第2話「足音」

 前回、借金取りから紹介された間借りのバイト(事故物件告知義務解消のバイト)で訪れた僕の新たな新居、黄昏荘。


ここに移り住んでから、早くも二週間が経とうとしていた。


住めば都……とは、やはりまだ言い難いものがあるが、今の所事故物件というその本質に迫る様な出来事には、あってはいなかった、その日の夜までは……。


その日は初夏に似つかわしく、蒸し暑い夜だった。


急激な喉の渇きに目が覚めた僕は、冷蔵庫から飲みかけのペットボトルを取り出し、一気に喉に流し込んだ。


ひんやりとする喉越しに涼を感じていると突然、階段を駆け上る足音を耳にした。


暗がりに慣れてきた目で何とか時計の針を確認すると、時刻は午前二時。


引っ越しの挨拶など満足にしていない僕は、このアパートに住む住人の事などほとんど知らない。


まあ唯一知っている、ここの四階に住む管理人さん、小夜子さんを省いてだが。


「夜勤帰りかな?」


などと呟いていた時だった、階段を駆け上がる足音は、二階の踊り場で一旦立ち止まると、そのまま部屋の前までやってきた。しかも足音は、信じられない事に僕の部屋の前で止まったのだ。


「うそ……」


思わずドアノブの施錠を目で確認する。


よし、大丈夫だ。


僕の心配を他所に、ドアには何のアクションもない。


ドアガチャされるかとも思ったが、どうやら取越し苦労のようだ。


かといって、ドアまで開けて確認する勇気は持ち合わせていない。


何せここは借金取りと管理人が、名実ともに認める曰く付き物件だ。


結局その日は確認する事もなく、僕は隠れるように布団に潜り込んだ。


次の日の朝、玄関周りを確認してみたが、何やらイタズラされている様子はなかった。


一応郵便ポストも確認したが、妖しい街金の広告チラシぐらいしか入っていない。


「誰が借りるか……」


と呟くと、僕はチラシをくしゃくしゃに丸め、大学へと向かった。



講義も終わり帰宅する途中、友人Cとマックに寄った時の事だ。


「そういえばお前、今事故物件に住んでるんだろ?何か怪奇現象とか起こってないの?」


冗談交じりに笑みを浮かべたCが聞いてきた。


ハンバーグにかぶりつき思い出すように頭を捻ると、僕は昨夜あった事を、何となくCに話してみる事にした。


「へぇ、夜中に足音が玄関前にねぇ……」


「うん、イタズラとかもされてなかったから何も被害は受けてないんだけどね」


「でも玄関前で止まるのって、何か嫌だな」


「でしょ?気になって正直あんまり寝付けなかったんだよ」


「ああ、だからお前今日講義中に船漕いでたのか、教授、お前の事睨みつけてたぜ?」


そう言ってCはシェイクを飲み干しながら陽気に笑っている。


「笑い事じゃないよ……ただでさえあの授業の単位やばいんだからさ……そうだ!」


「ビ、ビックリした、何急に?」


面食らった顔のCに、僕は両手で拝むような格好で、


「頼む!今日うち泊まりに来てくんない??」


「えっ?お前んちに?」


「マジでお願い!一人じゃ何か確認しずらくってさ」


「んん、足音の主ねぇ……まあいいけどさ、じゃあ事故物件で宅飲みでもすっか」


あっけらかんと言うCに、僕は安堵のため息をついた。


持つべきものは友。と言いたいところだったが、その後の酒代はつまみから何まで全部奢らされる羽目になった。


持つべきものは一体何だと胸の内でぼやきながら、僕らはアパートへと向かった。



「見た目は事故物件っていうだけあってヤバそうに見えたけど、中はけっこう良いじゃん。風呂トイレ付きでこの広さとその家賃なら、この辺りの相場なら良物件だよ」


アパートに戻った僕らは、コンビニで買った弁当とつまみを適当に口にしながら、雑談に興じていた。


缶ビールも三缶目に突入。


「あのなぁ、そう簡単に言うなよ、これでも初めはいろいろあったんだぞ」


そう言って、僕はコンビニ袋から取り出した未開封の煙草を取り出し、その銘柄を見て、以前話した、初めて小夜子さんとあった時の事を思い出した。


メンソールが苦手だった小夜子さんが、口に咥えた自分の煙草で、僕にシガーキスをしてくれた日の事を……。


「おっ?何、お前煙草代えたの?メンソールじゃなかったっけ?」


鋭いな。彼女が髪切ったって話でもあるまいに。


そう思いつつ、開封した煙草を一本手に取り口に運んだ。


「何だ?怪しいな、恋でもしたか?」


ニヤついた笑みで聞いてくるC。こいつエスパーか?


「あ、アホか、別に何もないよ……」


慌てるせいか、ライターの火がうまくつかない。


「そういや管理人がいるって言ってたよな?さては……美人だな?」


ズバリ言うCの言葉に、思わず口に咥えた煙草がポロリと落ちた、その時だ。


──カツンカツンカツン……。


足音だ。


僕とCはハッとして互いに顔を見合わせた。


「い、今のか……?」


Cの焦りの声に、僕は黙って頷いてみせた。


足音は二階の踊り場で一旦止むと、方向転換から一気に僕の部屋の前までやってきた。


静まり返る部屋。


ゴクリ、と、唾を飲み込む音だけが、やけに大きく響いた。


するとCがその場で立ち上がり、玄関までいきなり歩き出す。


突然の事に唖然としていると、Cはドアに体を擦り寄せ、円筒の小さな穴に顔を近づけ、そこに目を細めた。


そうか、ドアスコープがあった。それならドアを開けなくてもいい。


我ながらなぜそこに気が付かなかったのかと思ったが、今はそれどころではない。


何か見えたのか、それが気になって何度もドアとCの様子を交互に見回す。


余りにその時間が長く感じた僕は、いつまでもドアスコープを覗くCにたまらず声を掛けた。


「何?何か見えた?」


するとCはドアスコープから顔を離し、僕の方に向き直ると、お前も見ろといわんばかりに顎をしゃくってみせた。


仕方なく立ち上がると、促されるままドアスコープに目を近付けた、その瞬間、


「わっ!」


「うわぁぁっ!!」


突然耳元で言われ、僕は叫び声をあげながら玄関で尻餅をついた。


「はははははっ!驚きすぎ、近所迷惑だぞ」


言いながら笑うCが、座り込む僕に手を差し出す。


「あのなっ!」


冗談にも程がある。僕はCの手を乱暴に取ると立ち上がり、もう一度ドアスコープに目をやった。


「誰もいねえよ、見えない幽霊かもな」


背後からCがそっけなく言った。


確かにCが言うように誰もいなさそうだ。潜んでいる様子もなかった。


かといってドアを開けて確認したいとは思わない。


一人思い悩んでいると、Cは背伸びをしながらテーブルへと戻り、飲みかけのビールを一気に飲み干した。


僕は見えないドアの向こう側に後ろ髪を惹かれながらも、冷蔵庫から缶ビールを二缶取り出し、部屋へと戻った。


結局その後は、酔っ払ったCが「管理人さんも呼んで飲み直そうぜ!」と訳の分からない事を言いだしたので、しこたま飲ませて酔い潰させた後に、部屋で二人雑魚寝した。


次の日は大学もバイトも休みだったため、僕は二日酔いでダウンしたCを駅まで見送った後、コンビニで軽く買い物をした後に帰宅した。



その日の夜、僕は再び夜中に目を覚ました。


喉が乾いて、ではない。


夢だ。


薄暗い部屋、この部屋だった。


僕は手にダンボールを持っている。


それをせっせと外に運び出し、下に停めてある車へと運ぶ。


往復している間、僕は誰かの視線に気が付き、アパートの前の電信柱に目をやる。


女の子だ。


昔流行った、日曜の朝にやっていたアニメのTシャツに水玉のスカート。


夢なのにやたらと鮮明に見える。


少女は僕の姿をジッと電柱の影から目で追っていた。


虚ろで、濁った様な廃色の目。


口をポカンと開けて、少女は僕をずっと見ていた。


やがて車で去ってゆく僕。


バックミラーで電柱を確認する。


いない、少女の姿は写っていなかった。


その瞬間、


──ドン!


車が何かを跳ねた。大急ぎで車を停める。


降りて慌てて辺りを確認すると、少女だ。


先程僕を目で追っていた少女が、車の前で倒れうずくまっている。


額が割れそこからどす黒い血が滴り落ち、地面に真っ赤な水溜りを作っていた。


腕はあらぬ方向に曲がっている。


すると、少女は肩を震わせゆっくりと顔を上げた。


少女は……笑っていた。


目を張り裂けんばかりに充血させ、口元を大きく歪ませて、僕に笑いかけていた。


夢は……そこで覚めた。


生々しい夢だった。


思わず洗面台に走り蛇口を捻る。


流れ出る水をすくって思いっきり自分の顔に浴びせた。


ひんやりとした空気が顔を包み、一気に目が冴えていく。


そっと自分の胸に手を当ててみる。


どくどくと、いつも以上の速さで鳴っているような気がした。


タオルを手に取り顔を拭いていると、


──カツンカツンカツン……。


まただ、あの足音。


急激に寒気がした。


今しがた見た夢と、何かがリンクしそうで怖かった。


足音はやはり僕の部屋の前で止まった。


息を殺しドアに近づくと、ドアスコープにそっと顔を寄せる。


外を確認するが、やはり玄関の前には誰もいない。


ドアを開けてみようか迷ったが止めておいた。


昨夜ならいざ知らず、今日は一人だし、何よりさっき見た夢の件もある。


僕は後退りしながら、布団へと戻った。



結局その日もほとんど眠れずに大学へ行くはめになった。


講義中、これでもかといわんばかりの教授の咳払いが聞こえたが、無視して僕は机に突っ伏した。


フラフラしながら帰宅しようとした僕にCが、


「もしかしてまだアレ続いてんの?もしそうなら俺の方でも何か調べとくけど?」


声を出すのも辛かった僕は、無言のまま頷いて、その場を後にした。


バイト先にも休みの連絡を入れ、その日は真っ先に帰宅した。


またあの時間に起こされる気がしたからだ。


だったら早めに寝れば睡眠不足ぐらいは解消できる。


部屋に着くと、僕は着の身着のまま、倒れるようにして布団に突っ伏した。



どれぐらいたっただろうか、不意に、聞き慣れた音が耳に入った。


──カツンカツンカツン……。


飛び跳ねるように布団からお起きた。


瞬時に玄関を向いて身構える。


きた……。


念の為部屋の明かりを付け、そっと扉に忍び寄る。


──カツンカツン……・


踊り場から真っ直ぐこちらに向かってくる。


間違いない。


近づく足音。


──カツン……。


部屋の前で止まった。


今だ。


ドアスコープを覗く。


人影だ。


やっぱり誰かのイタズラ!?


──ピンポーン


「うおわぁっ!?」


突然鳴り響く部屋のインターホンに、僕は盛大にその場ですっ転んだ。


「いててててっ……」


しこたま打ち付けた背中をさすっていると、ドアの向こう側から、


「学生さ~ん?」


聞き覚えのある女性の声。


「は、はい!いい、今開けます!」


慌てて立ち上がり、鍵を開けドアを押し開く、やっぱりだ。


「今晩は、学生さん……」


そう言ってドアから顔を出したのは、短めの黒髪と端正な顔立ち、半袖黒のロンTを着た、この事故物件の管理人、小夜子さんだ。


見た目こそ若いが、そのいいしれぬ妖艶な雰囲気は、僕よりも大人の女性といった印象を受ける。


そんな小夜子さんが、何故か片手に持った六本入の缶ケースを持ち上げ、玄関の前で僕を見てニヤリと笑っている。


「ええと……」


言葉に迷っていると、


「上がっていい?」


「えっ?あ、いえ、じゃなくて……は」


「お邪魔しま~す」


言い終えるよりも先に、小夜子さんは俺の横をすり抜けるようにして部屋に上がってきた。



とりあえず鍵をかけ直し部屋に戻ると、小夜子さんは持参した缶ビールをテーブルに置いて座っていた。


「さっき買い物してたらくじ引きで当たっちゃってね、そういえば学生さんの引っ越し祝いまだだったなって思って、はいこれ」


そう言って僕に缶ビールを手渡してきた。


「あ、ありがとうございます、て、ていうかこんな時間に買い物ですか?」


そう言って時計を見るが、僕の予想とは違い時刻はまだ午後十一時だった。


「あれ、まだこんな時間だったんですね、てっきり足音が聞こえたからもう夜中だと」


「足音?」


小首を傾げながら、小夜子さんは聞き返してきた。


「あっ……いやその、騒音というか何というか……霊現象、というか……」


霊現象……自分で言うのも気が引けたが、僕はハッキリとそう口にした。


前回の話ではあるが、僕はここを初めて訪れた時、明らかにおかしな体験をした。


この世にはいない、見てはいけない者の存在を、この目で確認してしまったのだ。


今目の前にいる、この小夜子さんと一緒に。


「何かあったの……?」


僕の顔を覗き込むようにして聞いてくる小夜子さん、突然の至近距離に思わず前回のシガーキスを思い出し、気恥ずかしさから僕は視線を反らした。


「ん?」


きょとんとする小夜子さんに向き直り、僕は咳払いをしつつ心を鎮める。


待てよ……案外こういった話は小夜子さんの方が詳しいのかもしれない。餅は餅屋に聞けというじゃないか。


「あ、あの……小夜子さん、実は、」


僕は思い切ってそう切り出すと、ここ最近頻繁に起こる現象について、小夜子さんに全て話す事にした。



「足音ねえ……」


話し終えた後、小夜子さんは呟くように言った。


僕はそれに黙って頷く。


「つまりその足音の持ち主が知りたいって事?」


「ま、まあそうなんですけど、できればやめさせたいというか、やめてほしいというか、」


「ふ~ん、じゃあ確かめてみるしかなさそうね」


「た、確かめるって簡単に言いますけど、ドアスコープ覗いても誰もいないんですよ?隠れてるわけでもなさそうだし、足音しかしないんです、そんなのどうやって確かめるっていうんですか?」


相手は透明人間のようなものだ、ペンキでもぶっかけて捕らえるとでも言うのだろうか?


頭の中で想像してみて何だかアホらしくなってくる。


「まあ、とりあえずは待つしかないよね、お楽しみはそれからって事で」


そう言うと、小夜子さんは持っていた缶ビールで乾杯の振りをし、そのまま口へと運んだ。


他人事だと思って……何となくやけになった僕は、同じように乾杯の真似をしてビールを喉に流し込んだ。



しばらくして、


「もうそろそろね……」


「えっ?」


思わずテーブルから顔を上げた。


どうやら缶を握ったままウトウトとしていたらしい。


小夜子さんに言われて、僕は目元をこすりながら時計に目をやった。


時計の針は、間もなく午前二時を指そうとしていた。


その時だ、


──ブブーッ、ブブーッ


規則的な機械音と共に、テーブルに置いてあったスマホが明滅した。


着信ではない、LINEだった。


開くと、メッセージの主はCからだった。




────────────────────────


そのアパート、調べたらキリがないぞ、

マジでやばいから、悪いことは言わない

直ぐに引っ越せ!

                    

────────────────────────

午前2:00


「Cの奴、何だって急にこんな」


そういえば今日、大学の帰り際、Cが少し調べてみるとか言っていたような……。


「きた……」


突然、小夜子さんがぼそりと言った時だった。


──カツンカツンカツン……。


あの足音だ。


咄嗟に小夜子さんの方を見ると、もう既にドアの方へと向かっていた。


慌てて後を追おうとしたその瞬間、



──ブブーッ──ブブーッ


またバイブ音だ。


画面通知にはCの名前が。


「こんな時に何なんだよC……の……」


画面に表示された内容を見て、僕は思わず、言葉を失ってしまった。


「嘘……だろ……」


ようやく絞り出した僕の声は、僅かに震えていた。



────────────────────────



その部屋で女の子が殺されてる。

犯人は誘拐する際に、女の子を車で跳ねて拉致ったらしいんだけど、部屋に連れて帰った時には

もう女の子が死んでたらしくって、怖くなって死体をバラバラにして捨てたらしい。

でも足だけが、いくら警察が捜しても見つからなかったらしいんだ。

犯人も途中から気が狂った振りをしたのか、警察がいくら追求しても 

話さなかったみたいだ。

ここまで話せばもう分かるだろう?

何でドアスコープ覗いても誰もいなかったか、あれはいなかったんじゃない、見えなかったんだ。

だってあのドアスコープ、足のとこまでは見えないだろ?

いいか?絶対にドア開けて確認するなよ?黙って直ぐに引っ越せ。

                                           

────────────────────────

午前2:01


あの夢……。


そう、昨日見たあの生々しい夢。


僕が、夢の中で跳ねてしまったあの少女……。


いや、あれは犯人の視点だったんだ。


車の中に運び込んでいた、少女の体を……それを……それを少女は訳も分からず見ていたんだ……。


──ガチャリ


不意に、ドアの開く音がした。


玄関に振り向くと、ドアを押し開く小夜子さんの後ろ姿が見えた。


「小夜子さん!!」


思わず叫ぶように呼んだ。


が、小夜子さんはこちらに見向きもせず、黙ったままドアを押し開いた。


ドアが開く。


半開きのドア。石段と扉の段差の隙間に、僅かに見える……か細い足。


瞬間、背後にドサっと鈍い音がした。


グチャッと、何かが歪な音を立てる。


振り向くと、そこには両手両足を失った、血だらけのあの少女の頭と胴体が、横たわっていた。


血の水溜りに沈むようにして。


そして僕を見つめ……いや、背後から足音と共に迫る両足を、少女はジッと見つめながら、口を大きく広げ……絶叫した。







「学生さん、学生さんってば」


「んんっ?」


肩を揺さぶられ、僕は顔をしかめながら目を覚ました。


カーテンの隙間からは明るい日の光が、僅かに漏れている。


外からはおはよう、と、近所の人が挨拶を交わす声が響いていた。


チュンチュンと、窓側で鳴く鳥達が羽ばたく音で、ようやく僕の意識は覚醒した。


昨日のあれは……思い出した瞬間、僕はトイレに駆け込んでいた。


嗚咽を繰り返し思う存分もどした後、僕は顔を洗い、部屋に戻った。


小夜子さんは……まだ居た。


「あの、僕、昨日は……」


「あの子、自分の足見つけたみたい、もう大丈夫だと思うよ、多分ね……」


「は、はあ……」


僕は釈然としないながらも、小夜子さんに短く返事を返した。


いや、むしろこのまま小夜子さんに契約を解消を伝え、今すぐこの部屋から出て行きたいとさえ思った。


だがそうなると借金が……。


現実と非現実の堺で板挟みに合うとは……もはや何もかも捨てて逃げ出したい気分だ。


「学生さん、よく頑張ったね、ご褒美」


「えっ?」


ご褒美?そう思った瞬間だった。


鼻孔をくすぐる良い匂いと共に、僕は柔らかくも温かい何かに包まれていた。


それが、小夜子さんに抱きしめられているという事だと、僕の脳が気付くのに、かなりの時間を要した。


正確には、両手で頭を抱き寄せられている、が正しいのだが、そんな事はもはやどうでも良かった。


「じゃっまたね、学生さん」


そう言って、小夜子さんは僕から手を離し立ち上がると、玄関へと歩き出した。


慌てて後を追い玄関まで見送ると、つま先をトントンと軽く鳴らし、小夜子さんは口を開いた。


「煙草、代えたんだ?」


「あ、……は、はい……」


「ふう~ん……」


すると小夜子さんは子供っぽい笑みを零しながら、ポケットから何かを取り出した。


煙草だ。セブンスター。


小夜子さんはそこから煙草を二本取り出すと、一本を自分に、もう一本を僕に咥えさせた。


「えっ?」


ドキリとした。まさか……。


小夜子さんは煙草をポケットにしまうと、今度はジッポライターを手にしていた。


火を灯し、それを僕の煙草の先端に運んだ。


モクモクと僕の煙草から煙が立ち昇る。


それを確認して、小夜子さんはジッポライターをポケットにしまった。


これはまさか……前回の……逆!?


小夜子さんは咥えた煙草の先端を、僕にわざと突き出すようにして唇を尖らせた。


こ、これは……あまりの事に、僕の頭がオーバーヒートを起こしかける。


どうすればいい?どっちが正解なんだ??


一人慌てふためいていると、


「ブーッ、時間切れ、またね、学生さん……」


「えっ……ええっ!?」


思わず言った瞬間、開いた僕の口から煙草が零れ落ちた、が、寸前で小夜子さんはそれを綺麗に拾い上げると、僕を見て小さく笑った後、それを自分の口に咥え、今度こそ部屋の前から去って行ってしまった。


呆然としながら、何とかフラフラした足取りで部屋に戻ると、僕は訳の分からない高揚感のまま、昨夜きていたCのラインメッセージに返事を打った。

────────────────────────


昨日はありがとな。

でも悪い!

しばらくは、ここを離れられそうにない。

また遊びにおいでよ。

                   

────────────────────────

午前8:00



打ち終わると同時に、僕は大学もバイトもサボり、布団の中で一日中、悶々とした時間を過ごした。



そうそう、あれ以来あの足音は聞こえなくなったが、Cからはずっと、既読無視をくらっている。

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