第八章

第111話 永作くん、いい匂いがする

「ごめんね、永作くん。荷物、部屋まで運んでもらっちゃって。重かったよね?」

「全然、平気だよ。駅からタクシーだったし。どこに置こうか?」

「じゃあ、こっちに……。ありがとう」


 夢以外で来るのは、もう一ヶ月半ぶりだろうか。

 キャリーバッグを隅に置いて、ふっと振り返る。窓側に置かれたデスクも、ガラスのローテーブルも、きっちりと整えられたベッドも……暗がりにぼんやり浮かぶ景色は、もはや懐かしい。

 瀬良さんの部屋だ。

 『夢にまで見た』……って、その言葉そのものので、気恥ずかしくなるくらいだった。部屋いっぱい瀬良さんの甘い香りが満ちて、すうっと息を吸うだけで心の中が満たされる。

 なんだろう。ようやくここに戻ってこれた……と感慨深いものすらあって、まるで一ヶ月半、長く険しい峠道でも走ってきたかのような気分だった。走ったことないけども。

 じーんとなんとも言えぬ感動に酔いしれ、感じ入っていると、


「疲れた……よね?」キャリーバッグを開けながら、瀬良さんは遠慮がちにクスリと笑った。「座って休んでて」

「あ……いや、疲れたわけじゃなくて……」


 瀬良さんの部屋の空気をじっくり味わっていただけです……なんて、さすがに気持ち悪いよな。トキオみたい――と引き気味に言う蘭香さんの言葉が脳裏をよぎった。

 いや、まあ……正直、我妻さんくらい突き抜けてしまえばいいのかもしれないが。俺はまだ、あそこまで堂々とできない。こうして、瀬良さんの部屋に来ただけで、すっかり萎縮してしまう。休んでて、と言われても、ふんぞり返れるほどの度胸も余裕もない。瀬良さんに場所を譲るようにキャリーバッグから後退り、まるで警備員かのごとく、かっちりと固まってそこに佇むのみ。

 だって、仕方ないだろう。彼女、なんだ。彼女の部屋……なんだ。前来たときは、まだ付き合ってもいなかったから。付き合い始めて、初めての瀬良さんの部屋で……やっと、二人きり――。

 意識すると、緊張が一気に込み上げてきた。


「あの、俺……何か手伝うよ、荷解きとか!」居てもたってもいられず、そうだ、と俺は電気のスイッチを探した。「もう暗いし、電気点けようか。荷物、見えないよね」


 もう七時を過ぎ、いくら夏で日が長いとはいえ、さすがに電気が無いと薄暗い。

 ドアの脇にスイッチを見つけて、身を翻した――そのときだった。

 ふわっと風を感じた。柔らかで、優しい風に、身を押されたような、そんな感覚だった。思わず、ぐらついた俺の身体に、背後から何かが巻きついてきた。脇腹をするりと滑るようにして絡みついてきたそれは、薄明かりに輝くような白く滑らかな腕で……。

 腹を締め付けられているせいなのか、それとも、背中に感じるそのぬくもりのせいなのか、ぐっと胸の奥が押し上げられるような息苦しさに襲われた。


「点けないで」と、震えた声が背中をくすぐる。「はずかしいから……」


 声が、出なかった。自分が息をしているのかどうかさえ、分からなくなっていた。

 ああ、まずい……と恐いくらいの焦りが募る。背中から伝わる生々しい感触が、そこにじんわりとこもっていく熱が、俺の中の何かを麻痺させていくようで……。


「やっと……二人きり、だね」


 彼女の熱い吐息が、シャツを通して背中に伝わってくる。

 得体の知れない高揚感が身のうちで膨らんでいくのを感じていた。それを抑え込もうにも、どうしたらいいのかも分からない。込み上げてくる熱に今にも呑み込まれそうで……。爆発しそうな何かを腹の底に感じながら、ただひたすらに耐えていた。


「永作くん、いい匂いがする」


 恐る恐る、不安げにそう言って、さらにきつく抱きついてくるその腕が、狂おしいほどに愛おしい。胸の奥でガタガタと今にも外れそうな箍が震える音が聞こえてくるようだった。

 その手を振りほどき、振り返りたくてたまらない。身体が、を待っているかのようにうずうずとしているのを感じる。振り返って、もっと、その香りを、感触を、ぬくもりを――彼女の全てを味わいたいと思ってしまう。

 覚悟を決めたようで、諦めたような、そんな熱っぽいため息が漏れていた。

 ああ、もう我慢できそうにない。


「瀬良さん――!」


 と、振り返ろうとしたとき、


「これ、相葉さんの香りなのかな……」

 

 ん……!? なんて……?

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