第106話 トキオちゃんのばか!

 勢いに任せて言ったことを目の前で冷静に読み上げられるなんて……。なんの罰ゲーム!?

 あまりの恥ずかしさに、脳みそまで茹で上がってしまったみたいに頭がクラクラとした。言葉も出ずに、固まっていると、


「あれ? 何か違ったかな? 一度聞いたことは覚えられるはずなんだけど」


 癖っ毛をくしゃっと掻いて、照れたように笑う我妻さん。成熟した落ち着きの中にも、初々しい爽やかさがあって……中学のときの、教育実習できた先生を思い出した。人当たりがいい、てこういう人を言うんだろう。すごいですねーっとにこやかに言いそうになるが……いやいや。違うぞ。すごくないからね!? どんな素晴らしい才能も使い方を間違えば凶器と化すんだぞ。今時の小学生でも知ってるから。


「と……トキオちゃんのばか!」

「そう、それ! ば……」と、言いかけ、ぎょっとする。


 え……瀬良さん? 瀬良さんが『ばか』って言った!?


「なんで、その電話、取っちゃったの!?」


 見たことないほどむっとして、瀬良さんは我妻さんに詰め寄った。


「なんでって……『永作くん』って名前が出て、つい」

「つい、じゃないよ! なんで出ちゃうの!? もう……」しょんぼりとして、瀬良さんはケータイを胸に抱き、ぽつりと呟いた。「留守電に残しておきたかったのに。何万回でも一人で聞きたかったな……」


 鬼再生……!?

 骨抜き? イチコロ? ノックアウト? ガックリと膝をつきそうになった。

 ああ、それダメでしょう……反則だ。愛おしすぎて胸キュンどころじゃない。鳩尾にボディブローだよ。


「ああ、そうだよね!?」オーマイガ、とでも言いたげに額に手を置き、我妻さんは心底申し訳なさそうに顔をしかめた。「もう一回、言うから、ケータイで録音する?」


 もう一回!? 誰か止めて、この暴走蓄音機!


「それはダメだよ」


 だよね、瀬良さん!? よかった、とホッとしかけたのだが、


「永作くんじゃなきゃ意味ないもん」

「俺……!?」

「それもそうか」と、我妻さんは俺に振り返った。「じゃあ、永作くんにもう一度、電話してもらって留守電に残そうか」

「もう一度って……いや、留守電ってそういうもんじゃないですよね!?」


 っていうか、我妻さんみたいな規格外な特技があるわけじゃないんだ。同じことをもう一度言え、と言われても無理だ。そのときのテンションというのもあるし……。


「あのときは、その……すごい興奮してたし……実は、何言ったか、そこまで覚えてないっていうか……」

「それなら、僕が全文を書き出してメールしてあげよう」

「絶対、やめて!?」


 思わず、悲鳴のような声が飛び出していた。

 なんで、ついさっき会った人に恋文代筆みたいなことされなきゃいけないんだ!? しかも、それを自分で読み上げて、彼女の留守電にいれるとか。侍なら腹を切るレベルの羞恥プレイだよ。


「そんなに嫌なのか?」


 悪意なんて微塵も感じられない、我妻さんの真っ直ぐな目が責めるように見つめてくる。理解できないよ、ホワイ? と両手を広げて聞いてきそうな勢いだ。

 嫌なのか、て……そんなショックそうに聞かれてしまうと。瀬良さんの手前、何とも言えない。

 嫌じゃないけど……嫌だというか。なんと言えばいいんだ。


「永作くん……」


 隣でぽつりと寂しげな声がして、背筋がぞくりとした。

 あ、嫌な予感がする。

 おそるおそる見やれば、


「ダメ?」


 両手で大事そうにケータイを持ち、小首を傾げる瀬良さん。涙が残った潤んだ瞳で遠慮がちに俺を見上げ、きゅっと不安げに唇を引き結んで待つその様の……なんといじらしいこと。

 だめだ、もう……いろいろと限界だ。

 目元は少し赤くなって、たしかに、泣き明かした名残があった。瀬良さんは嫌がるかもしれないけど、それすらも愛おしく思えて……また無性に抱きしめたくなってしまった。

 おかしい。異常だ。

 瀬良さんがやたら可愛く見える。いや、可愛いのは知っていたし、周りがそれで騒ぎ立てていたのも分かってはいたけど。そういうのじゃなくて……。すごく幼く感じる、ていうか。普段、上質なベールを纏うかのように品の良さとか清廉さで隠している『何か』を、今、曝け出してくれているような……そんな感じだった。天使みたいだ、とかそんな印象が薄れて――なんだろう、ただただ純粋に、可愛くて……。

 たまらず、俺は顔を逸らしていた。


「ダメ……」なんて言えるわけがない。「ではないです」

「じゃあ、さっそく、メールに打ち出してあげよう」


 スマホを取り出し、書き出しを始めんとする記憶装置トキオちゃんに、辞世の句でも読もうかな、なんて覚悟を決めたとき、


「おーい、いつまでそこにいるのよ?」

 

 天の声!? いや、これは――。


「蘭香さん!」思わず、ばっと振り返り、俺は嬉々とした声を響かせていた。「おかえりなさい!」

「え、なに……どしたの、圭くん。そんなトキオみたいに……」


 蘭香さんはコンビニの袋を片手に歩み寄ってきて、訝しげに俺を見つめてきた。

 トキオみたいに――その言葉が、結構ぐさりと胸に突き刺さった。いや、我妻さんも悪い人ではないんだろうけど。蘭香さんも良い意味で言ったわけではないのはよく分かる。


「お菓子、買ってきたから」蘭香さんはコンビニの袋をひょいっと持ち上げ、気をとり直すようににこりと微笑んだ。「圭くんも今夜はうちおいで。迎えにきてくれたお礼するよ。――印貴が」

 

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