発症から一時間あたり1~2%程度の致死率があるといわれて、病院にたどり着く前に50%の人が亡くなると報告があます。
内科治療のみでは一ヶ月後の生存率が50%程度で、胸部を開き肋骨を切断して、血管の裂けている部分などを人工血管に置き換える緊急手術を実施した外科治療では一ヶ月後の生存率が80%とも報告されて、病院に搬送された後に診断をされて人工血管に置換するなどの緊急手術が必要となります。
非常に致死率が高く、手当に急を要する病であり、家人などからの速やか救急要請や緊急手術に対応可能な病院の医師の有無と搬送時間などの条件も、生と死の淵から生還するために、重要とされています。
私が発症したのはStanford A型です。
【反省したこと】
手術後に病室のベッドに寝かされていた時に考えると、年齢を重ねて今までの不摂生だけが原因だと気づいてしまうが、後戻り、できないことだけは事実であった。
その後戻り、できない不摂生とは、コーヒーを一日に数杯も飲むやら、タバコを一日に二箱も決まって吸うやら、若いつもりで嫌々でも仕方なさに50歳を越えても徹夜仕事も・・・・・・。
酒だけは、足の手術後の服薬の関係で医者から「薬の副作用があるから絶対に酒はダメ!」と言われて、しばらくは呑むことを我慢できずに服薬後に酒を飲んでいたところ、呑んだ時にムカムカする気持ちの悪さが、ほろ酔い気分に勝ってしまい、それからは酒を呑むことはしていなかった。
しかし、タバコだけは、やめられずに、いたところ特段に身体の不調などを感じられず過ごしていた。
ただし、血圧だけは高めであったが体質からであろうと自己判断して、特に気にもせずに過ごしていた。
ほかに考えられることとして・・・・・・。
面倒が先になり健康診断など受けずに過ごしていたことか?
タバコが血圧に影響しているのか?それを知らずに肺がんになったら怖いとは思っていたけれども私が肺がんになるとは想定していなかった。
肺がんになったらなったで構わない、その時に考えるだけ・・・・・・本当に安易な考えであった。
まずは、それが原因であろうかとは考えたが・・・・・・。
訪れてしまったことは運命の悪戯か?
救命治療で助かったのも運命の悪戯か?
それは、幸せなことだったのか?
それらの答えは、これからの人生を歩んでからの楽しみとしておきたい。
【自宅で】
私に、突然大動脈瘤解離が訪れてしまった。
正月には、家族全員で恒例?になっている初詣などに行くものの、私はひとりで、昨年からの風呂敷残業を引き続き自宅でしていた。
当然、家族と一緒に初詣などに行く余裕もなく過ごしていた。
しかし、大動脈瘤解離が訪れたその日は仕事も片付いた、正月になって始めての土曜日で、仕事の二文字からは完全に解放されて、いつもとは違う行動をした日でもあった。
普通は仕事から解放されている日には、趣味であるプラモデルの箱と説明書を片手に中身を眺めながら完成した時の姿を想像しながら、パソコンで【YouTube】を楽しみながらコーヒーとタバコ三昧の時間を過ごして、私なりの余暇を楽しむ決まりごとが私としての楽しみであった。
しかし、その日は、母親に付き添い、電車に乗って成田のショッピングセンター内の整形外科まで外出する日となった。
車で行けばとも思うが、渋滞でイライラしたくない、私にとっては、電車で行くことで宗吾車両基地も見られるし、趣味も含めた小旅行も兼ねていた。
整形外科での診察が終わり、ショッピングセンターで食事を済ませて、帰宅してからはコーヒーを飲みながら懲りずに【YouTube】と睨めっこして、プラモデルの箱と説明書を片手に中身を眺めて、完成を想像するための構想を考えていた。
そのようにして、夕食の時間までを過ごしていたが、突然、身体の右肩下が痛み出した。
その痛みは、今まで経験したことのない痛み。
以前に、尿管結石で右脇腹に痛みが出たときには、筋肉痛かと思い、湿布薬を貼って、痛みが治まるのを待っていたが、徐々に痛みが治まる気配もなく酷くなる一方で救急車を依頼して、救急入院となってしまったが、今回の痛みは湿布薬などを貼る余裕もない痛みで何をしたら良いのかわからずに、そのまま、フラフラする足取りでキッチンへと向かった。
これを激痛と言うのか?とにかく痛いが気持ちが悪いと云う症状でもなく、ただ凄く痛いだけの痛さ。
フラフラとする足取りで歩いてキッチンまで行き、夕食の支度をしていた嫁さんに「背中が痛いので、背中を摩って」と声をかけるのが精一杯で、そのままキッチンで倒れ込んでしまった。
骨折や打撲をしなかったのは幸いで、骨折や打撲をしていたら最悪を通り過ぎていただろうと思う。
その時は、キッチンまで行き声をかけるしかできなかったけれども、今になれば、その行動が幸せなことだったのかと思う。
もし、キッチンにも行けずに声もかけられずに、【YouTube】と睨めっこしていたパソコンの前で倒れ込んでいたら、息を引き取った跡に遺体として、夕食の支度ができたと呼びにきた嫁さんに発見されたであろうと思うし、それが現実であっただろうと思う。
その様子に驚いてしまった嫁さんが、救急車の手配を・・・・・・。
【救急車が到着して】
嫁さんから夢から覚めてから病室で、聞いた話としては。
救急車に乗るために身体を抱えられて玄関までは歩けたので、玄関に腰掛けて、靴を履く行動をしたとのこと、その行動を見ていた救急隊員から「そのままで!」・「靴は履かないで!」と声をかけられて、玄関でストレッチャーに乗せられて救急車に乗るが、その時の記憶は全く残っていない。
玄関で靴を履く行動は普段の行動からであったろう。
その靴を履く行為は室内でも靴を履いた生活をしている海外の人では考えられないことで、あったろうとし日頃からの行動や癖には驚くところがある。
【救急車内で】
玄関からストレッチャーで救急車まで移動して、所狭しと機器が並ぶ車内に寝かされたまでの記憶は全く残っていない。
救急車に寝かされている時に、救急車内の機器のモニター画面に赤く点滅した表示と救急車の外で点滅している救急車の散光等の赤色の明かりが道路に照らされている様子が窓から見え、救急車のエンジン音だけが静かな闇の中に聞こえているだけであったところが、突然、薄い水色の服を着た救急隊員が「血圧が測れない!」と叫んだ声だけが、うっすらと頭の片隅には残っている。
救急車内に同乗した嫁さんに救急隊員が伝えた言葉は。
「大動脈解離症状らしいです」の一言で、その時には「大動脈解離症状」と聞いても理解できずにいて、ただ寝かされている私の姿を見ているだけであった。
すると「余裕がありません」・「これから受け入れ可能な近くの病院を探します」との言葉に事の重大さを感じることができたらしく、搬送先などは全て救急隊員任せて頼る以外の方法はなく、救急隊員が連絡をした近くの医科大学付属医療センターが当直病院で受け入れ可能であるとの返事をいただけて、そのまま医科大学付属医療センターまで救急搬送される。
【医科大学付属医療センターで】
医科大学付属医療センターの救急処置室らしき場所で記憶に残っていることは、医師か?看護師か?わからないが男性の大きな声で、救急車で付き添って来た嫁さんへに、かけられた服を鋏で切る了解を求める「これから衣服を切るので了解してください」とのテレビなどで放送されているドキュメンタリー
それから、どのような検査などをされたか?どのように寝かされていたのか?などの記憶は全くない。
また、あとから嫁さんに聞いた話では、正月なので新しい服を着ていたが、鋏でズタズタに切って脱がせるしか方法がなく、相当な緊急事態だったと思ったとのことであった。
テレビで見ている場面からは【凄く大変なことだなあ】との一言で、片付けて見てしまうが、私がその場面に遭遇する身になるとは想像もしなかったことであり、テレビで放送されている場面は本当に全ての救急場面であるのかまでのことを知る由は、私が、その身になるまでは全くわからなかった。
しかし、服と命と比べものにならない価値があることを痛感してしまい、ボタンを外して脱がせるよりも緊急時には仕方がないと思うところである。
嫁さんが待っている間に、CT検査・レントゲン撮影・血液などの検査が行われた。
私は、定かな記憶ではないが酸素マスクをされていたような、記憶があるがある。
その記憶は、息苦しく自然に呼吸をしていない記憶で、ただ単に息苦しいだけでもあった。
検査を行った結果は、急性大動脈瘤解離(Stanford A型)との診断結果であることを、嫁さんへ医師から伝えられて、母親・子供・兄弟までも緊急に呼び出す結果となってしまった。
また、心臓血管外科医も緊急呼び出しの事態となってしまい、医科大学付属医療センター内は私のために慌ただしくなったと思うが、私は、薬のためか?無意識のままであり、処置室内での様子や会話などは全く覚えていなく、酸素マスクの息苦しさだけは感じていたが、右肩下の痛みまでも感じることはできなかった。
当直していた医師の診断では、翌朝から緊急手術を開始して、それまでの間は降圧剤などの投与を続けて経過観察とされていたために、しばらくは家族が見守る中で、酸素マスクの息苦しさだけに耐えて寝かされていたところへ、幸いなことに緊急呼び出しをされた心臓血管外科医が医科大学付属医療センターに到着し、診察結果から降圧剤の効果は、期待していたほどの効果はうかがえずに、心臓から送られる血液が体内に垂れ流し状態であり、即時に緊急手術の開始となってしまった。
その緊急手術は、夜中の0時から開始され終了時間は未定とされて、家族は終了までを待機室で待っていることになってしまう。
実際に緊急手術開始は夜中の0時から開始されて終了は翌日の昼の12時までの延べ12時間となり、外科医は体力と精神力が強くないと勤まらない世界であると改めて、あとから知ることになってしまった。
お陰様で、私の手術は無事に成功して、ICUにて経過観察と治療を受けるが、ICUでの記憶はなく、ICUから一般の個室病室に移動してから麻酔から覚め、私が自分で目を開けるまでの約半月間は現実では考えられない、夢の中を彷徨い続けていた。
【夢の中】
夢の中で彷徨っていたのか?
最初に見た夢は。
私の周りに突然雪が降りだした!
多摩川を渡ると神奈川県川崎市となる東京都大田区にある多摩川に近い菩提寺に、私が一人だけで墓参りをした帰りに普段と同じように京浜急行の普通電車で京急蒲田駅まで乗って特急などに乗り換えるたに下車して、京急蒲田駅で待っていると三崎口方面からの快速特急泉岳寺行きクロスシート車が到着した。
到着した電車に乗り換えると、いつもは座席には行楽客などが多く乗車していて空席を見つけるのに苦労するが乗車した車両には空席が多く目立っていた。
外の景色を楽しみたくて、めずらしく空席があるけれども座らずにドア脇に立ち進行方向左側の車窓を眺めていたところ、墓参中には多摩川からの寒々しい風が吹くものの清々しい青空が広がっていたが、車窓の景色が徐々に薄暗くなり、薄暗くなるとともに辺り一面が突然の闇に包まれて、電車からの明かりに照らされる外の景色は風にあおられて粉雪が降っている白い粉雪だけが見える暗黒の景色にかわってしまった。
その粉雪は大粒の雪へと瞬く間に変わってしまい猛吹雪の中を電車が進むことになり、しばらくは普段と同じように爆走していた電車が、突然、ノロノロとした徐行運転になり、北品川駅を通過して八ツ山陸橋を徐行運転で渡り京急品川駅まで到着すると、車内アナウンスで「天候が回復次第の運転再開となります」・「運転が再開されるまでは車内に、ご乗車してお待ちください」との放送が流れて、しばらくの間は開いているドアから吹き込む雪も気にせずにドア脇に立ったままで待っていると徐々にホーム・沿線の辺り一面が白く厚い雪に覆われてしまった。
そのときは寒く冷え込んでいる感じを受けずに、ただ雪が降り積もる景色だけを眺めていた。
しばらく、ドア脇に立っていることで少々疲れを感じたのと景色を眺めることに飽きて、乗車していた車内を見渡すと下車した人が多いのか空席が多くなり空いているボックス席の進行方向左側の席に座り車窓の景色を眺めていると眠り込んでしまった。
ウトウトと寝て目を開けたが運転再開の気配はまったく感じられず、車内には数人の乗客が座って目を瞑りながら運転の再開を待っている姿が目に入ってきた。
目を開けたときに、時間は何時であったか?確かめずに、お腹の空いていることだけを感じて、何か食べたいと思い、窓から見渡すホームの売店(セブンイレブン)と駅の立ち食いそば店は閉店してしまっていたので、朝まで我慢するしかないか?と諦めていたところへ前方の車両から車内販売のワゴンが乗客に毛布を乗客に配りながら廻ってきた。
慌ててワゴン販売の方に声をかけて、紙箱に詰められたミックスサンドイッチとホットの缶コーヒーを買い求めて空腹を満たすこととしたが、食べても食べても空腹感を満たすことはできず、冷たくなったホットの缶コーヒーを飲みながらミックスサンドイッチを食べることを繰り返していた。
ただ、食べて飲んでいるだけでミックスサンドイッチと缶コーヒーの量が減らないことは不思議であるが・・・・・・。
車両のドアは停車してから開けられたままでホームへの乗り降りは自由であったために、ミックスサンドイッチを食べながら缶コーヒーを手に持ちホームと座席の間を暇つぶしに行き来していたが、雪が降り積もってきているホームよりも車内は暖房をかけられているが、外からの冷たい風が吹き込んで、だいぶ冷え込んだ感じがしたので、先ほど配られた毛布に身体を包まずには耐えられなかったことが頭の片隅に残っている。
座りながら、しばらく左側の車窓を眺めていると、景色は京急品川駅の雪が降り積もるホームからJR横浜駅を東京方面に発車した直後の首都高速道路三ツ沢線を上空より眺めている景色にかわってしまい、雪が降り積もった首都高速道路に目立つ様にバンドグループの【GLAY】の黒色のロゴをラッピングした大型のパネルバントラックが渋滞の中に停車していて、ほかの車からのヘッドライト・テールランプと街路灯が照らす明かりにプラスされて道路脇の黄色に点滅する標識灯が雪の中に輝き、ビルの窓から射す灯りとネオンサインが幻想的で綺麗に見える光景が目に入ってきた。
その景色を眺めていると、雪が降って白くなっている首都高速道路の路面に一台のオートバイが転倒している姿が目に飛び込んできた。
それは、転倒したオートバイの下側部分の白い雪だけが、まるく真紅に染まり、徐々に降る白い雪に消されてゆき、オートバイのリアタイヤだけが降る雪を跳ね飛ばすように回転を続け、マフラーからは白い煙が吐き出されている。
その様子を見ていると、交通事故を起こした直後とわかる衝撃的な光景あり、警察官などが事故処理をしている姿や見物をしている人の姿も見られず、事故処理が完了して事故を起こしたオートバイを運転していた方は救急車で病院に搬送された後なのか?事故車の処理はしなくて良いのか?などと考えられる不思議で異様な真紅の色が白く降る雪に消されていくだけの衝撃的なシーンに悲惨さだけが漂い、目をそむけるだけしかなかった。
そまま、悲惨さが漂う景色を眺めていることもできずに、左側の座席から空いている右側の座席に移り、目を右側の車窓に移すと旧国鉄の田町電車区に寝台列車(ブルートレイン)と湘南色を纏った車両数編成や青色に前面がクリーム色に塗られヘッドマークが付けられた寝台列車を牽引する電気機関車何台かが、降りしきる大雪の中を大きなアナログ時計が掲げられている照明灯の灯りと線路のポイント部分に炊かれている融雪カンテラから発せられる炎に照らされて、積もった雪に覆われている景色の中で、車両の側面だけが降った雪が溶けて流れ落ちて濡れた姿の車両に灯りと炎が反射して煌々と映り輝いている幻想的で旅情感を誘われる光景が目に飛び込んできた。
予想外に目に入る光景と車両などの幻想的な綺麗さがプラスされていることに哀愁を感じながら眺めていると、一人で北海道や東北方面などのローカル線に乗り列車旅行をしている気分になり心地よい気持ちで寝てしまった。
【夢の中の夢】
いつの間にか配られた毛布の温もりに身を包み寝てしまうと、車窓のうっすらとした明るさに目を覚ますと、薄明かりの中に窓のガラスだけが朝日が反射して眩しい品川プリンスホテルの建物が見えだして、車窓からの明るい日を浴びて、やっと夜明けを迎えられたことを実感することができた。
その間は、缶コーヒーを飲んでいるもののトイレに行くことも無く過ごしていたことは不思議である。
そのときに、スマートフォンを手はしているが、スマートフォンで検索をして情報などを入手することもせず家族にも連絡をせずにアナログ的な世界に居たことは不思議であった。
数年前に勤務先で東日本大震災を体験して、帰宅途中の避難所で夜明けを待っていた時は携帯電話を使いいろいろな情報を探していたのに、なぜ情報を検索しなかったのか?不思議なことであるが・・・・・・。
何の疑問も無く、アナログ的な世界に浸って、ボックスシートの向かい側の座席に足を伸ばして座っていると車内アナウンスで「只今、東京モノレールは運転を再開したとの情報が入りました」と放送されて、私の頭の中では、これから羽田空港まで辿り着いて、東京モノレールで、何とかしJRなどに乗れば自宅まで帰れるかな?との安直な考えが頭の中を巡ってきた。
すぐ、行動をしなければ自宅に帰れないとの思い込みが先になり、京急品川駅には実際は東京モノレールとは接続をしていないが、不思議とは思わずに、人影は少なく売店などは全て閉店している駅構内の通路を小走りに東京モノレールのホームまで移動した。
到着した東京モノレールのホームは混雑しておらず、人影もまばらでコートを着て帽子を深々と被っている手ぶらの男性客だけが目立っていたが、どのくらいの時間か?ホームに立って待っていると雪に覆われていない綺麗に朝日に輝くモノレールの車両が到着して、停車すると直ぐにドアが開いたので乗車することにした。
乗車すると、何の車内アナウンスもされないままドアが閉まり、ドアが閉まると同時に発車してしまい、辺り一面が朝日に照らされた雪景色の中に建つ工場・倉庫などの建物の屋根が朝日に輝いて、雪が積もって車も通らずに雪に覆われて白くなっている道路と建物の間に運河だけが黒く横切っている沿線の風景を眺めながら羽田空港駅まで辿り着くことができた。
これから、どのようなルートで帰れば良いのか?と考えながら、到着した羽田空港駅のホームに降りてから、どのようにして自宅に返るのが安全かで確実か?などと考えながら案内表示を見ていると目の前が急に暗くなり、その場に崩れるように倒れてしまう・・・・・・。
気がつくと羽田空港内にある診療所らしき場所の病室ベッドに身体を抑制帯ベルトで拘束された状態で寝かされて頭の上から点滴のチューブが延びて右腕には点滴針が刺されて、点滴をされていた。
私の様子を看ていた医師から伝えられた話は「しばらくは体力が回復するまでの間は入院して静養」・「今までの数日、寝ていないための疲れでしょう」との診察内容を聞かされてしばらくの入院生活を送ることとになってしまった。
身体を拘束された状態で寝ていてから、目を覚ますと身体の拘束が解かれて自由に動ける状態となっていて、その時に頭の中で「ここは何処?」・「なにをしているの?」との疑問が湧き、その疑問について、私としての答えを自身で導きたくなり、ベッドから起き上がり、スリッパなどを履かずに裸足のままで病室を抜けだしてしまうと、廊下は船の科学館に展示されている南極観測船の宗谷をイメージする幅が狭く天井も低い、天井と壁は白く塗られ床は深緑色の冷たい感じのする廊下が続いていた。
その廊下を歩いていると、床から高くもなく低くもない場所に天井から高い場所まで昇れるタラップを偶然にも見つけてしまう。
見つけたタラップを、私の好奇心からか?怖さと危ない感じはするけれども手を伸ばして掴んで、天井から上の様子を見たくなり昇ってみることにした。
その、タラップは鉄製で、ステップを手で握って足を架けると、手と裸足の足に鉄の冷たさが伝わるが、気にせずに昇って行き、タラップを昇りきった場所の頭上には円形のハンドルが付いた閉じられたハッチがあった。
ここまで来てしまった好奇心からハッチを開けてみたい感情が湧いてきて、その円形のハンドルをタラップには両足を架けながら手を伸ばして、タラップを握っていた片手を離して、手を円形のハンドルに握り直してから、円形のハンドルは力を使わずに回して、閉じられていたハッチを簡単に開けることができた。
開けたハッチの外に広がる光景は飛行機や人など全く見えない、雪を被った富士山をバックにしてダークグレイ色のターミナル建物と黒色の管制塔だけが、目に飛び込んで、ほかの建物はなく、ハッチの周りの場所はダークグレイ色よりも明るい色に塗られた乾いた滑走路であった。
その滑走路に、身体を乗り出すと、羽田空港へ向かうまで東京モノレールの車窓から眺めていた雪は滑走路などには全く見られずに富士山だけが雪化粧をしている姿が綺麗で、辺り一面がアスファルト舗装に覆われている、滑走路を手で触ると冷たさが伝わる世界で、そのアスファルト舗装は紙ヤスリを直接撫でた時のようなザラザラとした感じが指先に伝わってきた。
アスファルトされた滑走路を足で踏むと裸足の足に冷たさは感じないが、パジャマ?入院着?らしき服だけを羽織っている身体には服を通して冷たい風が当たって肌寒い感じがしていたけれども、この場所に居ることに対しての気持ちのよさと幸福感?を感じながら、何の目的もなく辺りをフラフラと散策していると東京湾の対岸に広がる房総半島に浮かぶように丘陵地帯の雪景色を見渡すことができる場所まで来ることができたがポートタワーなどの高層建物は見えず丘陵地帯だけが見えていた。
人影などを発見して、警備員さんなどが来なかったのも不思議であるが、気にもならずにいると、なぜか航空母艦の飛行甲板にいる気がしてきてしまった。
映画【Top Gun】の世界に、私が一人で浸っていた。
その場所は、とても気持ちが良くて、頭から今まで見ていたことを消し去ってしまう感じがして、気持ちの良さに誘われてフラフラと歩いても歩いても疲れる感じがせずに、ただひたすらに歩くだけ歩き、ふと、気がつくと出てきたハッチの場所がわからなくなってしまい、しゃがみ込んでいたが、不安感などは、まったく湧かなかった。
その、しゃがみ込んだ記憶から、目を開けると診療所の病室ベッドに制帯ベルトで身体拘束された状態で寝かされて、汚れているジャリジャリと小砂利が付いて汚れている足を看護師の方に拭いていただいている状態にまで記憶が飛んでしまう。
あとから考えると手術が無事に終了し、身体を動かしてしまうと血圧が上昇するためにICUで経過観察をされている時に、身体拘束をされていたことが無意識のうちに頭の中で交錯していた夢かなと思うところですが、実際は私として、夢の中を彷徨っていた。
それから、どのような経緯で、いつ診療所を退院したかなどのことは、わからないが気がつくと総武快速線羽田空港駅に停車している総武快速線のボックスシート車両に座り電車の発車を待っていた。
しかし、実際には羽田空港駅にJR総武快速線は乗り入れていないが、京急品川駅と同じイメージで夢での中では架空では、あるけれども違和感もなく不思議とも考えずに夢は続く。
私が、乗車している車両の車内アナウンスから「総武快速線方面は雪の影響により列車に列車の遅延と一部運休が発生しております」・「行き先に変更がある場合もありますのでご了解願います」・「詳細はわかり次第に、ご連絡します」などと盛んに放送されており、列車の運転発車までの間は車内でおとなしく座席に座り待つことにした。
車内で、ボックシート席におとなしく座り肘掛けに身体をもたれながら、運転の再開を待っていると、瞬く間に夜が更けてしまい車内アナウンスで「運転再開は明日、朝からになります」との放送がされたため「車内でお待ちください」とも放送された。
しかし、私は経験したことはないが、実際は、どの様なことになるのであろうか?夢の中では緊急事態に関しての疑問などもなく不思議に、その時は思わなかった。
そのために、再々の列車(電車)で宿泊することになってしまうことについても焦るなどの気持ちは起こらずに運転再開までを、スマートフォンで検索をして情報などを入手することもせず家族にも連絡をせずに、ただ座席に座り待つことだけをしていた。
しかし、夜になると自然に寝てしまい、喉の渇きや空腹感を感じることも無く、トイレに行くこともせずに寝て過ごしていたことが不思議な感覚であるし、特に疑問に思ったり頭の中で状況を考えたりすることに関する余裕などもなく、ただひたすらに寝ていた。
しばらく寝ていると目を覚ますと、運転士は仮眠するためか?運転室から離れて車掌だけが車両に残り駅員と共に夜間の管理をすることになったようである。
車両に乗車していた乗客たちも開けられているドアから車外に出ることもなく座席に座り寝ておとなしく目を瞑っているだけである。
車内は静まりかえり、ホームにも人影はなく照明が煌々と灯るだけの静かな夜であった。
目を覚ましたため、暇であることが頭の中に充満して、ぐるぐると車内を歩き回っていると、車両の運転室の後ろ側に仮眠室(高速バスの運転士仮眠用などやカプセルホテルに近い部屋のようなイメージに見えた)があった。
実際に電車には仮眠室などないが、その仮眠室に運転士が入り、運転士は制服を着用したまま、上着を脱いでネクタイだけを外して仮眠室で目を閉じてしまった。
その様子は、運転再開まで仮眠をしているようであり、窓越しから眺められ、列車無線機からは頻繁に運行情報などが流れていて意外にも騒がしい場所で、窓のカーテンも閉じず、外からの視線も気にせず、仮眠とは云えども寝ることができるのかなあ?と、その時には思ってしまった。
しばらく運転士が仮眠している様子だけを眺めていたところ、ホームなどを煌々と照らしていた灯りの数が急に減らされて、非常用照明だけが薄明るく灯ったような静けさの漂う雰囲気となり電車内は煌々と照明が点灯しているが、辺り一面はシーンと静まった空気に包まれていったため、じっと我慢して静かに座席に座り朝が来るまで待つことにした。
だが、身体が硬直した様な感じがする気がして寝付かれずに座席に座ったままで窓越しに外を見ていると改札口の周辺に薄明かりが射しだしたため朝が訪れたことを実感することができた。
しばらく、朝が訪れたことを実感しながら、おとなしく座席にもたれるように窓から外を眺めていると仮眠から起きたのか?運転士が上着を着用してネクタイを締め、鞄を持ちホームを歩いている姿が見えて、歩く靴音が止むと運転室らしいドアをバタンと閉める音が辺りに響き渡り、しばらくすると車両の下からコンプレッサーが起動したのかカタカタ・カラカラ・ウォーンと鳴る音とプシューとエアータンクからエアーを排出する音が聞こえて発車準備の点検作業をしていることを、想像することができた。
辺りを見廻すと駅員らしき人と車掌が話していた「交代要員の到着が遅れているので、運行指令からの指示を待って欲しい」・「・・・・・・」などと微かな声で打ち合わせをしていることが耳に入り、車掌は車内に残り一夜を明かしたため、交代要員の到着を待っているらしいとのことを、耳に入った内容から、私の頭の中で想像してしまった。
車内で、いつまでも待っていても車内放送もなく、発車する気配もみられずにいると、外に見える景色は改札口周辺に雪が吹き込んでいる雪が目に入り、また猛吹雪に襲われてしまったのかなあ?と私が想像していると、車内アナウンスで「ただ今、東京方面は転向が悪化して猛吹雪になっております」・「猛吹雪による影響のため、吹雪がおさまっての除雪作業となります」・「除雪作業が完了し、安全が確認され次第の発車となります」・「運転再開まで、しばらく車内でお待ちください」・「運転再開時刻は、未定となっております」と放送されて除雪作業が完了した後に安全が確認されて発車するまで、どれくらいの時間が必要で、いつ運転されるのかのことは、全くわからないが待つことにした。
しばらく待っていたところ、除雪作業が完了して運転が再開されるまでの待つことに飽きてしまい、私は、車両を降りてホームから改札口周辺をフラフラ歩いていると「運転再開は明朝の予定となります」・「皆様には、たいへんご迷惑をおかけいたします」・「運転再開まで車内でお待ちください」と構内放送のアナウンスが流れて、また、今日も帰れずに一夜を過ごすことになるのか?との思いがこみ上げてきて自宅へ帰りたい一心の心境から諦めの心境へと、かわってしまった。
今回も予想外となる外出先での足止めのために、また電車内で仮眠をすることになった。
この数日で数回も経験してしまった心の慣れからか?疲れの蓄積からか?わからないが、目を閉じても寝ることもできずに気分転換をするためにフラフラとホームを歩いていると乗っていた車両の車掌室ドアが完全に閉められていないことに気がついた。
そのドアを開けてみたい衝動に駆られてしまい、心の底では「ダメ!」と叫びながらも好奇心に「ダメ!」と叫んでいた心が負けてしまい、右手をドアハンドルに添えて心臓の鼓動をドキドキさせながら、辺りの様子を伺いながら人のいないことを確認して、誰にも見られていないことを確認し終えると静かにドアを開けて車掌室へと入ってしまった。
車掌室に入って、しばらく心臓の鼓動が治まるまでの時を待っていると、列車無線機から頻繁に運行情報が聞こえていた。
聞こえている内容から運転を再開したとのことは聞けずに、その内容を聞きながら、機器の操作盤などに触れてみたいとの好奇心が湧きだしてしまい、ついついと触ってダイアルなどを廻すと行先表示・種別表示・運行番号などが切り替わる様子に夢中になってしまったけれども、夢中になったためか機器のリセット方法などがわからなくなり、情報の異常事態に気づいた運行指令から連絡を受けた職員の方が慌てて車掌室に来てしまい、怖い口調でお叱りを受けてしまう。
お叱りを受けて、ただ謝るだけであったことだけが、頭に残っているものの謝った言葉や言い訳の内容などと、お叱りを受けた言葉の内容などは全く覚えていない。
そのなかで、実際に装備されているかは、わからないがデジタルのワールド時計のような表示をされた駅の到着予定時刻と列車の位置が刻々と変わる表示画面が面白く見入ってしまったことは強く覚えているけれども、なぜ運転再開がされていない時に列車の位置が変わるのか?疑問とは思わなかった。
長くも短いと感じてしまう一夜が明けると、清々しい日差しが改札口に射していて、雪に反射して眩しい感覚のする朝を迎えることができた。
その清々しい光景を見ていると車内アナウンスからは「総武快速線は木更津まで除雪が完了し、安全が確認されたため運転を再開しております」・「総武快速線方面をご利用の方は、ご乗車して車両の点検が完了するまで、しばらくお待ちください」・「各駅までの所要時間は、通常よりおおよそ1~2分程度遅れることを、ご了解願います」・「車両の点検が完了し信号が変わり次第の発車になります」などとも放送されて、寒さも感じることもなく空腹感と喉の渇きを覚えることもなく、発車までの時間を座席に座り待つことにした。
待っていると「まもなく発車いたします」・「ご乗車になり、お待ちください」と女性車掌の声で車内アナウンス放送がされて、発車メロディーが終わると直ぐにドアが閉まり、モーターからの轟音を響かせてトンネル内へと乗っている電車が走りはじめた。
トンネル内は不思議なことに照明などが灯っておらずに、途中ですれ違う電車もなく駅のホームを通り過ぎるけれども駅に停車することもなく通過して、長く暗いトンネル内にモーターからの爆音だけを鳴り響かせて電車は走って行く。
すると、急に車窓の景色が暗いトンネル内の景色から眩しく明るい外の景色になり、快晴の冬空の元で降っていた雪に白く覆われたビル・マンションが建ち並ぶ風景となって、電車の走る風に舞う雪が白く輝いて舞っている光景に、綺麗さを感じてしまう。
しばらくは雪に覆われた建物を眺めながら江戸川らしい鉄橋を過ぎると市川周辺からは雪景色から青空の元に雪もなく紅葉した木々が生えている丘などが見える風景となり、途中の駅に停車しないで、瞬く間にJR千葉駅に到着した。
JR千葉駅まで途中駅に停車しないことに不思議を感じずに思わずにもいたところ、車内アナウンスから「しばらくの間、停車します」・「ご乗車になりお待ちください」と放送され、ホームに降り立ち快晴で生暖かい微風を浴びながら空を見ていた。
普段ならば家に帰るためには、JR千葉駅で京成線に乗り換えて帰れるのに、ホームで発車メロディーが鳴るまでの気持ちの良い時間を過ごしていた。
夢とはいえ不思議なことである。
なんで京成線に乗り換えて京成津田沼駅経由で帰宅できるのに、JR千葉駅のホームで乗っていた電車が発車する時間まで待つのか?・・・・・・。
発車メロディーが鳴ったので慌てて電車に飛び乗ったところ、本千葉駅を通過した頃から寝てしまい、目を覚ますと終点の木更津であることに、ホームに立っている昔の白く塗られた板に黒い文字で【木更津】と書かれた駅名標を見て気がつくと乗客はすべて下車したのか?車内には誰一人として乗っていないため慌ててホームに降りた。
【夢の中で夢を観ていた夢の中】
木更津駅のホームに降り立つと快晴の空であるけれども、寒々とした空気が伝わって来たが寒いと感じることもなく辺りを見渡したところ少しの違和感があった。
違和感として、ホームとホームの間に渡されている跨線橋は無く、構内踏切があり、駅舎は木造平家の建物がポツンと建っているだけで、駅前に建てられている旧そごうデパートが見えず、ビルなどの建物もまったく見えない!
ホームに飲み物などの自動販売機がなく、ホームには昔ながらの売店がある!
木原線の車両もクリームとオレンジ色に塗り分けられた鋼製車両だ!
ホームにある椅子もペンキを塗った木製の椅子だ!
ホームの柱には琺瑯製の青色の駅名表示が掲げられている!
ホームの柱には灰皿もある!
昔の風景だ!
何かおかしいと感じながらも自然と身体は改札口に向かって動いていた。
向かった改札口は自動改札で昔の面影はない。
さらに、改札口を出ると自動券売機が並んでいるが、何かおかしい雰囲気であるが気はするが気にすることもなく、出口を探すと西口と東口の両方に出口はなく、東口だけに出口があり、東口に出ると駅前にはロータリーが広がり、駅前に立つと目の前に朝靄に烟(けむ)り徐々に坂道を上っていく幅が広く人通りもなく自動車も走っていない通りが中央に見える。
ホームや駅前は、昔の昭和風景だ!
その通りには両側に木造の商店が並んでコンビニエンスストアなどの店は見当たらずにコンクリートの平板が敷かれている歩道で道路はアスファルト舗装されている。
歩道に丸い看板が立っているだけのバス停があるだけで、ここは木更津ではないことを直ぐに想像することがきた。
ロータリーのバス停で厚く重そうなコートを着込みマフラーを巻いて無精ヒゲが目立つ、バスの到着を待っているらしい男性に「ここは、どこですか?」と場所を尋ねると「どうしたの?」・「ここは千歳だよ」との意外な言葉が返ってきてしまった。
それからの記憶がないまま、目を開けると天井と壁が白く塗られている部屋で白い鉄パイプ製のベッドに一人で寝かされていて、ここは病室であり入院しているのかな?との想像をしてしまった。
目を開けたことに気がついた看護師さんが病室に入って来て「目を覚ましたのね」と声をかけられたが、そのほかのことを訪ねる気にはならなかった。
看護師さんに、なぜ入院しているのか?場所はどこ?と訪ねなかったことが考えると不思議ではあるが、夢の中では気にもしなかった。
ベッドから起きると、歩けないために毎日が歩行リハビリ生活の訓練が続いて、毎日、朝起きて食事を済ませると看護師さんと一緒に病院の階段で上り下りや病院に面している歩道やロータリー周りを歩くことを繰り返すリハビリ生活だけの日々を過ごしていた。
病院の外の風景は、広い道路があり歩道とロータリーもあり、歩道に面して二階から三階建てのビルが並んで、歩道には街路樹が植えられていて、長閑な雰囲気であるが、駅だけは高架線路があり駅入り口にはエスカレーターと階段が正面にある。
駅の近くには丘の上に公園があり、バスの到着を待っているらしい男性に場所を尋ねた場所から比べると都会に思えたが、自動車の通りと人通りはなく、寂しい感じがする場所であったけれども、日差しは暖かく、ノンビリとすることができて心が落ち着いて癒やされる場所に感じられた。
数日が過ぎて、見守られながら一人で手すりに掴まらずに屋上まで階段を上り下りができる段階までに回復すると、突然、リハビリをしている最中に、けたたましいサイレンの音が遠くから聞こえて音が大きくなり近づいてサイレンが止むと、急に病院内は騒がしくなり、救急車が到着したと思った。
それから病院内は、急に慌ただしさと混乱した状態となり、リハビリは中止となってしまい、病院の受付ホールで病院内が落ち着くまで椅子に座り病室に戻るまでの時間を待たされることになってしまう。
待っている間はノンビリとした気分で、外の景色を眺めて耳から入る騒々しさを紛らわすことはできるけれども慌ただしさだけは紛らわすことができずに伝わってきてしまった。
その慌ただしさの内容は、交通事故が発生して救急搬送されたらしいと同行して到着した警察官の方と救急隊員の方から「直線道路でのスピード超過から対向車に正面した事故」・「居眠り運転の可能性もある」・「外国の方で勤務先は・・・・・・」などとが医師に説明する微かな声が耳に入り交通事故であったことを想像することができた。
交通事故で救急搬送された方は、処置や手当などの甲斐もなく亡くなってしまったらしく、病院内は静かになり警察官の方々による事情聴取などの声がするだけの、夜の帳に包まれてしまった。
その様子を見てしまい興奮して眠れないでヘッドで天井を見ながらいると長い一夜が明けた。
眠たい気を紛らわすため、廊下に出てホールに立ち病院内の一階を見ていると、泣いている姿から事故に遭われた方の奥様らしいと想像した女性の方が男性の方に付き添われて病院にいらっしゃった姿が見えた。
その様子から、奥様らしい女性の方は身ごもっていらっしゃるようで、お腹のふくらみを気にしながらも泣き崩れている姿が目に焼き付いてしまった。
その様子を見ていることもできずに、窓の外を見ると外の景色は悲しみよりも、寒々とした中に日差しだけが暖かく長閑に射している午後のひとときを感じてしまう雰囲気がしていたことが印象として強く残っている。
その様子を、上の階のホールから遠目に見ていると、突然、奥様の周囲の人たちが慌ただしく動き出して「陣痛!」・「陣痛が始まった!」・「出産準備をして!」などと叫ぶ声が辺りに響いて、出産の準備を始めていることが伝わってきた。
その日の、回診の際に看護師さんに様子を尋ねると「・・・・・・」と無言に近い言葉が戻ってきて違う話になってしまうので、赤ちゃんは男の子か?女の子か?を考えていると、ふたたび病院内が慌ただしくなり、赤ちゃんの泣き叫ぶ声が響きだしたため、後日、看護師さんに聞くと「無事に生まれましたよ」とのを聞くことができ、ほっとした安心感を抱くことができたけれども男の子か?女の子か?までは聞かなかった。
しかし、その時の話では「食欲旺盛で、ご飯もよく食べるのよ」とのことは、生まれて直ぐの赤ちゃんとは違うとは、思わなかったし違和感も無く、私は、その時には普通のことと理解していた。
後から考えると、生まれて直ぐの赤ちゃんが食欲旺盛とはおかしな話で「ミルクをよく飲む」のならば普通の話であるが、不思議な夢の中の世界・・・・・・。
また、そのことと一緒に聞いた話では、一緒にいらした男性の方は勤めていらっしゃる林業会社の経営をされている方とのことで「これからの事は、俺が全て面倒をみるので安心しなさい」との言葉を残して帰られていることも聞いて安心することができたとも記憶に残っている。
そのような入院生活をしていると、ある日の夜になると私は自然に身体が動き出して、身の回りの品を片付けて退院準備をしていることは不思議であったけれども、その時に退院をしてからの生活方法や途中までで終わってしまったリハビリの継続などのことなどは全く考えもしていなかった。
退院後は、どのように日常生活していたかは、全く記憶に無いけれども、仕事として高齢者宅へ電子レンジで加熱すれば食べられる冷凍弁当を配達することをしていたことが記憶に残っている。
毎日、冷凍弁当を積んで、市街地への配達ではなく、北海道の大地の中を自然の風景を満喫しながら、一人で自動車に乗り運転をして配達していた。
毎日、距離を走る割に配達件数は少なく効率が悪かったとも記憶しているけれども楽しい配達であった。
配達先は、雪など無く春か夏の緑が豊かに生い茂る風景が広がり、鉄道の駅も見当たらなく広く長い一直線の道路に面して、敷地に壁の板が部分的に壊れて屋根のトタン板は錆びたままの元牛舎らしい建物と同じような姿をしたサイロが残っていて、庭先は草が生い茂り薄い赤色をした花と錆びてタイヤから空気が抜けてしまっている廃トラックと錆びて同じようにタイヤから空気が抜けてしまっている廃トラクターなどの農機具が放置されているけれども、平屋建て住宅の建物だけは綺麗に手入れがされている元酪農家らしい配達先ばかりであった。
しかし、ある日に限っては、夜に雪が降り、朝になると雪が積もった風景で青く広がる空に、太陽の射す陽の光が一面の雪景色に輝いている配達で、冷凍弁当を自動車に積んでタイヤチェーンなど巻かずに雪だけを払って配達先へと向かった。
その配達は、閉山した炭鉱跡にある炭鉱住宅であろうか?白い雪が積もる丘の上に数棟の建物が建てられていて、そのうちの何件からかは煙突から白い煙が出て、屋根の雪も溶けてなくなっている。
丘の下には小さな小屋があり、【住宅入口】と手書きの看板があり、その小屋の中に入るとトロッコがポツンと一台止まって、トロッコには操作方法などが書かれた表示板が貼られている。
そのトロッコに乗り私が乗り冷凍弁当を積んで配達先に向かうことにしたところ、白一色の雪原を進み丘を昇りながら眩しい光を浴びて清々しい気分になり、東京ディズニーランドのアトラクションにあるビッグサンダー・マウンテンに乗っているような感じがして、観光旅行などでは味わえない至福のひとときを味わうが、トロッコに乗るなどの怖い場面にもあってしまい楽しくも怖い配達であった。
その配達が終わると、何日かの間は空が清々しく晴れ渡り、雪も溶けて無くなった大地の中を、広く長い道路を自動車には数件分の冷凍弁当を積んで一人で運転して配達していた。
自宅に戻ったら高齢者宅へ電子レンジで加熱すれば食べられる冷凍弁当などの配達を仕事にすれば、毎日が高齢者の元気な顔を拝見でき、安否確認もできて、楽しく人助けの仕事にもなるかなあとも考えたが実現させるための方策までは、その時には考えなかった。
実現しないことが夢の中の物語なのか?・・・・・・。
見ていた風景は、映画【幸福の黄色いハンカチ】やテレビドラマ【北の国から】の様な風景である。
夢で映画やテレビドラマを見ていたのかなと錯覚する光景であった。
しかし、数日が経つと配達先のお宅で突然倒れてしまい、配達先のお宅で救急車を手配していただけたため、救急病院に入院する事態となってしまう。
その入院先は、どちらの病院がわからないが、隣の病室の患者さんの方で、仕事の関係からか「ゴー・ゴー」・「ピー・ピー」と聞こえる耳鳴りに悩んで検査入院をされている方がいらっしゃった。
検査室で私が検査を受けていると、隣の検査室で色々な雑音の聞こえ方の検査をしているのが耳に入り「変な音は聞こえますか?」・「変な音が聞こえたらボタンで知らせてください」と検査技師らしき人が尋ねると、その方は気丈にも「おかしいが仕事に支障とは思わない」・「ただ、健康診断で異常とされただけだ!」と尋ねた検査技師らしき人に大きなハッキリとした口調で答えていて、後日、偶然お会いする機会があり「検査は大変ですね」と私から声をかけると、その方は「他人は病気だと言うが、私は病気の感覚ではない!」・「周りは病気に神経質になっているだけだ!」と激しい口調で話されたことが記憶に残っている。
その病院は、自衛隊施設の中にあったようで、自衛隊の制服を着た見舞客や病院内の売店を覗いてみるとボタンやパッチなどのマニアが見れば欲しくなる品々が並べられていたと記憶している。
それらの夢は面白いことで、普段から興味のあることに夢が重なってしまい、そのような夢を見たのかなあ?と後から夢を思い出すと考えるところで・・・・・・。
しかし、本当に夢から覚めた現実を予知してことも・・・・・・夢を見ている最中は口に看護師さんやヘルパーさんが口に食事を運んで食べさせていただいてことで、手と指を使うことなく食事をしていたことが、夢から覚めてから意識を取り戻したときに、手術により併発した脳梗塞で自由に手と指が動かせずに、食事が目の前に運ばれてきても、食器を手に持ち箸を使い食べることは難しく、食器まで口を運んでスプーンを握りしめ、しかも、食器に口をつけて、かき込むような状態でしか食べることができず、食事に添えられている手拭きの封と調味料などの封も開けることができ無かった。
それらのことを夢の中で体験していたことは、私には予知する能力が備わっていたのか?不思議に思えてしまう。
また、夢の中では私には身寄りや知人も見舞いに訪れずに病院内で毎日を過ごしていると、私自身で診察を受けた後に処方箋を持ち調剤薬局に薬を取りに行く場面もあり、不思議な表現し難い行動を夢の中の記憶に残していた。
それは、調剤薬局は、病院近所のショッピングセンター内の地下一階にあるスーパーマーケットの隣に調剤薬局で、スーパーマーケットなどはコンビニエンスストアのようなに24時間営業している店あり、私は杖を使いながらパジャマの上からガウンを纏って靴を履いて、手に処方箋を持って薬をお願いに行くと店内にストレッチャーが付属している体重計があり、ストレッチャーに乗り体重測定を行って、身長などや血圧も測定して記録簿に記録していてからの薬の受付となっていた。
あとから、私が入院をしていた時に医科大学付属医療センターのナースステーション脇に同じような体重計が置かれていたため、ボンヤリとした頭の中で見ていたのかなあ?と思うところですけれども、夢の中で目を覚まして体重測定の現実を見ていたのか?夢の中だけの出来事だったのか?・・・・・・今となっては、全くわかりません。
薬の受付が済んでから薬の調剤を待っている間は、暇つぶしに上の階にある音楽教室で歌う子供たちの姿や書店などを見ていたところ書店で旅行雑誌や自動車雑誌に混じって、漢字の歴史などを紹介する何冊かの本が目にとまり、そのなかの薄い一冊を手にして読んでいると、イモムシ?ミミズ?梵字?に似たような象形文字?絵文字?のような形をした不思議な文字が数ページ紹介されていて、初めて見る単純な形であるが不思議に暖かく軟らかみのある書体に魅せられて夢中で眺めて、その中の字が簡単に書かれている一冊を買い求めた。
その本を袋から出して、眺めていると、私の姿を見ていた女性から声をかけられ、話を伺うことになり、話を伺うと同じ階の音楽教室の先生をされているとのことであった。
私は、調剤薬局まで歩いて来たことと立ち見をしていて足に疲れがでてしまっているため、通路にあった休憩用の椅子にテーブルを挟んで腰かけて、色々な昔の話を聞くことができ先生の話では「私の先祖はアイヌで、昔は暖房器具も暖かいとは言えずに近所の方からベスト・マフラー・セーターや手袋などの毛糸で編んだ品を頂き、たいへん重宝して有り難かった」・「そのためなのか、今では毛糸でいろいろなものを編むことが趣味となり、教室の壁にパッチワークのように音楽を題材にした作品を飾り付けて楽しんだりして、知り合いの方にも差し上げることもあり、私は音楽を教えることと編み物がライフワークになってしまった」・「あなたが眺められていた本はアイヌの言葉や文字を紹介する本よ」とのことを伺いながら、外を眺めると隣の建物が綺麗な夕日に照らされている光景が目に入り、なんの気もなしに水滴の滴っている窓ガラスに触れると、冷たく冷え込んだ手触りがして、音楽教室の先生から『今日は、だいぶ冷え込んでいるので気をつけて過ごしてくださいね』と声をかけられて、音楽教室の先生が帰ったあとは、私ひとりで夕日に照らされる隣の建物や辺り一面に広がる風景が夜のとばりにつつまれて夜空の星と建物の電灯の明かりだけが輝いている様子を眺めていたところ、音楽教室や書店などの閉店を告げる館内アナウンスが流されたが、そのまま休憩用の椅子に腰掛けて風景を眺め続けながら自動販売機でホット缶コーヒーを買って飲んでいると、急に足だけが冷え込んで来て身体にも冷たさを感じてしまった。
その様子を巡回している警備員さんなどに声をかけられることもなく、そのまま椅子に腰掛けて、先ほど買った字を紹介する本を夢中になり眺めながら、窓越しに夜が明けるのを待っていたところ、夢中になって時間の感覚がなくなってしまったのか、急に空が白々しくなって、本を片手に持って、慌てて屋上に上がり朝日を仰ぐと、久しぶりに心の奥から爽快感な気分となり、足の冷たさよりも朝日の昇るときの明るさと暖かさに心地よさを感じながら暖かく和んだ雰囲気に包まれてしまった。
しばらく、屋上で朝日を浴びながら散策をしてから、調剤薬局で薬を受け取り朝日に輝く景色を見ながら外を歩いて病院の病室へ戻ると朝食を済ませて、ベッドで寝てしまった。
寝ていると「今日は納涼会の日ですよ」と看護師さんから声をかけられて起きて廊下に出て、辺りを見回すと職員の方々が全員で納涼会の準備に追われているが姿が目に入り、遠くからジェット機の爆音が響きだすと、それを見物している人々が歓声をだしているのか?「ワー」・「ヤー」・「ヒェー」・「ウォー」などの大声と大きな拍手が聞こえだして、飛行機がアクロバット展示をしているような雰囲気が伝わってきたが、窓から見える風景は青空が広がった眩しい景色を見ていると、昼食前なのに一瞬にして茜色の夕日に染まる景色になってしまった。
昼食も食べずにいると、日が暮れだして、館内放送で「本日の展示飛行は終了したので、これからバーベキュー大会と花火大会が開催されます」・「是非、ご参加ください」とのアナウンスがされた。
アナウンスが終わり、しばらくすると、急に外から騒がしい声が聞こえだしてバーベキュー大会と花火で盛り上がっている様子が病室内にも伝わってきた。
しばらくは盛り上がっている様子を聞いていると、騒がしさも一段落して「皆様ご参加ありがとうございました」・「納涼会の行事は全て終わりました」・「これから後片付けをしますので、ご協力をお願いいたします」などのアナウンスが流されて納涼会の終了を知らせるためなのかサイレンの音が鳴り響いた。
納涼会が終わり、しばらく病院内に静粛な空気が漂っていると「救急搬送受入準備」とのチャイムとアナウンスが廊下から聞こえると、慌ただしい廊下の空気が病室の壁を伝わり病室内にも漂ってきたので、廊下まで出ると、慌てて受け入れの準備をしている職員の方々の姿を目にすることができたが、今、病院内で起きていることの重大さまでは何かはわからなかった。
あとから聞いた離しでは、建物の屋上から女のお子さんが、転落してしまったとのことであったが、植え込みの上に落下したため、かすり傷程度で済み障害なども残らずに退院ができたとのことで、安堵感を感じられずにはいられなかった。
女のお子さんは助かったとのことを聞き安堵感に浸っていると、看護師さんが病室を訪ねてきて「ご自宅の近くの病院に転院することになりました」・「ベッドのまま飛行機で向かいます」・「飛行機は一機をチャーターして行きます」・「保険などの手続きに時間がかかりますので、お待ちください」と伝えられた。
急いで着替えて、ヘッドに寝かされて空港まで用意されていた寝台タクシーに乗り空港に到着すると、先に到着した何人かの方々が待っていて、チケットの番号を呼ばれると順番に歩いて搭乗口へと向かっていった。
私の順番になり寝かされていたヘッドから起きると、歩いて搭乗口に向かい、白い塗装の機体に赤い目立つラインが窓と窓の間に引かれている飛行機で、搭乗すると機内はベージュ色一色の落ち着いた雰囲気であった。
搭乗すると、直ぐに頭を飛行方向にしてベッドに寝かされると身体をベルトで固定されてしまい、身動きの取れない状態になってしまった。
かろうじて、頭を横にすると窓の外の景色を見ることができたのは幸いであった。
ベッドに固定され、ベージュ色の天井と微かに見える窓の外の景色だけを見つめて長距離を移動するのも、苦痛に思えてしまった。
しかし、病院に入院していた時は、ベッドに身体を固定され天井だけを見ていたことが微かに頭の中にあったため窓から外の景色を見られることは、最高の気分であるとも思った。
それから空港を飛び立ち夜の闇に星が煌めいている空を飛行していると「成田空港・羽田空港などの首都圏に近い空港は突風により閉鎖されております」・「そのため仙台空港に代替着陸します」・「仙台空港から東京方面へは代替手段として寝台タクシーの手配をしてあります」と説明されて、夜の静まりかえった仙台空港に着陸すると寝台タクシーが着陸した機体に横付けにされて、乗り移ることができた。
乗り移ると運転手さんから「お疲れでしょう」・「夜の東北道は空いていますが、飛ばした走りはしないので、時間はかかりますが、ご了解してください」との話がされた。
東北自動車道に乗り、走り出すと空は晴れているようで星が多く煌めき、猛スピードで走る大型トラックに寝台タクシーが追い越されながらも、マイペースに近い運転で寝台タクシーは東京方面へと走り続けた。
走っている自動車の台数は多いが、すごく渋滞をするとも無く到着したが、到着した場所は自宅などではなく、マンションのエントランスの様な場所の前であった。
運転手さんに聞くと「間違えていいないですよ」・「依頼された住所で間違えはないです」・「ここは、依頼された住所の千歳市・・・・・・」との答えが返ってきて、東京に戻ったとばかり思っていたのに、元の場所に戻ってしまったのかと云う脱力感に包まれてしまった。
エントランスホールの受付で渡された用紙に名前などを記入すると部屋の鍵を渡された。
仕方ない、これから室内に入るかと荷物を持ち歩いて部屋を探すと、直ぐに案内板に書かれている私の名前を見つけることができ、その部屋を探して荷物を持ち行き、その部屋の前に行き、エントランスホールで渡された鍵を入れて回すとドアを開けることができた。
その部屋に入るとカプセルホテルの様なベッドとバスルームにトイレがあるだけのシンプルな造りで天井はガラス張りでテラスの様な雰囲気で、窓もあり、その窓を開けると格納庫内部を見ることができて、格納庫内部には白い機体にラインなど引かれていないジェット旅客機が一機だけ駐機していた。
ここは、格納庫の中にあるマンションか?
日頃から興味あることが夢として訪れてしまったか?
夢とは変幻自在な不思議な現象だ!
不思議な光景かな?
しかし、格納庫の中にマンションの一室があることは考えるとおかしい話・・・・・・夢の中では真剣に見ていた・・・・・・やはり、現実とは違う・・・・・・夢は夢であるのか?
マンションの部屋には白い機体に赤・青・緑・黄・橙の五色のラインが描かれた鮮やかな塗装がされたジェット旅客機の姿を模した芳香剤が置かれていた。
その姿をした芳香剤の銀色の翼下に四機のジェットエンジンの形をした芳香剤の出口が付けられていて、その芳香剤の出口からは白・赤・青・緑・黄・黒の七色に変化する芳香剤の煙が出ていて、見える角度によっては噴出される煙が四本の帯になったり一筋になったり変わる様を眺めていたが、芳香剤の香りは心地よさよりも油の焦げた感じの臭いがして、芳香剤の煙に指が触れるとベタベタとして嫌な感じがしたことを覚えているけれども、七色に変化する煙の色は、その日の気持ちにより、明るい色調、暗い色調になり、その日の気分を楽しむ感覚で占いの様に楽しんで煙の本数と色を眺めていた。
そのマンションでは日々葬儀が行われており、参列すると云うよりも、焼香台がルームサービスのように各部屋に運ばれて来て焼香をするだけであったが、悲しみよりも焼香することへの苦痛を味わっていた気がしていた。
次は、私の番になるのか?私の番になったら?・・・・・・と考えると死んだら楽になれるかな?とのことだけが頭の中に浮かんでいた。
楽になりたいと死後の世界について、どの様なところかを考えるだけの余裕は、差の時には無く、死を意識していたのか?死後の世界とは?このときに受けた心境は?などの感覚は覚えていないが、夢とは、なんであるのか?・・・・・・夢の世界のなかのことを詳しく思い出すことはできずに、今でも不思議な日々の記憶としては残っている。
そのマンションでは、何をしていたのか?仕事はなんであったのか?については、仕事もあるが毎日、教会の礼拝堂らしい場所の椅子に座り数人で礼拝をしていいたことが印象に残っている。
仕事は、設備関係のメンテナンス工事をしていた様である。
その、メンテナンスと云っても器具の入れ替え工事で指示された各部屋を順番に廻り水洗便器の取り替えとユニットバスの入れ替え工事を私一人でしていて、しばらくは礼拝をする日々と工事をする日々を過ごしていた。
そのようにしていると、ある日突然「退去期限が来ました」と黒色か紺色のスーツ姿の女性が現れて、私が「退去するのですか?」・「家賃などのお支払いは?」と訪ねるとスーツ姿の女性から「モデルルームに、この部屋をします」・「掃除をしてクロスなどを貼り替えていただければ家賃は相殺します」・「器具の交換もお願いしますね」との返事が戻って来たため、数日は女性から支給されたクロスの貼り替えと器具の交換を行っていたところ、工事が終わると、先ほどの女性がいらして「これから行う最終検査が完了したら退去です」と伝えられ、最終検査に望むこととなった。
最終検査を行うと、支給された部品に不合格箇所が多く補修部品の到着を待って指摘箇所の補修を開始するがしばらくは徹夜の作業になってしまった。
やっと補修工事が終わり、ぼんやりとワンルームマンションで過ごしていると疲れているのか眠りについてしまう。
眠りから起きて、気がつくと場所は、いつの間にか、船橋東武デパートの一部分が病院となっていて、その病室はJR総武快速線の地下トンネルホームの脇にある個室ベッドに横たわり入院している私がいて、病室の窓から、ホームを電車が通過するたびに通過する電車の姿と買い物客で賑わっている売り場を眺めて過ごしていた。
不思議なことにJR総武快速線船橋駅ホームは地下ではなく高架ホームなのだが・・・・・・夢とは不思議なものであり、ホームは地下にあり、通過する電車は特急と貨物に回送電車だけがJR総武快速線船橋駅では普通の光景であるけれども、見ているとほとんどの電車が通過してしまい、たまに停車する電車の本数は数が少なく異常なほどに混雑していて、ホーム係員が乗客を車内に押しこむ姿を見物していたこともあった。
ホーム係員が車内に乗客を押しこむ姿は何年前の光景か?私が新宿に通勤している時は途中駅で降りられずに隣の駅まで行って戻る以外に手段がない時の光景が蘇ってきたようであるが、すごい混みようで窓ガラスが割れてしまうのではないかと心配にもなってしまった。
当時、窓ガラスが割れて応急処理をしている車両もあったが、今ではガラスも丈夫になり割れてしまうことはないであろうが・・・・・・・
また、今は鞄がドアに挟まり車両のドアの外に鞄が出たままで発車することも無いであろうが、そのようにドアの外に鞄を出したままで発車をしてしまう混雑をしている電車もあった。
電車もステンレスに帯を貼り付けた車両ではなくクリームと青色に塗装された鋼製車両の横須賀線色の電車であったことも記憶に残っている。
だいぶ今とはチグハグな光景を、見ていたことと、隣のホームに停車する総武線各駅停車も鋼製車両の黄色く全体が塗装された101系か103系電車であり、時代も昔の光景そのものであった。
夢の中で昔に通勤していたときの光景を思い出していたのか?
しかし、東京方面へ向かう電車を見たが千葉方面へ向かう電車は見なかったことも不思議であるけれども夢は夢・・・・・・。
光景を眺めていると看護師さんが回診に訪れたため「此処はどこですか?」訪ねると「船橋の医療センターよ」・「わからなかったの?嫌だわ」・「わかっているのかと思っていたのに」との返事が返ってきた。
そのような会話をしていると、隣の病室から外国語が頻繁に聞こえているのが気になり看護師さんに尋ねると「お二人の外国人の方が入院されているの」・「話す言葉の感じが違うから・・・・・・」・「少し甲高い口調で話をされるでしょう」・「私たちも良く理解できないのよ」・「お一人は日本語を全く話せないけれども、お一人は日本語で多少のことは話せるのよ」・「病状よりも本国へ帰りたいだけと話すのよ」・「治らないと帰れないことは仕方ないわね」と話すと「私はダメね。守秘義務のことまで話してしまったわ」・「この話は私たちだけの秘密よ」・「この話は黙っていることを絶対に約束してね」と話、それより先の話を聞くこともできず、訪ねることもしたくなかった。
数日が経つと、外国語の会話は聞こえなくなり、日本語の会話だけが聞こえて、お二人は退院をしたのか?どのようにされたか?は知るよしもないが、不法就労で治療が一区切りついたので強制送還されたらしいことを看護師さん同士がする会話から察することができた。
その会話の内容は「私たち事情聴取で大変な目にあった」・「事情聴取は勤務時間が終わってからで超勤手当も付かない」・「帰宅が遅くなり、家族からは文句を言われてしまった」などなどの様々な内容を、看護師さん同士が、小声で話しているところを小耳に挟んで、私なりの想像をしてしまった。
その外国人の方たちは、帰国して家族。親類と幸せに暮らしているのか?気になるところでもあるが知る由もないし、私が知ることでもないと思い、看護師さんに聞くことでもないと私の心の奥に留めてしまうことにしたが気になることでもあると、夢の中では考えていた。
私が、異国の地でその様な目に遭遇したら・・・・・・心細いし、言葉も通じない、病状も伝えられない・・・・・・どのようにすれば良いのか?だが、日本に生まれて、海外渡航経験したことが無い、全く私には経験したことが無いことが幸いであるが・・・・・・。
そのような海外渡航も無いことの状況が幸せか?人生の経験として必要であったのか?・・・・・・永遠の課題であろう・・・・・・。
これから、海外渡航する機会があるかも全くわからずに過ごしているが・・・・・・。
おそらく国内だけが楽しみな旅行先かな?・・・・・・。
入院しているある日、突然、吹雪が舞う大雪に見舞われてしまい、電車やバスも遅延や運休が続出してしまった。
そのために、翌日の勤務を振り直す作業で病院の事務職員の方々が右往左往している病院のホールにいると、突然、警察官の方が来院して「今夜は大雪のため交通事故搬送が多くなると思慮されるので、緊急搬送に備えるようにされたい!」と叫びながら廻っている姿を横に観ながら寒く冷え込んだ病院のホール内をフラフラと歩いていた。
この突然の大雪に、ふと、ここは北海道だと頭の中で錯覚してしまい、看護師の方に「ここは北海道?」と場所を訪ねると「嫌ね、なにを言っているの?」・「ここは船橋の医療センターですよ」・「何を勘違いしているの」との返事が返ってきたため、やはり、船橋であることを改めて自覚することができた。
病院の外は、辺り一面に白い雪が降り積もる白銀の世界、空には黒い雲が低く覆い被さっている。
しばらく外の景色を見ていると、突然、西の方向から低く覆い被さっている雲が割れて、雲の間から西日が射して、辺り一面が雪に西日の曜が反射する茜色に光り輝く夕方の景色にかわってしまうと、途端に寒く冷え込んでいた病院のホールが暖かい空気に包まれ冷えた身体に日の光がそそぎ温もりを感じられるようになった。
ひとときの温もりに身を委ねていると、心に和みを感じることができて病院にいることよりも、カフェテラスで、たたずんでコーヒーを味わっている時の感覚になり、ホッとしたひとときの幸せな感じも味わうことができた。
幸せな感じを味わった後に、幸せな気分を一層に増幅させたくなり、何をすれば気分を増幅させられるか?
気分の増幅をさせるには、歩いて景色を見ながら増幅させるしかないかな?
・・・・・・しかし、外の景色は雪景色で雪が積もり綺麗であっても、滑ったり、転んだりして危ないと頭の思考回路が回転したため、病院内やデパート店内の雪の無い安全な場所を選んで歩いて気分の増幅をさせることを考えついた。
デパート内の書店などをしばらくの間に見ていたが、毎日の病院食に飽きていた私の頭の中で、食料品でも見てみるかな?と頭の中で考えがまとまることになり、エレベーターに乗り地下の食料品売り場まで、直行・・・・・・。
病院食とは違い美味しい惣菜・お弁当・ケーキなどが沢山ある!
食料品売り場はお客さんが混んでいて、見る物は、どれも食べたいが・・・・・・塩分制限などされているので、食べたいが食べると検査でばれてしまう!我慢して我慢しかないな・・・・・・。
酒類売り場では地酒の試飲をしている。
これも、我慢して我慢しかないな・・・・・・。
日本茶の試飲なら大丈夫かな?
しかし、何かの拍子に・・・・・・これも我慢して我慢しかない・・・・・・。
すべて我慢に我慢して目の保養と思えば済むことと、諦めるしかなかった。
制限をされずに食べられることは幸せか、そもそも健康を考えるのであれば、日頃の食事から考えなければ、何かの検査で必ず異常値が発見されることは事実だな・・・・・・。
健康的に生活するには、粗食とストレスを抱え込まないことに限るかな?
あと、運動もしなければ・・・・・・。
難しいようで簡単だけれども、私には普段から、できないことは事実だし・・・・・・。
しかし、病院食だけの生活でも、何かの病気にはなるだろうし、ならない保障は無いだろうな・・・・・・。
難しい難しい・・・・・・。
色々と頭の中で考えながら歩いていると【演奏会開催中】の看板が目に入り、【ご自由にお入りください】とも書き添えられている。
気分転換に入るかとドアを開けると、またドアが・・・・・・防音になっているのかな?
迷惑にならないように静かに内側のドアを開けると、岩肌が剥き出しで岩肌は濡れて蝋燭の光が反射して輝いていてヒンヤリとして薄暗く高さのある洞窟が音楽ホールになっている。
椅子は座るのに丁度良い岩が整然と並べられている。
ここが【演奏会場】かな?
もう少し、賑やかで照明などが眩しく輝いて活気があり賑やかな場所と思っていたが、違う、静かな闇に近い場所だ。
私の趣味とは違うかな?
岩に座ると冷たさも伝わらずに居心地が良い。
その演奏会場では。何人かグループにわかれた方々が、それぞれ、拳くらいの大きさの石を舞台に置かれた大きい石を叩いて音楽を奏でて演奏をしているが演奏曲目などはわからないが、聴いていると音楽そのものだ!
石器時代もこの様な音楽を楽しんでいたのか?
指揮者もおらずに、ただ演奏者が各々に手にしている石をたたいているだけであるけれども乱れて叩いている感じもしない、心地よい音色である。
石と石を叩いても、うるさい感じもせずに、カーンカーンと高い音がして、
純度の高いステンレスなどの金属同士を叩いているような音色で、音色は気持ちが良く、なにか落ち着く感覚がして、どこか異次元に居るような気分になってしまった。
なんであろうか?気持ちよく聴いていると眠たくなり・・・・・・。
演奏を聴いている何人かの人たちも寝てしまっているようだ・・・・・・。
いびきや寝息なども聞こえずに、ただ目を閉じて寝ている・・・・・・。
私も、自然と何人かの人に混じって洞窟内の音楽ホールの岩に座り目を閉じて音色を聴いていると自然と寝てしまう・・・・・・。
目を覚ますと、私は私の身体の上から、知らない男性と私の身体を見ている場所は救急車で到着して手術をしてから入院をしている、医科大学付属医療センターの個室である。
なぜ、身体を拘束された私が寝ている。
しかし、寝ている私は点滴をされているけれども、見ている身の私は点滴などされていない。
普段、眼鏡をしているけれども眼鏡をしていない。
しかも、目を細めたりすること無く全てが裸眼でハッキリと見えている。
そのように戸惑って私が私の寝ている姿を見ていると、知らない男性に誘われて宙を舞いながら病院に設置されているヘリポートに到着すると「散歩に行きますよ」と声をかけられると、自然にヘリポートから空へと向かった宙を舞っている最中に、医科大学付属医療センター近くのバラ園に綺麗に咲いているバラの花などを上空から見ていたり、そのバラ園の近くに建っている外壁の一部分がレンガ色と水色に塗られているマンション群も上から見ていた。
しかも、見るところは自由に角度を変えられて、見たい場所にも直ぐに移動ができる。
近くを走っている電車も見えている。
しかも、歩いたりしているわけではなく宙に舞って見ている。
私がヘリコプターになって飛んでいるようだ!
今まで、この場所を上空から見るなどをしたことは無いのに・・・・・・。
これが【幽体離脱】と云うものなのか?
今までに体験したことの無い不思議で面白いことである。
しばらく宙を舞っていると一緒にいた知らない男性から「貴方は戻りなさいね」・「さようなら」と声をかけられて男性は遠くへと宙を舞いながら去って行ってしまった。
私は、なぜ挨拶をしなかったのだろうか?会釈やバイバイの仕草などしても良いと思うのに・・・・・・。
それからの私は、病室に戻り、病室のベッドに身体を拘束された私が寝ている姿を見つめていた。
何の不思議な感覚も無く・・・・・・。
そのほかにも、川岸に佇んで対岸を眺めている時もあった。
おもしろいことは、桂歌丸師匠の落語を聞いていたことで、寄席で落語などを直に聴いたことが無い私には初めての体験を【夢の中で夢を観ていた夢の中】でしてしまうとは不思議・・・・・・。
また、旅行先で宿泊に困り警察署に頼んで警察署で宿泊していた夢として見た。
なんで警察署が一般人を留置場に宿泊させて食事まで提供をしているのか一般では想像できないことだが、真剣になり宿泊をさせていただき何日間かを過ごして、蒸気機関車に乗り旅へと向かった。
夢とは不思議なものである。
現実では考えられないことが夢では、本当のこととして見てしまい違和感など、全く感じたり考えたりすることも無く現実の出来事として、真剣になり、ただ夢の世界に浸っている。
【麻酔から覚めると】
それから、しばらくすると親戚の亡くなった叔父さんから『僕!』・『何をしている!』と怒鳴るような声を聞いて、手術が終わり半月後になって、麻酔から、やっと私自身で目を開けると病室の白い天井がボンヤリと見えた。
酸素マスクは外されているけれども、点滴パックからチューブが延びて点滴針に繫がって腕に刺されている。
私の姿をこの目で確かめることができた。
それを、夢なのか?現実なのか?わからずにいると、身体拘束をされているため身動きが取れずに、ただ誰かが来るのを、おとなしく天井だけを見て待っていると、しばらくして看護師さんがいらっしゃって声をかけられたが、私は錯乱しているのか?寝過ぎたのか?頭の中は混乱していて、かけられた声の内容などもわからず、私から声を出すこともできず、点滴パックを交換している姿をボンヤリと見ているだけであった。
なぜ、この場所で寝ているのかを理解する気力と訪ねる気力も無く、ただ寝ているだけ。
身体に感じることは、点滴の針を固定しているテープに腕がかぶれて、その部分だけが痒いけれども、手で掻くこともできずに拘束帯ベルト部分が背中に当たり痛いことだけを感じながら、ただ目を開けて天井を見ていても、眠くて目を閉じると寝てしまうだけであった。
その時には昼夜逆転していたようで、看護師さんから「おはようございます」・「おやすみなさい」と声をかけられても、朝なのか夜なのか理解できずにいてしまった。
また、夜中を昼間と誤解していたようで「寝る時間ですよ」とも声をかけられても、夜中であることも理解できずにいた。
嫁さんが見舞いに来ても話すこともできずに、ただ顔を横にして嫁さんの顔を見て横になっているだけ・・・・・・。
私の状態を聞くこともせずにいると、点滴パックからチューブが延びて点滴針が腕に刺さっていることから、本当に病気になり病院に入院していることだけはボンヤリとした頭で理解はできたけれども、何のために入院しているのか?までは理解できずにいた。
数日が過ぎて、頭の回転が回復してきたのか?看護師さんがいらっしゃった時に「どうしたの?」と声をかけることができ、看護師さんからの返事は「大手術だったのよ」・「たいへんだったでしょう」・「身体の具合はいかが」とのことが返ってきたが、病状などについて質問する気力も無く私から質問することもできずに、ただ、目を閉じて寝ているだけで病状や症状までは知らずに、また数日間が過ぎてしまった。
質問する時に、救急車で搬送されたことを忘れていたのか?思い出せなかったのか?・・・・・・。
救急車で搬送されたことを訪ねれば、病状や症状をある程度は理解できたと思うが・・・・・・。
今の状況を聞くまで、ハッキリと頭の中が冷静では無かったのか?頭が完全に回転していなかったのか?救急車で搬送されたことを聞けば良かったと思うが、後の祭りで、ただベッドに身体拘束されて寝ているだけ。
人間、寝られるときが一番幸せなのか?寝ても寝ても眠いだけで寝るだけの日々を過ごしていると、頭の回転が日増しに回復するのか?それから数日が過ぎて、身体拘束の辛さを十分に理解できるようになり、身体拘束をやめて欲しいとのことが言えるようになり、看護師さんに「身体拘束が辛いからベルトを解いて欲しい」と聞くと「ドクターから許可されていないからダメ」との返事を返されたため身体拘束が精神的に一番の苦痛になってきてしまった。
元気になった証拠か?身体拘束が苦痛になるとは・・・・・・。
点滴針を固定しているテープの痒みよりも身体拘束が辛い・・・・・・。
私は、患者の身であるがゆえに「許可されないからダメ」と言われれば「ダメ」は当然であるが手を自由に動かしたい!寝返りもしたい!
以前、尿管結石で入院したときは、自由に点滴をしながら点滴棒を引いて歩けたのに!
あの当時、病院内は喫煙可で点滴棒を引いて喫煙所に行くのが楽しみで、テレビを見ているよりも落ち着けて暇つぶしを兼ねて入院患者さんとの間でする会話は最高で刺激があったのに!
三橋達也さん主演の映画【今日もわれ大空にあり】でも三橋さんが病室でタバコを吸っていたことなどを思い出すと時代が変わってしまった!
タバコが健康に悪いことが周知されて来たのか?タバコを吸わないでも生活できることは事実であるし、タバコを吸わないで生活している人が、現在では大多数であろう。
受動喫煙による他人への迷惑も無いし・・・・・・。
タバコを吸えない以上に、身体の自由が効かないことの苦痛を味わうとは、情けないが、それからしばらくして、身体拘束が解除されても身体が自由に動かせないで不自由なことを経験するとは予想もせずにいた。
身体拘束が解除されれば直ぐにでも歩いて動けると思っていたのに、動けない!
ただ病室のベッドで寝ているだけの生活で経験したことの無い体力の衰えとは恐ろしいものと・・・・・・私が自身の身で実感してしまった。
食事もヘルパーさんに食べさせていただく始末とは情けない・・・・・・。
しかし、食事の時間になると自然にお腹が空くとは、人間の身体の構造とは不思議なもの、今までは、考え事をしている最中や仕事が忙しいなどの時は頭の回路から空腹感が喪失してしまうこともあったのに、動けないストレスよりも空腹感が勝っているのか?・・・・・・。
また、タバコを吸いたい気分は全く喪失してしまい、吸いたい気分には全くなれずにいたことは進歩したか?寝るだけ寝て夢を見続けていた成果か?これで素直に禁煙ができるかな?とも考えてところが、タバコを吸うよりも暇に負けてしまい、暇であることが苦痛になってしまった。
タバコを吸いたい気持ちにならないのは、電車内でタバコを吸いたい気分が喪失するのと同じことか?病室はタバコの香りもせずにアルコールの香りだけ・・・・・・禁煙にはタバコの香りを無くすことも必要なのか?
そういえば、夢を見ていた最中も酸素マスクをしていたためかタバコを吸いたいとは思わなかった、これで、タバコを吸うことと縁が切れるのであれば、長年できなかった禁煙に成功したといえるのか?
私は、ニコチンパッチが健康保険適用になった時、ニコチンパッチを病院で処方していただき使用して挑戦したが、タバコを吸いたい気持ちに負けて、ニコチンパッチを貼りながら吸ってしまった・・・・・・【後悔先に立たず】とは良いことわざであることを思い知ってしまうが、後の祭りで血管がボロボロになることまでは知らなかった・・・・・・タバコを吸うことは肺がんや脳卒中になることはテレビなどを見て知ってはいたが・・・・・・。
血管までもがボロボロになるとは・・・・・・色々と弊害があることを思い知ってしまったが、これも後の祭り。
それから数日が経ち、身体拘束が完全に解除されたが、手が自由に動かないし、ベッドの上に座ることもできず、電動のリクライニング機構を動かしてベッドを立てて遊ぶだけとは情けない・・・・・・。
それでも、頭を自由に動かせることになったことだけは、幸いで、テレビを寝ながら見られるが、なぜかテレビを見ていると目が疲れてしまう、寝るだけ寝た成果か?見るよりも音を聞いているだけで、このような時にはラジオはありがたい。
それだけでも、ひとつの進歩だけれども、病室内にある洗面台まで私自身で歩いて行くこともできずに、歯もヘルパーさんにベッドの上で磨いていただくしかない。
レントゲン撮影も移動式のレントゲン機器を病室に持ち込まれて撮影するとは、そんなに重体で重傷なのか?と私自身で私の身体を疑ってしまった。
空腹感と同時に生理現象であるトイレに生きたくても、私自身が歩いてトイレまで行けずに蓄尿バックが頼りでしかない・・・・・・。
嫁さんが見舞いに来たので「暇でやることがない」と伝えて、長年しまい込んでいた読みたい本を家から持ってきてもらい、本を読むことにしたが目の焦点が合わずにボンヤリと字が見えているだけ、写真もよく見えないでボーと霞んでかすんで、ボンヤリとして見えているだけであり、比較的軽い雑誌程度の本でも本の重量感に負けてしまい、手に持って本を読むこともできず、頭の横に本を立てて眺めているだけであった。
しかし、目の疲れが何よりも勝ってしまう。
私自身で体験すると、身体の自由が効かない人の気持ちが良くわかってきた、介護用品などの開発も、身体の自由が効かない人の立場になって、開発しているとは思うが、本当に身体の自由が効かない人が使用した場合には違和感があるに違いない。
万人に対応させることは不可能であるとは思うが、せめて個人の身体に合わせた微調整ができる機構を付けていただきたいが、高価格になるために難しいであろうと思う。
ある程度の妥協点を模索していただきたいが、量産品では無理であろう。
機器開発・設計する時の想定と実際との違いがわかってきた気がして、モデルチェンジのサイクルなどが早いこともわかった様な気がしてしまった。
机上の計算と実験したデータと実際に使用した時の感覚などに、違いが生まれてしまうことの見本であるかな?
そうだな、パソコンの部品を買い求めて組み立てても、動かないこともある。
設定を変えても動かない、部品の一部分を交換すると動く・・・・・・同じことなのかなあ?
自動車のリコールも同じことなのか?
ユーザーは想定外の使用方法をしてしまうことまで、設計や試作段階で想定しないであろうし、全てのユーザーの使用方法を網羅することも不可能であろう。
妥協点を探すことも必要であろうが、全てを網羅するには、量産品では不可能であろうと思うし、オーダーした場合でも想定していない身体の体型が変化するなどの事態が発生してしまうので、難しい問題であろうが、どなたか解決策の良いアイデアでもあれば・・・・・・考えてアイデアを出していただきたい。
話は、だいぶ横道にそれてしまったが、暇つぶし方法を考えるだけの日々を過ごしているが、今は自然とお腹だけが空く、生きていることの証拠か?夢の中では、ミックスサンドイッチを食べても空腹感を満たすことができず、その後、食事などをきちんとしないで夢の中を過ごしていたのに・・・・・・。
食事が配膳されると、身体拘束から解放されため自分で食べることができるようになったが、二口か三口を食べると疲れてしまい、横になり休んでから、また食べ直しをすることの繰り返しで食べ終わるとお腹は満たされるが、疲れが出てしまい、横になり目を閉じて寝てしまう。
しかし、横になり寝ていても時間になればお腹が空く・・・・・・人間の生理現象とは不思議なもので、食事時間が唯一の楽しみになってしまった。
お腹が空くと云うことは健康体なのか?
しかし、病室内すら私自身で自由に歩けないと云うことは健康ではないのであろうし、病気なのである。
毎回、食事前に血糖値の測定をされてからの食事で、血糖値の測定結果によっては、インスリン注射をされてしまうことは、紛れもなく病気なのである。
ある日になり、看護師さんに、やっと病状を聞くことができた。
返ってきた言葉は「大動脈瘤解離ですよ」・「破れた血管を人工血管にしたのよ」とのことだが、何の病気かはわからずにいた。
しかも、調べることもできなかった。
私には、病気であるとの感覚は無い・・・・・・。
ただ、着替えの時に、胸には手術跡があり、お腹部分には、いくつかのチューブを刺した跡がのこっている。
手術をしたことには間違えは無い。
まだ、腕には点滴針が刺されて点滴をされている。
食事の時間だけが唯一の幸せな時間になってしまう病気なのか?
しかし、疲れては休んでから、食べるとは情けないし、食事が盛られている器を手で持って食べることもできず、箸も使えずにスプーンを握って使いながら、口を器に近づけて食べるとは、入院前の普通に食べられる動作が羨ましいだけである。
その時に、三遊亭圓歌師匠の落語の一説が頭に浮かんだ【酒が好きな貧乏人が酒を呑むと、杯を動かさずに口を近づけて呑む・・・・・・酒の好きな金持ちが酒を呑むと、杯を口に近づけながら杯を動かして呑む・・・・・・】そのものズバリかな?
しかし、食事を食べたい!
その時に配膳された食事を目の前にすると食べるための意欲だけは旺盛となり【武士は食わねど高楊枝】どころか【病人は食えども満足せず】の世界を体感してしまった。
しかし、死の淵から生還するための手術を受けたことへの実感もなく、歩いて外を散歩したい気分だけが増してしまった。
あとは、退院して普通の生活がしたい・・・・・・。
普通の生活をすることが一番か?
病院生活は【毎日毎日、僕らは鉄板の上で焼かれて嫌になっちゃうよ・・・・・・】の世界の実践の日々か?
つくづくと帰宅して仕事に復帰したい!との感情だけが日増しに増幅するだけで、病院生活にも飽きてしまった。
しかし、病室外に出ることは「感染症の危険があるのでダメ」とのことで、私が手すりと壁を伝いながら病室から出ることは禁止されていて、レントゲン撮影は移動式のレントゲン機器での撮影は無くなったけれども撮影する時には検査室の一角まで出られることになったけれども、心電図などの検査など検査に行く間際に、必ずマスクを付けさせられてからヘルパーさんに車椅子に乗せられてから病室を出て、レントゲン室や検査室まで行くだけの日々・・・・・・。
夢から覚めた時や、普段での感覚として入院生活は楽な生活と思っていたことに間違えはないが・・・・・・。
日々、それらの辛さが増すだけでも、病室内ですら壁を伝わりながら歩くだけで、自由に好きなところまで歩けない・・・・・・。
窓からの風景を見るにも窓まで行けない・・・・・・しばらくはダメか?とも思えるが、人間の欲とは凄いもので、動きたい欲だけが増してきてしまった。
【早く仕事へ復帰したい!】
日が経つと、体力が回復したためか?筋力も回復したためか?わからないが食事は、途中で横になり休むことなく全て食べ終えことができ、テレビも見ていることができるようになったけれども、病室内にあるトイレまでは行きたくとも自分で歩いては行くことはできず。
その都度ナースコールで看護師さんを呼んで助けてもらいトイレに行くしかない。
なんとも情けないもので、まだまだ帰宅は難しいかな?とも考えるようになってしまうと、帰宅することへ執着心は失せてしまい、トイレまで私だけで歩いて行けるようになることを目標とすることで、良い意味で無気力感の終止符にストップを打つことができた。
それと同時に、無気力をOffにするスイッチをOnにすることで、なにをすれば歩けるようになるか?とのことも考えられるようになってきた。
家から持ってきてもらった、スマートフォンを操作するなどの細かいことをするためには、なにが必要となるか?なども考えられる様にもなってきたが、体力の急な衰えとは恐ろしいもので、私が二十歳台から五十歳台まで年を追うごとに自然と年々知らずに体力が衰えた状態と、昼間は普通の生活をしていた身体が目を覚ますと動かなくなっていた状態とでは、感覚にあまりにも感覚の違いがあり、私の頭に理解させるまでには、しばらく時間を必要としたのも事実であった。
しかし、倒れる前までに回復したい!だが、現実は呂律が回らずうまく話せない!話すよりも手で行いたいことをパントマイムでした方が伝わりやすい!などなどの四肢の動きに対することよりも言葉の問題に直面してしまった。
なぜ、呂律が回らずに、なんで話せないのか?の疑問が湧いてしまう私に、後日、医師から「手術の時に脳梗塞を起こしてしまった」との説明を受けるまでは理解できずにいたところ、目が覚めてから今までを思い起こすと、食事を食べる時に口から食べ物を、こぼしてしまっていたではないか!との記憶と照らし合わせると理解することができたものの脳梗塞であると云うことを受け入れることは、難しく私には理解できずにいた。
その後に、病院で診察などを受けて、足の動きや手の動きも思うようにならないことの原因であったかと、やっと理解はできたが、父親をはじめとして脳梗塞を患った方を見ているが、自分で脳梗塞を体験してしまうと、辛いよりも悲しい感情が先になってしまい、患って意識が明確な軽度の方の心境は複雑であろうとも理解できたが、理解だけでは進歩もなく後退するだけが道となるであろう。
それを進歩させるためには、この状況を克服する以外に手立てがないことは事実であり、どのように受け入れて克服するかを考えるだけの日々が続いた。
しかし、厄介なことでは、あるが早く帰宅して仕事に復帰したいとだけを考えることに頭の中は終始して、頭の中は精一杯でもあった・・・・・・。
その様な状況であっても考えることは、食べては寝るだけから解放されたい!・・・・・・ことだけが、先になり歩行リハビリが始まるとリハビリに励むが、またもや驚きの事態がでてしまうこととなる。
驚きとは、人工血管置換手術時に不整脈まで併発してしまい、やっとのことで病室から検査を除いて私自身が歩いて廊下まで出られる夢がリハビリ時に限って叶うが、そのリハビリの最中に手すりを伝わりながら廊下を歩いていると不整脈の症状に襲われてしまい、手すりを掴んで立っていることもできなくなり、抱えられて病室のベッドまで運んでいただき、ベッドに横に休んでいても呼吸と胸が苦しくなり、なんでまた!こんなことに苦しまなければならないかと考えるまでの状態に陥ってしまった。
それからは、リハビリをすることへの恐怖心が湧いてしまい、食べては寝るだけから解放されたい!・・・・・・との気持ちが楽をしていたいだけの気持ちに勝ってしまい、リハビリ恐怖症状になってしまう。
しかし、リハビリをする恐怖症状から家に帰り仕事に復帰したいとの思いから勝つためには、どのようにしたら良いかと、ふたつの事柄を同時期に頭に加えてしまうと、考えることだけが頭の中の負担となってしまい思考回路が、私自身で飽和状態となってしまいことでパンクをしてしまい、さらに憂鬱な気分にもなってしまう始末でもあった。
今までは、仕事上などで考えることが重なっても、優先順位を私自身で決められたものが、脳梗塞のためなのか?年を重ねて能力が落ちてしまったのか?私が自身の身体のこととなると私の思考能力が落ちて極端に落ちてしまうのか?不思議なことではあるが、二度と経験や体験をしたくない状況が入院中には続いてしまったが、食欲だけは旺盛で食べることに終始していた。
しかし、後日になって同じような場面が訪れてしまうとは、その場では、全く予測もしていなかった。
ある学校の先生から聞いた『人生、分かれ道に差し掛かると選ばなければならない、どちらの道を選んでも、また、分かれ道があり選ばなければならない、その繰り返し』との言葉は、後から思うと適切であったと感じてしまう。
しかし、入院中、朝起きてから寝るまでの間に終始思っていたことは、退院をして自由に動きたい!などの自由に動くことと、仕事に早く復帰して仕事をしたいとの欲望だけは、ハッキリと頭の中をクルクルと駆け巡っていた。
退院日が決まると約三ヶ月間の病室生活から解放されるとの思いで頭の中が満員となり、カレンダーで退院する日までの日数を数えるだけが楽しみになってしまった。
しかし、数日を病院の病室で待たなければ退院することはできない!
待つこと数日が過ぎると、翌日退院する日が訪れた!
しかし、呂律が回らずに歩くことも自信がないが、とりあえず退院ができることだけが嬉しいだけの時間を過ごしていると寝る時間になったが寝られないでいると看護師さんから「寝る時間ですよ」と声をかけられてしまう。
声をかけられても寝られずに、朝が訪れるのまでの時間まで目を瞑って待つだけにしていると、自然と寝てしまった。
寝たくても寝られない時があれば、寝たくない時にでも寝てしまう。
人間の身体の構造とは不思議である。
起きると退院当日である。
身の回りを整理して、支度をしていると嫁さんが迎えに来てくれた!退院だ!と喜んでいると長期間入院していた病室と別れるのが、寂しくなってしまったことは、どのような心境なのであろうか?
受付で退院の手続きをして退院して帰宅・・・・・・。
【退院した後に待っていたものは】
・暇な日々・・・・・・
退院すれば普通の生活に戻れると思ったのが間違えの元であった。
勤務していた会社としても、退院すれば直ぐに職場復帰が可能との判断をされてしまう。
しかし、手術後の症状は、手と足が手術前のように動かすことができず、電話で話をしても呂律が廻らずに、相手には私が話している内容がハッキリと伝わらない。
しかも、現代社会では、仕事するために必需品となってしまったパソコンも手が震えてキーボードのキーを思うように押すことができないことと、マウスの操作も手が震えてマウスポインターを操作するために、マウスポインターの先をコマンドさせるための位置にまで正確に動かすことができない。
また、拍車をかけて脳梗塞による後遺症からか?目の視点もパソコンの画面を見続けていると画面の見ている場所が、私自身でもわからなくなってしまうなどの症状が出てしまった。
これらのパソコンに頼ることはIT化の弊害なのか?しかし、文字や線を手書きで書くためにペンを手に持っていても、手が震えて上手く字などを書けない状態でもある。
また、歩くことが思うようにならないと、電車などの公共交通手段を利用した通勤をすることも難しいうえに、自動車の運転などして事故を起こした場合などを考えると自動車の運転も避けなければならない。
パソコンも思うように使えずに呂律も回らずに過ごしていると、何が私にはできるのだろうかと考えるだけの世界に入ってしまい頭の中が満杯状態になって他のことを考えられなくなってしまう。
勤務していた会社からは、以前と同じように仕事ができなければ「職場復帰はダメ」と言われ、さらに「他の人を採用する」とまで言われてしまう。
私は退院してから職場復帰もできずに【無用の長物】扱いか・・・・・・?との思いで頭の中だけが満杯になってしまう。
しかも、食事の時には箸も上手く使えずに食事すら、手術前と同じようにすることができない。
ただ、生きていることだけか?などを考えてしまうと、手術をせずに死亡してしまった方が良かったかな?とも思いながら、暇な日々を過ごすことになると、今は病気の治療中で療養もしている最中であることよりも、何をすれば、毎日の暇を潰せるか?とのことだけしか考えられない気分になってしまった。
歩くこととは、まあまあ歩くことができるけれども、小走りに急いで横断歩道を渡るなどのことはできないし、手先も思うように動かせないでいると、歩けるようになることと手先を使えるようにすることだけが、当面の目標なのか?などのことが、まずは一番の解決策であると私の頭の中では考えついた。
そのためには、何が必要か?それは、毎日、少しでも歩いて段々と歩ける距離を延ばすことと、手先を使えるようにするには、何をすれば良いかなどの普通の生活をするために必要な手段を考えた。
考えた答えとして、自宅の近くを、毎日必ず少しずつでも散歩して歩くことで歩くことを回復させる。
さらに、手先を使えるようにするには、以前購入して、製作せずに棚の奥に積み上げられているプラモデルを製作しての指先などのリハビリをすることを思いついた。
だが、自宅の近くは散歩することができるが、プラモデルの製作は指先が自由に動かせずに説明書通りに進めても最後までは作れない。
その他の手段として、私が暇つぶしの材料としていたクロスステッチ刺繍も針に糸を通すことはできず、何回か挑戦して、針に糸を通せた場合にも針を刺す位置の布目に針を刺すこともできない。
パソコンは【YouTube】を眺めることはできても図面を書くことは困難で、表計算ソフトなどもキーボードのキーを思うように押すことができずマウスの操作も上手くできない、画面を見ていても見ている場所がわからなくなって使うことは難しい。
病気による手術が成功しても、他に数多くの悩みがあるとは入院中の生活では思ってもいなかった。
私は、退院後は直ぐに復帰できるとの安易な考え方に、私自身で私を怒ってしまった。
嫁さんなどの家族に対しては、思うような行動ができずに八つ当たりをすることが日常となってしまう。
しかし、頭を冷静にして考えると、足が事故や病気などから不自由になり車椅子生活をしている方々もいらっしゃるし、同じく事故や病気などから手が不自由になったけれども生活をされている方々も、多くいらっしゃることも事実であると思うと、今できることは生活を向上させるためにリハビリに専念するだけが必要かと考えられるまでに気持ちに余裕が出てきたことは幸いであった。
・医師からの言葉と気力を回復するまで
脳梗塞を併発してしまったために、話す言葉に呂律が廻らず目の焦点も定まらず、手が痺れ足も思うような動きをせず、症状を経過受診した際に、手術を実施した主治医に伝えたところ「死ぬところを助けたので多少の後遺症状は我慢」などと冷たいとも思われる言葉が返されて、仕事復帰にしたいなどに関する問いかけには触れられず、完全に仕事に復職できないことに対して、私は受診中に目の前から復職が捨てられないことへの希望も完全に消失してしまった。
次回の受診をした際に、症状を話すと、違う診療科の受診手続きをしていただき、その診療科を受診するものの、担当になった医師から発せられた言葉は「脳梗塞で、そのような症例を言う患者は知り得ない」・「全ては気のせいである」・「手術前からの症状で手術により併発したとは考えられない」・「手術前からの症状に、とやかく言うな」などなどとした予想外の返事が返されて来たために、さらに私の目の前から復職への希望が完全に消失してしまった。
それからは、私に何ができるのか?これからの人生は何をして、生きていれば良いのか?などなどを自問自答する日々を過ごすと、職場復帰したいし仕事もしたいなどの気力までも減退してしまったところが、数年前に左足の足底部を手術したことによる後遺症による疼痛障害を発症していたところ、人工血管置換手術後には治まっていた、疼痛障害が再発してしまい、疼痛障害の治療のために、以前から通院していた大学付属病院を受診して、主治医に今の症状を伝えたところ「うちの病院で診るから、他の診療科を受診しなさいよ」との返事をいただくことができて、その場で転院するために必要となる手続きもしていただき、診療情報提供書などの資料を入手してから、大学付属病院に転院することになり、私に救いの手が差し伸べられたのかとの安堵感が訪れた。
しかし、人工血管置換手術を実施した医科大学付属医療センターに診療情報提供書を依頼するも全ての受診している全ての診療科の診療情報提供書を一回の依頼で入手することは難しく、数回も足を運んで、依頼をして全ての診療科の診療情報提供書を入手することができた。
無駄な時間を使って、医科大学付属医療センターに依頼して入手できたとの思い込みだけが増幅してしまった。
それから、大学付属病院に転院ができて、受診をしていたところ主治医となった医師から「リハビリをしなければ回復するものも回復しない」・「もっと早期にリハビリをしていれば・・・・・・」などの回答があり、リハビリ専門病院へ通院してのリハビリ実施を勧められ、一度は諦めかけていた回復へ向けた一歩を踏み出し始めることができた。
それまでの間に、毎日、食事をすることで手先の筋力が回復したのか?食器を手に持って箸を使い食べられるようにまで回復して、話すことには、まだ呂律が完全に廻らない状態であったが、毎日、話を嫁さんなどと話をしているためか?ある程度まで呂律も回復してパントマイムもせずに話せるまで回復して、電話をした相手先にも話が通じるようにもなってきた。
たいへん嬉しいことであり進歩した証拠でもあると思う。
しかし、リハビリ専門病院でリハビリをしていても歩くことは多少回復できても、小走りに走ったりすることはできず、ただ淡々と真っ直ぐに歩ける状態を維持しているだけなので、また、日々の努力をして改善させるしか方法は無いとも考え思う日々が続いた。
ある意味で、本当に豊臣秀吉は一夜にして城を築けたのか?不思議ではあるけれども、一夜で城を築くよりも、毎日、対策や工事方法などの準備に準備をして通常よりも万全な体制にして短期間で城を築いたとする説が正解だとも思うが実際は・・・・・・?タイムマシーンに乗り、その場に立ち会わない限りは、わからない気もしているし、段取りや工程なども残されている書物などを元にして何回も実験をしてみない限りは解明されないであろうとも思う。
毎日の積み重ねが大切であるとのことが、私が退院してから体験したことに関連して一夜城は毎日の積み重ねで完成できたとの意見として考えている。
・仕事に復帰できない苦痛
手術をしてから約一年間、歩くことが素直にできずに長時間立ったままの姿勢で立っていることもできず、全く今までの仕事ができない状況で、この際、思い切って転職を考えたがパソコンも上手く使えずに歩けないため、他の職業への転職も難しく、仕事へと復帰できない苦痛は続いしまっていた。
その間に、昔からの知り合いから在宅でパソコンを使って図面を書く仕事をいただいたが、うまくパソコンの操作ができずに以前と同じ感覚で図面を書けずに完成させるまで時間が多く必要となり思うように書けずにイライラが積もるばかりで、図面を書く度に、嫁さんなどの家族に対しての八つ当たりも増して日常茶飯事となり、図面の納期には間に合わないなどの問題が続出してしまい、相手先に迷惑をかけてしまうこととなるため、図面を書く仕事をすることはお断りをして、これから図面を書く仕事をして行く気力も無くなり私は図面を書く仕事を諦めてしまった。
それから、仕事もできず、趣味であるもプラモデルの製作もできず、さらにクロスステッチ刺繍もできず、気力だけが減退してしまい、暇で何も考えることの無い日々を過ごして、パソコンだけが楽しみとなりパソコンを不自由な手と目を使い検索していると、ふと自殺に関する言葉を検索してしまった。
その時に、生きてゆく価値が無いと私が自ら判断して、嫁さんなどの残されてしまう家族の心情まで考える余裕も無くなって、ネット検索を使いながら色々と自殺方法などを検索していると感電自殺の項目に辿り着いて、自殺することだけが頭に残って自殺を実行するために必要な、準備を自宅に有る材料を集めて決行してしまった。
この場で準備する材料や方法などは、抵抗があるために書くことは避けたいが、決行する日を決めて用意した材料を使い実行してしまうと、私は感電による心肺停止状態となり、嫁さんに心肺停止状態で横になり倒れている私の姿を直ぐに発見されてしまった。
急いで嫁さんが、救急車の要請をして到着して、到着した救急隊員がAED(自動体外式除細動器)を使用した応急手当を行い、心肺停止状態から蘇生をさせていただき、そのまま救急病院に搬送されて一命を助けられる。
しばらくは救急病院で経過を看てから、経過良好との診断がされると、そのまま直ぐに精神科専門病院への入院となってしまった。
精神科専門病院では、自宅で過ごしている以上に、パソコンも見ることができないなどの暇で退屈日々が続き、食事をして服薬をするだけの日々を過ごして、数日間私なりに暇に耐えていると、精神状態が良好になったとの精神科専門病院の主治医の診断により退院をすると、退院の祝いどころか怒りに満ちた嫁さんをはじめとした家族からの対応を受ける結果となってしまう。
それから、しばらくは嫁さんの監視下で自殺未遂に対する反省をする日々を過ごすことになっていると、私の頭の思考回路が、自殺などと考えたのが失敗だったことと、他のことまでを広く考えれば良かったとも考えられるように心情が変わってきた。
それから、冷静になった頭でパソコンを検索すると、自殺には成功したが他人まで巻き添えをしてしまった事件や自殺をして未遂に終わり救命された場合などに身体には麻痺などが生じてしまう後遺症により、今まで以上に苦しい結果を招いてしまった事件などと遺族の方の悲しみを、多く目にするようになって、これから残されている人生は寿命までは楽しく生きなければならないとも前向きな方向に考えられるようになった。
私が考えたひとつの案は、頭は回転しているため、頭を使い何かできることがあるか考えると、頭を使って、何か文章でも書くことができれば幸いであるとも考えることができた。
そこで、手で文字を書くことができないのであれば、パソコンを使いパソコンの画面設定を大きく見えるようにして、キーボードやマウスなどの操作も食事の時に手で箸を使い食べられるようにまで回復したことから、日々の積み重ねをすれば、通常の人よりも遅いながらも使えるようになるとも考えられる方向にまで頭の中と気持ちが変化しました。
【最後に】
病気を発症してから手術時の麻酔により寝ている間に見た夢で楽しかった思い出とともに・・・・・・。
夢の中での物語が長くなりましたが、手術前に味わった背中の苦しさよりも、楽しい夢を見ていました。
それらの思い出を徐々に頭の片隅から思い出しながら、この章を書いた次第です。
人生は楽しい思い出ばかりではないと思います。
何か困ったときには出口が用意されていると思います。
出口を探すことに集中すれば必ず出口の扉があります。
出来ないとのことで諦めることは簡単なことだと思いますが、出口の扉を見つけることも楽しいことです。
これからの人生の試練に負けずに過ごしていただければ幸いです。
何が、あっても出口の扉に向かい出口の扉を開けて進んでくださ
夢の中の幸せ @gon0472
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