第120話 ちょっと心配しちゃったよ
「来ちゃった」
と言う、まるで無垢を装う悪魔のような悩ましい声が、すぐ背後からした。
ぎゅうっと腹を締め付けてくるほっそりとした白い腕に、ふわりと漂うバラのような香り。むぎゅっと背中に密着させてくる柔らかな感触は微塵の躊躇もなく、もはや俺を試すかの如く、悪意さえ感じる大胆さだ。
また……俺をからかおうとしているな。そうはいくか、と奮起しても、振り返った顔が赤らんでいるのは情けないほどはっきりと分かった。
「いきなり、何するんですか、蘭香さん!?」
「ご挨拶」
にんまりと浮かべるその笑みは、妖艶という言葉がよく似合う。肩までの茶色い髪は、以前よりも赤みがかって、活発な印象が強くなっていた。聡明そうな顔立ちも、儚げな下がり眉も、気品を漂わせる形の良い唇も、よく似ているのに――舐めるような視線の動かし方といい、ふっと目を細める仕草といい、唇の口角の上げ方といい、全ての所作が艶かしくて……純真無垢がヴェールを纏って恥じらっているような印貴とはまるで正反対。会うたび、姉妹でここまで違うものか、といつも驚かされる。
「顔が真っ赤だよ、圭くん。もしかして……印貴かと思っちゃった?」
「思いませんよ! こんなことしてくるの、蘭香さんだけですから!」
クスクス笑って、「ごめん、ごめん」と身体を離す蘭香さんに反省の色は全くない。それどころか、ものすごく楽しそうだ……。
たまらず、俺は蘭香さんの隣に佇む人物を睨みつけた。
「いいんですか、トキオさんは!?」
弥勒菩薩かな? なんて思ってしまう、煌々と包み込むようなオーラを放ちながら、トキオさんは右手を上げてニコリと微笑む。
「蘭香は自由なところがまた可愛いんだ」
まあ、そういうこと言うだろうな、とは思ってたけど。
聞いた俺がバカだった。
やるせない脱力感に襲われて、俺は閉口した。
――と、蘭香さんはふいにひょいっと俺の後ろを覗き込むように頭を傾け、
「こんにちは。映研の子かな? 妹がお世話になりましたー。瀬良蘭香です」
「え、妹……瀬良って……」
背後で戸惑う声がして、そうだった、と俺は慌てて振り返った。
「万里は初対面か。悪い」言ってから、ちらりと蘭香さんとトキオさんを視線で指し示す。「――印貴のお姉さんと……多分、彼氏の我妻時臣さん」
「多分?」と眉をひそめる万里に、俺はそれ以上の説明を苦笑いで省いた。無理だとは思うが、察してくれ……。面倒臭いんだ、この人たち。
「そういえば……お姉さんがいるって、印貴ちゃんから聞いたことあるかも。言われてみたら……本当だ、どことなく似てる気がする」
じっと蘭香さんを見つめる万里の表情は少し和らいでいた。それでも、初対面で緊張しているのだろう、まだ固さは残っているが……さっきの、苦しげな面持ちではなくなっていて、ホッとした。
なんだったんだろうな……あれは? 話も途中で急に黙り込んで。万里らしくない、見たこともない顔だった。ぐっと何かを堪えているような……。なんの話をしていたんだっけ? 蘭香さんがタックルのごとき抱擁で襲いかかってくる寸前、万里は――。
「あ、そうだ」と、万里が思い出したように声を上げ、俺ははっと我に返った。「私、乃木です。乃木万里です。映研の二年で……」
「やっぱり!?」
万里が言い終わらぬうちに、突然、蘭香さんは興奮もあらわに声を弾ませた。
やっぱり……て?
「圭くんの幼馴染の万里ちゃんね! 印貴に聞いてるよ。仲良くしてもらってるみたいでありがとう。いろいろ相談も乗ってもらってるみたいで……。面倒臭い子だけど、これからもよろしくね」
「あ、いえ、こちらこそ、仲良くしてもらって……」
恐縮しているのか、徐々に声をしぼませる万里。うつむいた表情は心なしか気まずそうで……。初対面とはいえ、人懐っこくて誰とでもすぐ打ち解ける万里が、こんな居心地悪そうにしているのはおかしい。やっぱり、万里の様子が変だ。
胸騒ぎを覚えつつ、万里の様子を伺うようにじっと見つめていると、つんと腕を突つかれた。
「通りで仲良さそうだったわけね、君たち」振り返れば、蘭香さんがどこか安堵したように微笑んで、俺を見上げていた。印貴そっくりの、心まで覗き込まれてしまいそうな澄んだ瞳で……。「よかった、よかった。ちょっと心配しちゃったよ」
心配……?
なにを――と問いかけようとしたとき、
「中はもう入っていいのかな?」
トキオさんがちらりと視聴覚室のほうを一瞥して、穏やかな声でそう訊ねてきた。
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