第104話 ごめん

「お、お姉ちゃん! しゃべりすぎ……」


 まだ顔を隠すように俯いたまま、瀬良さんは動揺もあらわに震えた声を上げた。しかし、蘭香さんはニヤニヤとして悪びれた様子もなく、


「じゃ、自分で話せば〜?」と軽く言い、俺の背後に――我妻さんにちらりと目配せして歩き出した。「トキオ、荷物お願いできる?」

「もちろんだよ、蘭香! そのために僕は生まれてきたんだ」

「そんな存在理由でいいの?」


 我妻さん、本気で言ってるんだろうな、とまだ挨拶を交わして一時間も経ってないのに分かってしまう信頼感というか、なんというか。

 そんな我妻さんの戯言も、さらりと流してしまえる蘭香さんの熟練感よ。付き合いの長さを感じさせるが……そういえば、この二人、どういう関係なんだ?


「あ、圭くん」


 すれ違いざま、蘭香さんは思い出したようにそっと俺の体に寄り添うように近づいて、囁きかけてきた。


「面倒くさい奴だけど……反省してるから。お手柔らかにね」


 お願い、とばかりに指先揃えて手のひらを広げ、蘭香さんはにこりと微笑む。愛くるしさたっぷり、ウインクでも飛ばしそうな笑みに、「はい!」と言う以外に応えようはなく……って、なにを!?

 なにを了解しちゃったんだ? なにを柔らかくすればいいの? 誰が反省してるって……? 面倒くさい奴といえば……思い当たるのは、我妻さんなんだけど。

 蘭香さんに聞き返そうにも、もうすでに去ったあと。意気揚々とスーツケースを引きずって歩く我妻さんと並ぶその背中は、さっさと出口に向かって遠くなっていく。

 前もこんなことあったような……と苦い気分になった。いい加減、勢いで返事をするのはやめよう。

 自省して、むうっと渋い顔を浮かべていると、


「あの……」


 ふと、そんな消え入りそうなか細い声が聞こえた。


「ごめんね」


 ごめんね……? え、と振り返れば、相変わらず、瀬良さんは顔を隠すように伏せていた。


「ごめんねって? あ……近づかないで、てやつ? 別に、謝ることじゃないよ。それより、目、腫れてるなら、早く冷やしたほうがいいよな? 荷物、持つから。とりあえず帰ろう」


 やっぱり、女の子はそういうの気にするんだなぁ。俺はどんな顔でも、瀬良さんの顔を見たいと……そう思ってしまうんだけど。それはやっぱり、無神経なのかな。

 とりあえず、嫌だというものを無理強いするものじゃない。見せたくないと言っているものを、無理に見ようとするなんて、スカートめくりと何ら変わらない行為だ。なるべく瀬良さんの顔を見ないように身を屈め、俺はキャリーケースを手に「行こっか」と踵を返した。

 ――が、数歩進んでも、返事どころか、後ろからついてくる気配もなく……あれ、と振り返れば、瀬良さんはまだぽつんと改札前で立っていた。


「どうか……した? 足、痛むとか?」


 すると、瀬良さんは首を横に振り、「怒ってないの?」と弱々しい声で訊ねてきた。


「怒って……ませんよ?」


 近付かないで、て言われたとき、そんなに俺……ショックそうな顔してた? いや、まあ、ショックだったけども。こんなに怯えさせるほど、顔に出てたの? 器小さっ……!


「瀬良さん、ほんと気にしないでいいから。そんなことより、早く帰って休みましょう。すごい疲れてるみたいだし……」

「昨日、ひどい別れ方しちゃったから……怒ってるかと思ってたの」


 無理して絞り出したような声で、瀬良さんは俺の言葉を遮った。

 ああ――そういえば……俺が怒ってるかもしれない、て不安で瀬良さんは泣いてた、て蘭香さんも言ってたな。目が腫れてしまったのも、そのせいだって……。

 『ごめんね』って、そっちか!?


「いや、そんな、全然……! てか、俺のほうこそ……」

「これから会えなくなっちゃうから、ちょっとでも近寄りたいと思っちゃって。だから、部屋まで押しかけて……。そういうことじゃないのにね?」

 

 瀬良さんは自嘲するように鼻で笑ってそうつぶやいて、両手で顔を覆った。


「なんか、焦ってた……。付き合いだしても、あんまり会えなくて……距離が全然縮まる感じがしなくて……いつも、壁の向こう側で。永作くん、本当は私に興味ないのかな、とか思ったら……これで二週間も離れちゃったらどうなるんだろう、て不安になっちゃって」


 どんどんと熱を帯びて涙声になっていくその声に、俺は呆然として聞き入っていた。 

 知らなかった――。

 『恋人らしいこと』……瀬良さんのその言葉の重みを、ようやく理解して、胸が押しつぶされそうになった。

 隣の家で、壁一枚隔てて傍にいられる。それだけで、俺にとっては幸せに思えていたから……会いたい――その一言さえ、俺、瀬良さんに言ったこともなかったんだ。それが、こんなに瀬良さんを悩ませていたなんて、思ってもいなかった。


「だからって、あんなひどい態度取っちゃって最低だよね。勝手に押しかけて、無理やり、気持ちを押し付けるようなことして、一人で拗ねて……。そんなことするつもりじゃなかったのに……。私……永作くんといると、失敗ばっかりだ。思ってもいないこと言ったり、子供みたいにムキになったり。嫌なとこばっかり見せちゃう。せっかく、好きになってもらったのに……こんな面倒くさい女だと思わなかった、て後悔されてるんじゃないか、て怖くて――」


 脊髄反射――ていうものだったんだろうか。

 ビリッて電流が流れたみたいな。突然、体が動いていた。気づけば、瀬良さんに駆け寄って、その身体を力一杯胸の中に押し込めるように抱きしめていた。

 恥ずかしさとか、憤りとか、悦びとか……そんなのは後ででいい。今は――伝えなきゃ、て、その衝動だけで動いていた。

 言いたいことがたくさんあった。謝らなきゃいけないことが山ほどあった。でも、今なら分かる。そのどれもが見当違いだったんだ。

 

「ごめん、瀬良さん。――不安にさせて、ごめん」


 そう耳元で囁くと、胸の中でこわばっていた瀬良さんの身体からすうっと力が抜けていくのが伝わってきた。

 全てを預けるように俺に任せてくるその華奢な身体が、たまらなく愛おしい。もっと強く抱きしめたい、もう離したくない、と……次から次へと欲が湧いてくる。

 

「永作くん……」と熱っぽく苦しげな声がして、胸の中で瀬良さんが顔を上げる気配がした――そのときだった。


「良かった!」


 突然、そんな声が横から飛んできて、ぎょっとして振り返れば、


「ブラボー、永作くん!」


 ウンウンと頷き、スーツケースを傍らにパチパチと拍手をしている我妻さんが。

 その瞬間――まるで頭突きでもされたかのように、一気に現実に引き戻された。

 ラッシュが過ぎて、行き交う人も減ったとはいえ、ここは改札前であり、公衆の面前であることに変わりない。我に返れば、通り過ぎる人たちが、なんだなんだ、とこちらをジロジロ見ていた。我妻さんにつられて、社交辞令全開で拍手していく気の良さそうな通行人もいたりして……。

 かあっと腹の底から耳まで焼けるように熱くなって、俺はとっさに瀬良さんから離れた。


「お兄ちゃんも嬉しいよ」


 決して、からかうような口ぶりでもなく、ぐっと感動を噛みしめるように隣で我妻さんは声高らかにそう言った。

 誰が、お兄ちゃんだ!? ――っていうか……結局、この人って何者なんだ!?

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