『黄昏荘の一時』

コオリノ

第1話小夜子

大学二回生の夏のある日。


僕はとあるアパートへの引っ越しを余儀なくされた。


家賃二万五千円。ユニットバス付きの六畳二間。


これだけ見れば好条件のアパートだが、事態はそうやすやすとはいかない。


どんな事態かといういと、それは遡ること一ヶ月前の話、僕は盛大にやらかしてしまっていた。


大学の友人Dに頭を下げられ、借金の保証人になったのが運の尽き。


ありふれた話だが、Dは姿を消し、後に残ったのは、どこの街金かも分からない強面の借金取りと、塵に積もった借用書だった。



「でだ、今日び田舎の貧乏学生から、こんだけの額、こっちも回収できるとは思ってないわけよ」


玄関越しに煙草の煙を撒き散らしながら、強面の男は僕に今月の請求書を投げてよこした。


震える手でそれを拾い、視点の定まらない目で何とか数字を確認する。


とてもいっかいの大学生に払える額ではない……。


いや、待て、今この人は何て言った?


ハッとして顔を上げると、強面の借金取りは待ってましたとばかりに、僕にこんな話を持ちかけてきた。


金が払えないのなら良いバイトを紹介してやる、普通に生活するだけで借金が返せる、夢のようなバイトがある、と。


その夢のようなバイトというのは、とあるアパートに引っ越し、一年間そこに住むだけという内容だった。


もちろん生活費や光熱費、家賃などは自分で工面しなければならない。


無論、普段なら怪しむとこだが、今は藁をも掴みたい時だ。いや、この際蜘蛛の糸でもいい。


とにかく、生活拠点を代えるだけで借金が返せる、僕にとってこんなに美味しい話はなかった。


強面の男の手を取り即答で返事をすると、引越し準備のため一ヶ月の猶予をもらい、僕は新しい新居へと向かった。


ここまでは全てが順調だった。


そう、ここまでは……。


さっきも言ったが、事態はそうやすやすとはいかなかったのだ。


それは、新居へと向かう途中に掛かってきた一本の電話。


借金取りからだった。


車を路肩に停め電話に出た僕は、そこで初めて今回のバイトとやらに激しく後悔した。


電話で告げられたのは、今回のバイト本来の目的と、その詳しい内容についてだった。


まず本来の目的とは、率直に言うと、僕が住む事になっている部屋は、ネットの怪談話やらでよく登場する、所謂(いわゆる)曰(いわ)く付き物件の事だったのだ。


そしてその詳しい内容についてだが、心理的瑕疵担保責任(しんりてきかしたんぽせきにん)という言葉を知っているだろうか?


宅地建物取引業法のルールの一つで、瑕疵とは欠陥の事を意味し、貸主には物件の欠陥を担保する責任があると定められているのだ。


世間一般的に言われるあの事故物件は、心理的な瑕疵に相当するとされている。


例えば、前の入居者が自殺をした部屋だと知らずに入居して、暮らしはじめて3カ月後に、別部屋の入居者から訳あり物件だと聞いたとする。


そこで、もし自殺があったと知っていれば入居しなかった、と判断した場合は、法律上、貸主に損害賠償を請求することができるのだ。


こうしたリスクを回避するために、法律上での告知義務が設けられているのだが、この告知義務というのが実に曖昧な制度だったりする。


一応のセーフティーラインとしては、次に住む入居者が退所した後は、この告知義務が貸し物件に限り適用されなくなる。


が、入所から退所までの期間が短いと、これに該当しないらしく、告知義務の期限としては、最低でも一年近くが望ましいとされているらしい。


最初から事故物件ですと告げるのは簡単だが、やはりそれでは借り手が見つからない。


だとしたら、何とかこの告知義務をなくす事が、貸し物件としては一番望ましい方法なのだ。


ここまで話せば分かると思うが……そう、僕が今回選んでしまったバイトというのは、今から一年間、事故物件に住まなければいけないという事だったのだ。


何があったのかも分からない事故物件に住む、これがどんなに不安で恐ろしい事か想像できるだろうか?


最後の方はもう事切れそうな程の小さな声で返事を返し、僕は電話を切った。


徐にキーを回し、死んだ魚のような目で地図を確認しながら、僕は再び新居を目指した。


車を走らせる事二十分、やがて目的地に着いた僕は、件(くだん)の物件の前で車を降りた。


コンクリートの床に初夏の光がまぶしいほど照りかえる。


ジリジリとした日差しに顔を背けながら、僕は目の前にある建物を見上げた。


鉄筋コンクリート製で築数十年といったところだろうか。


一見貸しビルのようにも見えるが、入り口には『黄昏荘』という、経年劣化で今にも落ちてきそうな看板が貼り付けてある。


周囲をビルで囲まれているせいか、部屋の内部に光は行き届いていなさそうだった。


そのせいか、建物の中はいかにもといった暗い印象。


蔦の絡まった石壁には、何やら訳の分からない落書きがのたうつように書かれている。治安も余り期待はできなさそうだ。


これなら家賃三万五千円の前の古巣の方がまだましだった……。


世の中そう上手い話は転がっていないと言ったところだろう。


半ば諦めモードの僕は、これから一年間お世話になる住まいを確認すべく、黄昏荘へと足を踏み入れた、が、


──カツン


僕のつま先に何かが当たった。


確認すると、それは箒(ほうき)だった。


「えっ?うわぁっ!?」


いつの間に現れたのか、僕の横に腰の曲がった老婆が、塵取りと箒を手に持ち、せっせと地面を掃いていた。


「あっすみません、僕今日からここに、」


と、そこまで言いかけて、僕は箒から逃げるようにして入り口の石段に飛び退いた。


老婆には、まるで僕が見えていないのか、その場で箒を一心不乱に振っている。しかも何やら独り言のようにぶつぶつと呟いていた。


そっと耳を澄ますと、微かに、


「肉……が」


と、しわがれた声が聞き取れた。


今晩の買い物か何かだろうか?とにかく何だか異様過ぎて気持ちが悪い。


ふうっと軽くため息をついた後、僕は建物の中へ入る事にした。


思った通り、中は昼間だというのに異様な暗さだ。


カチカチと音を立てながら点灯する、赤熱電球の僅かな明かりを頼りに、二階へと上がる。


窓がないせいか、陽の光も差してこない。二階へと上がっているのに、まるで地下に潜っているかのようだ。


階段を登り角を曲がると、等間隔に並んだ、塗装の剥がれた鉄製の重たい扉が見えた。


「202……202と……あった」


仲介業者から貰った鍵で、早速部屋のドアを開けようとポケットに手をやると、


「あっ……まじか……」


やってしまった。


鍵がない。


引越し用に借りた車の中だ。


仕方なく部屋を離れ、角を曲がり階段を降(くだ)ろうとした時だった。


「ねえ、学生さん……」


突如した声に、思わず足が止まった。


「えっ?」


短く返事を返す。


「学生さんってば……」


よく見ると女性が一人、暗がりの踊り場に腰掛けて此方を見ていた。


しかも一目でかなりの美人だと分かる。


髪は短く黒髪で、目鼻立ちはすぅっと通っており、切れ長の目には、妖艶な瞳が灯るように潤んでいた。


思わず息を飲むと、女性はソレを見透かしたように、クスリと小さく妖しい笑みを零した。


「学生さん、煙草一本、恵んでくんない……?」


女性は細い声でそう言うと、潤んだ瞳で見上げてきた。


「え?あ、はい、い、いいですよ……」


急に言われ慌てて胸ポケットを探り煙草の箱を取り出すと、そこから一本手に取る。


そして目の前に差し出された、女性の透き通るような真っ白な手の上に、そっと置いた。


その瞬間、


──ガシッ


突然だった。差し出した俺の手を、女性が強く掴んできたのだ。


「うわぁっ!!なっ何を??」


「くくく……あははっ」


握られた手を、驚きと恥ずかしさからか慌てて振りほどくと、それを見た女性がさっきよりも大きく笑った。


「えっ?ええ??」


もう何が何だか分からずにいると、女性は余程おかしかったのか、目に浮かんだ涙をそっと人差し指で拭ってみせた。


そしてすっとその場で立ち上がり、僕の口を塞ぐように人差し指を立ててこう言った。


「ま……とりあえずあんたが人間だって事は分かったよ」


「えっ?に、人間って」


「言った通りの言葉だよ、あんたも、ここに住むなら気をつけな」


聞き返そうとする僕の返事を待たずに、女性はそう言った。


「ちょ、ちょっと待ってください!一体さっきから何を……!?ここがいくら事故物件だからって……あっいや、」


言ってから僕はハッとなった。


会ったばかりのアパートの住人に、こんな事言ってよかったのかと。


バツの悪そうな顔をしていると、女性は僕の顔を覗き込むようにして口を開いた。


「ここに来る前、誰かに会ったかい?」


誰か?


「え?ああ、えっと、お婆……さん、玄関の前で掃除していたお婆さんが一人」


すると女性は、口元を小さく歪めて、


「あぁ……あのババア、まだやってるんだ」


と吐き捨てるような口調で言った。


ば、ばばあって……随分口が悪いぞこの人。


と、僕は胸の内でボヤいた。


「ま、まだやってるって、何がですか?掃除を?」


尋ねると、女性は軽くため息を吐いて、首を二~三度横に振ってみせた。


「三年前、このアパートの四階から、ババアの旦那さんが飛び降りたのさ、頭からコンクリートの床にズドンってね。で、その時下に飛び散った旦那の肉片を、片っ端から箒で掃いてたよ、一心不乱にさ」


「えっ……ええぇぇぇっ!?じゃ、じゃあさっきのお婆さんは!?」


「婆さんは亡くなったよ、一年前に」


「はっ、はいぃぃぃっ!?」


もう意味が分からない。さっきからこの女性は何を言ってるんだ?


混乱する僕を他所に、女性は話を続ける。


「爺さんを自殺に見せかけて殺したんだと。それがバレて警察にね。後はそのまま留置所でぽっくりだとさ。家賃も溜まってたってのに」


「あ、あの!さ、ささっ、さっきから何言ってるんですか!?自殺?殺人?だ、大体僕はさっきそのお婆さんを見たんですよ!?あそこの、」


アパートの入り口を指差しそう言いかけた時だった。


僅かに開いた入り口から漏れる外の光、それに重なるようにして、ドアの隙間からこちらをじっと見つめる人影が揺らめいた。


見覚えがあるシルエット……先程、このアパートに入る前に見た、あの老婆の姿だ。


目を凝らしジッと見つめた瞬間、ドアの隙間からこっちを見つめる、老婆の顔が……。


「うわぁぁぁっ!!」


僕は叫び声を上げ、思わず踊り場で尻餅をついてしまった。


慌ててドアに目をやるが、そこにはもう誰もいない。


代わりに、ドアの裏側には、煤(すす)けた箒と、ヒビ割れかけた塵取りがセットになって立て掛けられていた。


今のは……一体……何だ??


余りの事に呆然としていると、目の前に立っていた女性から突然、口の中に何かを突っ込まれた。


「うぐっ……!」


自分の口元を見る。煙草だ、さっき僕が渡した。


見上げると、女性は違う煙草を口に咥え、此方を見下ろしながらクスリと微笑した。


自分の煙草……持ってるんじゃないか。


心の中でそうボヤいていると、突然、女性の顔が僕の顔に急接近してきた。


えっ?ええっ?


思わず硬直していると、僕が咥えている煙草に、女性は自分の口で咥えた煙草を、そのまま押し付けてきた。


煙草の先端から、灰色の煙がもくもくと立ち昇り始める。


「悪いね、私メンソール苦手なんだ」


そう言って女性は立ち上がり、うまそうに煙を吹き出すと、真直ぐ立ち昇る煙を見つめた後、ゆっくりと階段を登り始めた。


「あ、ああ、あのっ!!」


思わずその後姿に声を投げかけた。


何を言えば、いや何を聞けば? さっきから混乱し続ける頭を抱え、何とか絞り出した僕の言葉は……。


「お、お名前……を」


明らかに間抜けな声だった。


けれど女性は立ち止まり、ゆっくりとこっちに振り返る。


「小夜子……ここの管理人だよ、今日からよろしくね、学生さん」


そう言い残し、小夜子と名乗った女性はまた階段を登り、今度こそ去って行ってしまった。


呆然とした僕はその場に一人取り残されてしまった。


ジジっと、溜まった煙草の灰が零れそうになり、思わずハッとして我に返る。


僕は 何とか立ち上がると、フラフラとしながらアパートの外に出た。


暗がりから出たせいか、外の日差しがやけに眩しい。


正面を見ると、向かいの堀から覗く七夕の笹が、短冊と共に風に揺らいだ。


蒸すような熱気が、一瞬だけ和らいだ気がした。


ふと、胸ポケットにしまった煙草を取り出す。


「切れた……か、コンビニでも行くかな……」


そう呟くと同時に、僕の頭に先程の光景が頭に浮かんだ。


「メンソール、やめようかな……」


煙草の箱を手の中で丸めると、僕はコンビニへと足早に向かった。


─了─

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