第3話「花火」
友人の借金の肩代わりに、僕は借金取りから半ば強制的に、間借りというバイトをさせられる事になった。
曰く付きのこの物件に1年間住むことにより、宅地建物取引業法である、告知義務を解消するためのバイトだ。
最初はどうなる事やらと、不安な日々を送っていたが、そんな生活も、早くも一ヶ月がたった頃。
その日バイト先の喫茶店で、夜勤帯の先輩から花火を貰った僕は、これをどう処分するか悩みながら帰宅していた。
「先輩、これ絶対処分に困って僕にくれたんだろうな、はぁ……」
黄昏荘のボロ看板を見つめながらため息をつき、僕はアパートの中に入った。
埃っぽく澱(よど)んだ空気に顔をしかめながら、階段を登っていると、
「学生さん……」
不意に上から聞こえた艶のある声。
見上げると、明滅する電球の明かりに照らされ、二階踊り場に腰掛ける女性の姿があった。
「あっ……小夜子さん」
思わず名前を呼んで僕は軽く頭を下げた。
暗闇から浮かび上がる、白く透き通ったような肌と、人形の様に整った顔立ち。
見慣れた黒のロンT姿のこの女性こそ、僕が住む曰く付き物件の管理人、小夜子さんだ。
「お帰りなさい、学生さん」
くすりと妖しい笑みを浮かべる小夜子さん、それを下から見上げる僕。
ショートパンツから垣間見得る艶めかしい太ももに、思わず目がいってしまう。
「た、ただいま……です」
気恥ずかしさから目を逸しながら言うと、小夜子さんはまたもや小さく笑みを零した。
「今日も暑かったね……」
「そう……ですね、ニュースでも異常気象だとか言ってました」
連日容赦のない暑さが続いていた。まだ七月だというのに、先が思いやられる。
「あら?それ」
そう言って小夜子さんは、僕が手にぶら下げていた花火を指さして見せた。
「あっこれですか?バイト先の先輩から貰ったのはいいんですけど、この歳で一人花火もどうなんだって、はは……」
苦笑いを浮かべ、僕は頭の後ろを掻いて見せた。
「一緒にする?花火……」
「えっ……」
突然の小夜子さんの申し入れに、僕の頭が思わずフリーズしかけた。
「私とじゃ……嫌?」
「い、いやいやいやいやいや!ああっ嫌じゃなくて、しし、したいです!小夜子さんと……花火!」
「ふふ……じゃあ夜十時、屋上で、鍵は開けておくから、いい?」
「は、はい、大丈夫です」
僕の返事に小夜子さんは頷くと、立ち上がりお尻をパンパンと軽く叩いてから、踊り場から去って行ってしまった。
「よし!」
思わずガッツポーズを取り、心の中で先輩ありがとう!と叫んだ。
普段は面倒臭い事ばかり押し付けてくる嫌な先輩だったが、今だけは心から感謝を述べたい。
僕は興奮冷めやらぬ内に部屋に戻ると、シャワーと簡単な夕食を済ませ、約束の時間になってから、花火を持って部屋を出た。
三階四階と階段を上って行くと、やがて屋上の扉の前までやってきた僕は、いつもは施錠されているドアノブを手に取った。
──ガチャ
鈍い金属音と共に屋上の扉を開くと、ビルの隙間風が、開いた扉目掛けて吹きこんでくる。
屋上に出てすぐに扉を締め、振り返った。
両端を大きなビルに囲まれているため、どことなく吹き溜まりになっているように見えたが、思ったより屋上のスペースは広い。
辺りを見回すと、中央端の手摺に立ち、外を眺める女性が一人立っている。
小夜子さんだ、けれど……。
「あら、今晩は学生さん……どうかした?」
「あっ……いえ!な、何でもないです」
思わず小夜子さんの姿に、僕は見とれてしまっていた。
目の前にいる小夜子さんはいつものロンT姿ではなく、浴衣を着ていたのだ。
シックな紺色に大輪の椿の花をあしらった、どこか品のある和服衣装姿に、僕の目は釘付けになっていた。
「そんなにジロジロ見られると、ちょっと恥ずかしいんだけど……」
「ええっ!あ、す、すみません!見ません!いや見たいんですけど見ないというかその」
「くすくすくす……あはははっ」
突然、小夜子さんが身を捩(よじ)らせながら笑いだした。
「え?ええ?」
「ご、ごめん、学生さんの反応っていっつも大げさだから、何だかおかしくって、ふふ、ごめんね、さあほら、そこ座って」
小夜子さんみたいな人を目の前にしているんだから、この反応は仕方がない……と思う。
僕は目のやり場に困りながらも、小夜子さんに言われるまま、予め用意されていた折りたたみの椅子に腰掛けた。
横には木製の丸テーブルまであり、ビールと枝豆まで用意されている。
「ああ、何か色々と用意してもらっちゃってすみません、こういうの本当は僕が用意しなきゃいけないのに……」
「気にしないで、私の方から誘ったんだからさ、ほら花火貸して」
「あ、はい……ん?」
申し訳なく思いながら花火を小夜子さんに渡した、その時だった。
小夜子さんの背後にそびえ立つビルの屋上に、一瞬だが人影のようなものが見えた気がした。
「どうしたの?」
「あ、いや、あのビルの屋上に何か見えたような気がして……」
「ふ~ん……はい、これからしよ」
気のせいかな……緊張しているせいなのかもしれない、そう思う事にし、僕は小夜子さんから手渡された花火を手に持ち、用意した蝋燭で花火に火を灯した。
懐かしい、花火なんて最後にしたのは何時だろうか。
バチバチバチと独特な音を立てながら、花火の先端から色とりどりの光の線が飛んだ。
小夜子さんも楽しそうに、手に持った花火をユラユラと揺らしたりしている。
来てよかった。
ふとそう思った時、僕の視界の隅、さっきのビル屋上に、またもや動く人影が映り込んだ。
やっぱり誰かいるのか?
そう思い、暗闇にジッと目を凝らす。
雲間からさす月明かりが、程よく辺りを照らし始める。
瞬間、ビルの屋上に人影が揺らめく。
やっぱりいた、人だ。白っぽいネグリジェみたいなものを着た、女性の姿……。
「嘘だろ……」
思わずそう言って、僕は反射的に立ち上がった。
女性は明らかにフェンスを越えて、ビルの淵側に立っていたのだ。
まさか飛び降り!?
「小夜子さん、ビ、ビルの屋上に人が立ってます!飛び降りかも!?」
大きな声を上げ指差すと、小夜子さんは振り返り、ビルの屋上を見上げた。
「人何て……いないよ?」
「えっ?」
返ってきた返事に驚き、もう一度ビルの屋上に振り返る。
月が雲に隠れ暗くてよく見えない。
だが確かに、人影も何もないように見える。
隠れてしまったのか?
もう一度よく目を凝らしたが、やはり誰もいなさそうだ。
「す、すみません、見間違いかな……」
頭を捻り小夜子さんに軽く頭を下げる。
「気にしないで、ほら、続きしよ」
「は、はい……」
小夜子さんの言う通りだ。
せっかくのまたとないチャンス、今日という日を無駄にしないためにも、この時を楽しまないと損だ。
気を取り直し、僕と小夜子さんは花火を再開した。
差し入れてくれたビールを飲み、たまにツマミを口にしながら、他愛もない話に花を咲かせ、僕らは花火を楽しんだ。
時折吹く心地よい夜風と、子供の様にコロコロとした笑みを零す小夜子さんの横顔、何ともしれない、良い気分だった。
「次が最後かな……あっ線香花火、私、これ大っ嫌いなんだよね……」
「えっそうなんですか?」
「うん、だってさ、終わり方が寂しいじゃない、最後に落ちる時何か、もう終わっちゃうんだって……ね」
「なるほど」
線香花火が可愛くて綺麗だ、とかはよく聞くが、大嫌いと聞いたのは初めてだ。
でも確かに言われてみると、燃え尽きて落ちる様は、どこか寂しさを感じるのかもしれない。
「どうします?」
袋から線香花火を取り出し小夜子さんに聞いてみた。
「いいよ、しよ」
「じゃあはい、どうぞ」
そう言って、僕は線香花火を小夜子さんに手渡した。
先端を蝋燭の火に灯すと、やがて小さくシュワシュワと音を立て始める。
ぷくぷくと震えながら、線香花火の玉がぷっくりと膨らんだ。
花火の頼りない明かりが、青白い小夜子さんの横顔を照らしている。
来て良かった、本当に。
そう思いながらも、僕はやはりさっきの人影がふと気になった。
見間違いであればいい……。
視線をゆっくりとビルの屋上に向けた、その瞬間。
「えっ?」
僕の視線の先、ビルの淵側から人が、ふらりと落ちた。
まるでスローモーションのようにゆらりと。
手から、線香花火がコンクリートの床に落ちた。
僕はそれを拾いもせず、気が付くと、女性が落ちたであろう場所に、無我夢中で駆け寄っていた。
「はぁはぁっ……」
「どうしたの?」
後ろから呼ぶ声、
「ひ、人が!今人が落ちたんです!ああ、あのビルの屋上から!」
そう言いながら辺りを見回す。
落ちた先には、何も無かった。
いや、考えてみれば音すらしていない。
あの場所から飛び降りれば、間違いなくこのアパートの屋上に落ちてるはず。
飛び降りる瞬間は見た。けれどその先は?
確認できていない……どういう事だ……?
愕然としながら、整理できない頭の中を必死にまとめようとするが……だめだ、こんなのまとまるわけが無い!
何なんだ今のは!?
今のが見間違いだっていうのか?
そんなはずは……。
そう思った時だった。
背後から、小夜子さんの声がボソリと聞こえた。
「人何ていないって……言ったでしょ?」
「えっ……?」
小夜子さんの方に振り返る。
コンクリートの床にしゃがみこむ様な姿で、此方を見ている。
手に持った線香花火が、パチッ、パチパチッ、と掠れるような音を発して、ふっと落ちた。
同時に、後ろから生ぬるい風が吹く。
蝋燭の火がふっと消え、月明かりが叢雲に覆われてゆく。
辺り一面が闇夜に沈んだ。
「さ、小夜子……さん?」
暗闇に声を掛ける。
「そう言えば今日、麻衣ちゃんの命日だったの、忘れてた……」
「麻衣ちゃん……?命日って?」
一体小夜子さんは何の話をしているのだろう?
「うん……前にこの黄昏荘に住んでた子……沢山いなくなっちゃったから……もう色々と忘れちゃってた……」
いなくなった……?小夜子さんは、一体何を言ってるんだ?
だいたいさっきの、人何ていないって……つまりそれは……人じゃないって……事……。
考えれば考えるほど、目の前の闇と、心の中に広がる闇が、どんどん大きくなっていくような気がした……。
「ねえ、学生さん……?」
小夜子さんの声、その声に、僕は歩み寄った。
「な、何ですか?」
歩きながら返事を返す。
目が一向に暗闇に慣れない。
声だけを頼りに歩く。
「学生さんは、居なくならいよね……?」
「何を言ってるんですか、僕は、」
言いかけた瞬間、月明かりが一瞬だけ、小夜子さんの姿を捉えた。
いや、小夜子さんだけではなかった。
その背後には、さっき見た、ネグリジェの女……他にも何かいる。けれどそれはよく分からない。真っ暗で、ぐにゃぐにゃと蠢く何か……。
どすんという音と共に痛みが走った。
気が付くと、僕はその場で尻もちをついていた。
その体制で何か言おうとしたが、うまく口が回らない。
カチカチと、口からは歯音が鳴り、そこで僕は、初めて自分が震えている事に気が付いた。
「居なくならないでね、学生さん……」
僕を見下ろし近付く小夜子さん。その背後には一人、二人、三人と、闇に蠢く人影が、小夜子さんにまとわりつくように、群れをなしていた。
その瞬間、僕のか細い意識は、途絶えた……。
しばらくして、僕は心地好い感触に目が覚めた。
ふと、目を開けると、小夜子さんの顔を下から眺めるような視界に気が付いた。
膝枕……?
頭の感触は、どうやら小夜子さんの膝の上だったようだ。
何となく気不味く、僕は薄目をして寝たふりをした。
「……」
突然、真上から鼻歌が聞こえた。
小夜子さんだ。
聞き覚えがある唄。
かごめかごめだ……。
かごめかごめ、かごのなかのとりは、いついつでやる、よあけのばんに、つるとかめがすべった、うしろのしょうめんだーれ。
薄めの視界の先に、かろうじて見て取れる小夜子さんの目元から、冷たい水滴がぽつり、と、僕の頬に落ちた。
泣いている……のか?
なぜ、さっき僕にあんな事を言ったのか……なぜ……彼女は泣いているのか……。
今はそれを知る術(すべ)がなかった僕は、目を閉じ、小夜さんのもの悲しげな、かごめの唄に、そっと、耳を澄ませた……。
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