第110話 そのつもりだよ

「わ……え……」


 なんだろう、ものすごい恥ずかしいんだが。直接、そんなことを聞かれるなんて思ってもいなかったから。しかも、このタイミングで……!?

 すっかり虚を突かれ、言葉に詰まる俺に、くんと小首を傾げ、返事を促すような微笑を浮かべる瀬良さん。控えめながらも、明らかに何かを期待しているようなその熱い眼差しに、今にも身が焦がされそうで、たまらず俺は顔を逸らしていた。


「ええっと……」


 いや、まあ……何ももったいぶるようなものでもないんだけど。俺の恋愛遍歴なんて。――だからこそ、瀬良さんに聞かれるなんて、思ってもいなかったわけで。


「それは……最近……っすね」


 ああ、これはこれで羞恥プレイのような。恥ずかしすぎて震える!?

 ありえないよな。今まで、彼女どころか恋愛さえしたことなかった、という恐ろしい事実。高二の夏に初恋って……遅すぎだよな。どんだけ、色恋沙汰に縁遠かったんだ、ていう……。改めて、哀しくなる。

 興味がなかったわけじゃないんだが、気づけば青春も終わりかけに近づいていたんだ。

 そんなとき、瀬良さんと出会って――。


「じゃあ、一緒だね」


 ふふ、と照れたように笑う声がした。

 一緒……?

 おずおずと振り返ると、


「嬉しいな」と、髪を耳にかけ、瀬良さんはふわりと微笑んだ。「お互い、いろいろ初めてってことだよね」

「はい……」


 ああ、だめだ。

 あまりに……あまりに瀬良さんが可憐でいじらしくて。深みのあるその瞳にじっと見つめられると、もうダメなんだ。魂まで吸い込まれてしまうように腑抜けてしまう。儚い花のように、恥じらいつつも頰を染め、どこか戸惑いがちに浮かべるその笑みを前にしたら、言葉なんて吹っ飛んでしまって何も言えなくなる。代わりに込み上げてくる得体の知れない衝動に、恐怖さえ覚えて立ち竦んでしまう。

 摘んではいけない花を前に、その香りに抗えず、今にも手を伸ばしてしまいそうな、そんなギリギリな危うさに襲われて……とはいえ――『はい』はないよな!?

 そんな返事ある? 出席取ってるんじゃないんだから!? もうちょっとマシな返しできてもいいよな? なんで、俺はこう大事なときに全然決まらないんだ?

 己の不甲斐なさに苦悶している間に、「ちょっと安心しちゃった」と瀬良さんはふいっと顔を背けて歩き出していた。


「きっと……永作くんには初恋の人がいるんだろうな、て思ってたから」と、無理したように明るく取り繕った声で瀬良さんは続けた。「トキオちゃんみたいに永作くんもずっと引きずってて、実は気づいてないだけだったりするのかなーなんて……ちょっと不安になったりしてた、かも」


 いきなり、ガツンと頭に岩でも落ちてきたような、そんな衝撃だった。

 なんで、そんな……無用な心配を!? 俺がいつ誰に初恋をするっていうんだ? 生まれてこのかた、仲良い女子なんて万里しかいなかったぞ。

 やはり、高二で初恋は遅すぎだからか? 瀬良さんと違って、俺はずっと共学で出会いはたんまり会ったわけだし、ありえない……と? 確かに、そうかもしれないけど――。


「瀬良さん!」と、俺は思わず、瀬良さんの手を取り、引き止めていた。「こんなに抱きしめたい、て思ったの、瀬良さんが初めてなんだ。遅すぎたかもしれないけど、これが俺の初恋で……ずっと、瀬良さんのために取っておいたと思えば、今までの青春に何も悔いはない。俺は瀬良さんだけでいい。だから、瀬良さんの初めても、全部、くださ――」


 ぱっちりとした目が、いつも以上に大きく見開かれて、俺を見つめていた。全ての真理を映し出すかのような、澄んだ輝きを放つ水晶玉のごとき瞳に、真剣な顔した自分がいて――あ、近……と気づく。

 いつのまに……。

 勢い余って、瀬良さんの両肩をしっかりと掴み、額が当たりそうなほど顔を近づけていた。

 現状を把握した途端、うわあああ、と胸の中が焼けるように熱くなって、身体中から一気に汗が噴き出してきた。

 また……やってしまった!? 俺、今、何言った!?

 ばっと両手を離して、「ごめん!」と飛び退く。つい熱くなって……今、とんでもないことを言ったような!?

 思わず、我妻さんは――? と、歩く自動恋文記録機スーパーコンピューターの姿を探すと、少し離れたところでまだ蘭香さんとモメていて、ひとまずホッと安堵した。

 しかし……幸か不幸か、本人にはしっかりと聞かれたわけで。

 今頃になって、ざわざわとあたりの喧騒がやたらと耳に付く。瀬良さんの顔も見れず、「また混んできたね!?」なんて上擦った声で言って、あたりを見回していると、


「そのつもりだよ」と、春風のごとく流れる涼やかな声が聞こえた。「全部、取ってあるから、大事にしてね。――キスも、全部」


 ハッとして振り返ると、瀬良さんは顔を隠すように俯いて「お姉ちゃんたち待ってるし、行こっか」と足早にその場を去っていった。

 ギクシャクとぎこちなく、蘭香さんのもとへと向かっていく瀬良さんの背中を呆然と眺めながら、ゴクリと生唾を飲み込んだ。

 胸の奥で、静かに、でも、確かに、鼓動が強く鳴り響いているのを感じた。

 そのつもりって……? キスも全部、初めてをくれる……て、それって――。


「あ……」


 その瞬間、思わず、声が出ていた。

 キス……が、初めて?

 ああ、そうだった、と昂ぶっていた気持ちがさあっと一気に冷めきった。

 キスは……もう、貰ってしまいました――なんて……言えねぇ!

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