第112話 やましいですね……

 一瞬にして血の気が引いて、体が凍りついたように固まった。

 相葉さんの香り……て言った? 誰が……? え……俺が!?


「な……なんで……え!?」

「今日……ずっと、相葉さんと一緒にいたんだよね」

「いました……けども」


 これが、俗に言う女の勘ってやつなのか? 女の子って……匂いだけで誰といたかまで分かっちゃうの!? す……すごくね?

 って、いや、感心してる場合じゃなくて。


「あの、違うんです!」

「何が違うんですか?」

 

 ムッとした瀬良さんの声も可愛いんだが……。瀬良さん、ちょっと……本当に苦しい。締め付け方がハグのレベルじゃなくなってるんですが。


「何もやましいことはなくてですね……いろいろあって、一緒に出かけることになりまして」

「プロポーズはやましくないんですか?」

「やましいですね……」


 有罪確定だ。

 プロポーズ――その一言で、ああ、そうだった、と思い出す。すっかり忘れていた。今や俺は、瀬良さんが好きな『噂の彼』で、花音の『フィアンセ』なんだよな。もちろん、噂の上では……だけど。

 匂いだけで誰と一緒にいたか、なんて分かるわけもないだろう、と我ながら呆れてしまった。呑気というか、愚鈍というか。きっと……こういうとこなんだろうな。瀬良さんを不安にさせてきたのは……。


「聞いた……んだ?」


 おずおずと訊ねると、背中越しにコクンと頷くのが分かった。


「さっき、タクシーの中でケータイチェックしたら、学校の友達からたくさんメール来てて……」

「あ……」


 駅からのタクシーの中、狭い後部座席で何故か俺たちの間に陣取った我妻さんの向こうで、そういえば、瀬良さんは難しい顔でケータイを見ていた。延々と我妻さんに質問攻めされ、気にしている余裕もなく、家についてしまったが……そうか、あのときか。


「いっぱい、慰められちゃった」


 寂しげに言われ、ぐっと胸が痛くなる。

 慰められちゃった……のか。そうだよな、まだ、学校の皆の認識は、俺が『瀬良さんの想い人』で、その俺が花音にプロポーズしたとなれば、自然と瀬良さんが振られたことになるわけだ。

 そういえば、小日向さんのクラスのグループチャットでも、話題になってたんだもんな。瀬良さんが俺に振られた、て……。

 ああ、なんて風評被害。俺の軽率な行動で、また瀬良さんの株を下げることになってしまったのか……?


「あと」と、困惑気味に瀬良さんは続けた。「早見先輩が……永作くんが相葉さんと、不特定多数がいる暗闇の密閉空間に入って、二人で仲良く興奮してた……て」

「それは世間一般では映画館と言います」


 早見先輩……! 偏向報道にもほどがある。誤解を招くような行動は慎むことね――てお説教はなんだったの? おもしろがってるのか? 

 いや、もう早見先輩のことを考えても無駄だ。あの人の狙いなんて分かるわけがない。それよりも――。


「ごめん、噂のこと……会ってすぐに伝えるべきだった」


 ぐっと拳を握りしめ、俺は力強く言った。

 そうだ、決めたじゃないか。話す、て。誰が何を言おうが、誤解は俺が解けばいいだけだ。


「プロポーズとか、全部、デタラメで勘違いなんだ。今日、花音に会ったのも、その噂のことを直接、謝りたかっただけで。そしたら、偶然、モールで先輩たちに会って、流れで映画に行くことになった、てだけで……」

「うん――分かってる」

「へ……」


 分かってたの?


「きっと、そういうことだろうな、て思ってた。永作くん、浮気なんてするような人じゃないって分かってる」

「そっか……」


 ありがとう、とでも言えばいいんだろうか。しかし、なんだろう、引っかかる。全然、すっきりしない。

 そんな信用してくれて、嬉しい……はずなのに。素直にホッとできなかった。

 しがみつくように抱きしめてくるその手は、俺の体を離すどころか、ぴくりとも緩む気配がなくて。納得できてないのは、文字通り痛いほど伝わってきた。


「顔見て、話したいんだけど……」


 ぽつりと言うと、「だめ」と頼りない声がする。


「今、きっと、嫌な顔してるから……」

「嫌な顔?」


 嫌な顔って、どんな顔だ? てか、瀬良さんならどんな顔でも見たいと思ってしまうんだけど。


「浮気じゃない、て分かってるけど……相葉さんのこと、いいなぁ、て思っちゃうの。私ともそういうことしてほしいな、て……嫉妬、なのかな。ごめんね、私、ほんと面倒くさくて……やだよね」


 しゅんと落ち込んだような切なげなその声に、もう我慢ならなかった。

 いやなわけないじゃないか。


「面倒くさくないんで!」俺は瀬良さんの手を振りほどくように無理やり身を翻し、瀬良さんと向かい合った。「むしろ、そういうとこもむちゃくちゃ可愛くて大好きです!」


 って……なにそれ!? 小学生の告白か。語彙力なさすぎる。

 アホ丸出しだよ。万里がここにいたら、たとえハイヒールだろうと構わず、履いていたものを脱いで俺の頭に思いっきり叩きつけていただろう。

 でも……まあ、怪我の功名とでも言うべきか。

 瀬良さんはハッと目を見開いて、きょとんとしていた。長い睫毛はぱちくりと何度も重なり合って、頰はみるみるうちに鮮やかな朱色に染まっていく。暗がりに星でも詰めたように煌めく澄んだ瞳はまっすぐに俺を見つめ、口元はポカンと開けて固まっていた。

 呆気にとられた表情――を絵に描いたような。そんな彼女の表情に、ふっと笑みがこぼれる。ほらな……やっぱり、可愛い、と思ってしまう。どんな表情でも……。


「瀬良さん――」と、恥ずかしさを堪え、俺は瀬良さんの目をしっかりと見つめ返した。「目が腫れてようが、クマがあろうが、『嫌な顔』してようが、俺は瀬良さんのどんな顔も見たいんだ。俺にだけ見せてほしいと思う……」


 そして、欲を言えば――いろんな顔をさせたい、とも思ってしまう。

 ごくりと生唾を飲み込む瀬良さんの喉の動きまで見えるようだった。

 初めてをください、と駅で迫ったあのときと同じくらい、瀬良さんが近くて……あのときとは違い、周りには誰もいない。

 ぽかんと開けた唇は無防備で妙に色っぽくて、吸い寄せられるように意識が持っていかれる。ほんのりと桃色に染まったそれは、ふっくらとして瑞々しくて……触れてみたいと無性に思ってしまう。一度は味わったはずのその感触を、今度はしっかり確かめたくて――。


「瀬良さん……」


 そっと顔を寄せると、瀬良さんはびくっと身体を強張らせ、


「いや……」


 上目遣いでそう言った。

 って……いや? 厭……!? ああ、そりゃそうだよね!? 瀬良さんにとっては初めてなんだし、大事にしてね、て言われたばかりで……! 何をやってんだ、俺は!? アホ丸出しはまだしも、本能丸出しはダメだろ!


「ごめん」と身を引こうとしたときだった。


「名前で呼んでくれなきゃ……いや」


 恥じらうように頰を染め、いたずらっぽく瀬良さんは微笑んだ。

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