第113話 なんで……知ってるの

 名前って……。思わず、口元が強張った。

 印貴――て呼べばいいだけなのに。万里には当然のようにしていることなのに。花音だって、今日だけで何回そう呼んだのか、すっかり慣れたのに。

 瀬良さんが相手だと、どうしてこんなにも躊躇ってしまうんだろう。なんで、こんなに緊張するんだ。

 名前を呼ぶだけのことなのに……。

 それだけ、俺にとって瀬良さんが特別ってことなんだろう、と思い知る。名前さえも大切にしたいと思ってしまう。軽々しく呼ぶことに抵抗を感じてしまうほどに。

 固まる俺を訝しげにじっと見つめてから、瀬良さんはふいにむっとして小首を傾げた。ふわりと長い黒髪が揺れ、甘い香りが漂う。


「名前、忘れちゃったかな? ずっと呼んでくれなかったもんね。女神みたいな名前だ、て言ってくれたのに」


 もちろん、覚えている。

 忘れるわけない。名前どころか、初めて会ったときのこと、昨日のことのように思い出せるんだ。こうして向かい合うだけで、あの日の……出会った日、雪のように彼女の周りで舞っていた桜の花びらまで目に浮かぶよう。

 セラインキ――と彼女はあの日、名乗って、俺は女神みたいな名前だ、と思った。眩いほどのオーラを羽衣のように纏い、ふわりと柔らかな空気を漂わせた彼女は、今にも飛びだってしまいそうで。まさにその名の通り、女神のように見えた。

 そんな彼女が、今、目の前で子供みたいにいじけた顔で拗ねてるなんて……。

 鳩尾にむずかゆさを覚えて、ついにやけてしまう。――すっかり女神には見えないその姿が、今はなにより愛おしいんだ。

 そっぽを向きつつ、待ち遠しそうにチラチラとこちらを見てくる瀬良さんに、俺は「ごめん」と気を取り直し、すっと息を吸った。


「印……」


 意を決して、言いかけたそのとき。ブーっとけたたましく震える音が部屋中に響いて、俺も瀬良さんもハッとしてそちらを振り返った。

 窓際のデスクの上でのたうち回るように振動するそれは……瀬良さんのケータイ?

 俺とケータイを見比べるように逡巡してから、「ごめんね」と瀬良さんは身を翻してケータイを取りに行った。

 肩透かしというか。一気に緊張が抜けて、惚けてしまった。

 どうしよう……余計に、呼びづらくなってしまったような? これ……どんなタイミングで呼べばいいんだ? 仕切り直すの? それとも、さらっと呼び始めたらいいのか? どちらにしろ、すごい不自然になりそうなんだが。

 そんなことを一人で考え悶える俺をよそに、瀬良さんはケータイを手に取り、「あ」と動揺の声を漏らした。


「また、先輩だ……」

「先輩……?」

「うん。部活の先輩。昨日から何度も電話くれてたみたいなの。メールも来てたんだけど……直接話したいことがあるから、電話してほしい、て」

「それは……なんだか、しつこい先輩だね」


 ぞわっと胸の奥で黒い煙でも立ち上るような、そんな不快感に襲われた。


「急用かも。ちょっと、電話出てもいいかな?」


 申し訳なさそうに訊ねてくる瀬良さんに、どうぞ、お構いなく――と、言うべきところなのに。何かがそれを喉の奥に押し留めていた。代わりに、


「もしかして、松江先輩……?」


 と、疑るような声が転がり出ていた。

 ケータイの明かりに照らされて、瀬良さんのハッと驚く顔が暗がりに浮かび上がる。


「なんで……知ってるの、松江先輩のこと?」


 やっぱり、そうなのか――!

 俺が愕然としている間に、瀬良さんの手の中でしつこく震え続けていた電話がはたりと止まった。

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