第114話 わがまま――みたいな

「あ」と静まったケータイを見下ろす瀬良さんの顔が、ショックそうに見えてしまって……。


 なんだろう、胸の奥が気持ち悪い。


「電話さ、もう無視していいんじゃない?」


 気づいたら、そんなことを言い出していた。


「なんで……?」

「なんでって……しつこく迫られて、困ってる、て聞いたから……」


 あまりに瀬良さんがきょとんと不思議そうにしてるから、違うの? て聞きそうになってしまった。

 疑ってるわけではないんだ。瀬良さんが俺を信じてくれてるように、俺だって瀬良さんを信じてる。こんなにまっすぐに俺を想ってくれてる瀬良さんが、隠れてやましいことをしているなんてあるはずもない。一抹の不安を覚えることさえ、こんな瀬良さんをこの世に創り出してくれた神への冒涜、罰当たりというもの。

 分かってる。分かってるんだけど……。

 じゃあ、なんで……て、ひっかかってしまう。早見先輩の言葉が、呪いのようにつきまとって離れないんだ。なんで、永作まで知らないわけ――て、早見先輩がさらりと放った一言が棘のように胸の奥に突っかかって、残っている。

 浮気してるとか、そんなんじゃないのは分かってる。でも、じゃあ、なんで俺に何も言ってくれないんだろう、と思わずにはいられない。万里には相談していたみたいなのに。俺には言えないことでもあるんじゃないか、なんて考え出したら、腹の奥がぞわぞわしてきて……。


「――万里ちゃんでしょ」


 急に、困ったような声がして、俺ははっと我に返った。


「もう……そんなんじゃない、て言ったのになぁ。万里ちゃん、心配しすぎなんだから」

「どういう……ことでしょう……?」

「手、貸してただけなの」


 ひらりと右手の掌を俺に向け、瀬良さんは苦笑した。

 手を貸してただけって……? 無理やり、部活の手伝いをさせられていた……と、そういうこと? それで困ってた……て、つまり――。


「強制労働を強いられていたと!?」

「なんの話!? 労働……!? 違うよ、手相だよ。手相を見てもらってたの」

「は……?」と、すっとんきょうな声が溢れていた。


 なんて? 手相……?


「松江先輩の趣味なんだって。手相占い。だから、合宿の間、練習相手になってほしい、て言われて。毎晩、付き合ってたの」


 手相占いが趣味で……毎晩、手相占いに付き合うって――あれ、俺が穢れているだけなのか。怪しさ抜群なんだけど。


「つかぬことをお聞きしますが……どのような練習をされてたんでしょう?」

「どのようなって……」


 訝しげに小首を傾げてから、「あ」と瀬良さんは疑るように目を薄めて睨みつけてきた。


「永作くんも、変なこと考えてるでしょ。万里ちゃんといい……二人とも、手相占いをなんだと思ってるの?」


 腰に手をあて、不満げに言う瀬良さん。

 少なくとも、若い男女が夜な夜な二人きりでやるようなものではないと思っています。


「分かった。じゃあ、やって見せてあげる」


 自信たっぷりにそう言って、瀬良さんはおもむろにベッドに腰を下ろした。


「はい、ここ座って」と瀬良さんはぽんぽんと自分の隣を叩く。「で、手を貸してください」


 座って……て、もうすでに嫌な予感しかしないんだけど。

 言われた通りに瀬良さんの隣に座り、ためらいつつも手を差し出す。「どれどれ」とおどけたように言って、俺の手を取る瀬良さんの――距離! 膝は当たってるし、腕は重なりあって、擦れる肌の滑らかな感触がくすぐったいくらい。じっと俺の掌を見つめる瀬良さんの真剣な横顔はすぐそこにあって、ふわりと甘い香りが鼻腔を優しく撫でるように漂ってくる。そうして、「やっぱり、男の子だ。大きいね」なんてはにかみながら呟いて、くにくにと俺の手を揉みしだき、掌をつうっと指先でなぞって……。

 なんか……クラクラしてきた。おかしいな。急に、部屋熱くなった? 何なの、これ……? 俺の知ってる手相占いと全然違うんだけど!? 


「分かった」と、急に嬉しそうに言って、瀬良さんはにっと得意げに笑って俺を見上げてきた。「あなたの好きな人は……すぐそばにいます」


 すごい、正解――じゃなくて!


「こ……こんなこと、合宿場で先輩と二人きりでやってたの!?」

「大丈夫だよ。ちゃんと練習の後で、サボってたわけじゃないから」

「さすが真面目だなぁ……って、そういうことじゃなくて……! い……嫌じゃなかったの!?」

「占い、私も好きだし、手を貸すだけだから。あ、でも……」と、思い出したように、瀬良さんは沈んだ声で切り出した。「練習に付き合うのはよかったんだけど、毎晩のように『違います』って言うのは心苦しくて。それで、万里ちゃんに相談したんだ」

「違います? 何が?」


 訊ねると、瀬良さんは「だって」と横目で俺をじっと見つめ、切なげに囁いた。「合宿の間、私の好きな人、すぐそばにいなかったもん」


 え……それって――。ドキリ、と胸が高鳴りかけて、すぐさま凍りつく。

 あの……瀬良さん? 『あなたの好きな人はすぐそばにいます』まで、完全再現だったの!? なんなの、その人。見た目は高三、中身は立派なセクハラ親父だよ。松江ぇ……! ていうか、よくも、毎晩、『違います』って言われながら、そんないろんな意味でベタベタなアプローチを貫き通したものだ。セクハラ親父もびっくりな打たれ強さだよ。

 しかし、だ。瀬良さん……いや、に疎いのは分かる。中学に入ってから高二に入るまで女子校で過ごして、思春期真っ盛りの男と接することなく過ごしてきたんだもんな。男の下心に鈍感、というか。こわいくらいに純粋なんだよな。そんな詐欺まがいの手口に引っかかってしまっても仕方ないというもの。蘭香さんも、いろいろと教えてはいるんだけど……と、心配していたくらいだし。――だからこそ、妹をよろしくね、て蘭香さんは俺に言ったんだ。

 こういうことがないように、俺が守らないといけないんだよな。


「あのさ……」


 改めて瀬良さんを見据えて、そう切り出し、俺はすぐに言葉に詰まった。 

 俺を見つめるその瞳は、全てを美しく映し出してしまうんだろうな、と思えるほど透き通って……為す術もない気がしてくる。なんだろう、この打ち負かされたような敗北感。

 いったい、どう瀬良さんに説明すればいいのか……。


「えっと……」たまらず、俺はがっくりと頭を垂らし、この言いようのない気持ちをひねり出すようにして口を開いた。「俺以外には……あんま、触らせないでほしい、ていうか……」


 何を言ってんだー!? て自分でも思ってしまうくらい恥ずかしいが……もうこれ以外に、なんて言ったらいいのか分からなかった。

 しばらく沈黙があってから、「あ、そっか」と素直に納得するような声がして、


「手だけなら握手みたいなものかな、て思っちゃってて……。でも……そうだよね、ごめんなさい」

「いや、謝るようなことじゃ……!」


 責めるような言い方になっちゃってた!? 慌てて顔を上げた俺だったが、


「なんか……嬉しいな」


 うっとりと目を細め、瀬良さんは噛みしめるようにぽつりと言った。

 嬉しい……の?


「初めて、そういうこと言ってくれた気がする」

「そういうことって……?」

「わがまま――みたいな」


 瀬良さんはふふっといたずらっぽく笑った。

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