第107話 欲しいよね、圭くん?

「え……」


 つい、心がぐらついた。

 瀬良さんが……お家で、お礼……?

 って、いや。いかん。純粋極まりない言葉にまで、邪まな期待を抱いてしまうなんて……重症だ。「お礼は私」――なんて、妄想にしても陳腐すぎる。我ながら引くぞ。

 俺は咳払いをして、「お礼なんてお気遣いなく」と礼節に則って清く正しく丁重にお断りをしようとしたのだが、


「お礼なんて……どうしよう、何も用意してない」


 隣で深刻そうな瀬良さんの声がした。

 ハッとして振り返ると、瀬良さんは口許に手を置いて思いつめた表情を浮かべていた。


「そうだよね。荷物も運んでもらうのに……何もなしなんて……」

「え、いや……大丈夫ですよ、瀬良さん!? 気にしないで……」

「そーよ」と蘭香さんが軽い調子で俺の言葉を遮った。「大丈夫よ、印貴。ちゃんとあるじゃない、印貴が圭くんに捧げられるもの」


 さ……捧げる……!? なんですか、そのけったいな動詞!?

 思いっきり動揺してしまった俺に、蘭香さんはふっと妖しい微笑を浮かべた。聡明そうな顔つきは瀬良さんとよく似ているのに、化粧のせいもあるのか、蘭香さんのそれは艶っぽくて、謎めいた魅力がある。これを魔性――と言うならば、いとも簡単に俺は惑わされるだろう……。

 って、そんな笑みで……何を言うつもりですか!?


「印貴がずーっと大事に取っておいた、とっておきのやつ。欲しいよね、圭くん?」


 欲しがりません、勝つまでは――じゃなくて!


「な……何を、欲しいって……別に、何も欲しがってませんし……!?」

「私が……ずっと大事に取っておいた……とっておき?」


 瀬良さん!? 考え始めちゃってるし!?


「ほんと、瀬良さん、いいから! 気にしないで! てか、もう考えないでください!」

「あ」と瀬良さんはハッとして、顔を上げた。「昨日のちんすこう?」

「き……きのうのちんすこう?」


 思わず、聞き返して……え? ときょとんとしてしまった。きのうのちんすこうって……? 何かの呪文?

 すると、ぷっと噴き出す声がして、


「昨日のちんすこうって……! なんで、昨日のちんすこう、まだ持ってんのよ!?」

「だって……」と瀬良さんは顔を赤くして、爆笑している蘭香さんに言い返した。「昨日、食欲なかったし。でも、叔母さんがせっかく出してくれたのに、残すのも……」

「いや、そういう問題じゃないから! てか、昨日のちんすこうなんて捧げられても、圭くん、困るでしょ。どんだけ面倒くさいの、あんたは」


 ひとしきり笑ってから、涙をぬぐい、蘭香さんは申し訳なさそうに俺に微笑みかけてきた。


「ごめんね、圭くん。こんな彼女じゃ、いろいろと大変でしょう。とりあえず、今夜はちんすこうで我慢してあげて」

「え、いや……そんな、我慢なんて……なんのことか……!?」

「ちなみに、僕はお礼なんていらないからね、蘭香」


 それまで大人しかったその声が、突如として蘭香さんの背後から割って入ってきた。


「僕にとって、蘭香と逢えることが至高の悦びで、それに勝る褒美など存在しな――」

「さて、帰りましょうか」


 瀬良さんそっくりの気品溢れる笑みで、さらっと無視だよ。

 颯爽と身を翻して歩き出す蘭香さん。その傍らでスーツケースを引きながら、並んで歩く我妻さん。ガン無視されてもめげず……というか、顔色ひとつ変えずについていくその勇姿に、尊敬の念すら抱いた。

 そんな二人の後ろ姿を見つめて、ふと思い出したように俺は口を開いていた。


「そういえば……我妻さんって何者なの?」

「トキオちゃん?」


 歩き出していた瀬良さんは、え、と振り返ると、しばらく考え――懐かしむように微笑んだ。


「トキオちゃんは、お姉ちゃんの……初恋の人で、特別な元カレ、かな」

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