第103話 近付かないで!

 蘭香って――そうだ、この声、蘭香さん……!?

 ばっと見やれば、ゴロゴロと大きなスーツケースを引きずって、改札から出てくる女性が。チューブトップを着て露わになった肩はぜえぜえと上下に揺れ、赤みがかった茶色い髪がしっとりと汗に濡れた頬に張り付いている。ほっそりとした顔は、もはやげっそりとして、ショートパンツから伸びる細い脚は、生まれたての小鹿のようにヨタヨタとしておぼつかない。

 ものすごく……疲れてる。

 その華奢な身体は今にも倒れてしまいそうで、思わず駆け寄ろうとした俺の目の前を大きな影がさあっと横切った。 


「大丈夫、蘭香!? 長旅、お疲れ様」


 蘭香さんのもとへと我先にと駆け寄る我妻さんの軽やかなステップたるや。ラテンダンスを彷彿とさせる華麗な足さばき……。

 って、いや、我妻さんのステップに感心してる場合じゃない!

 なんで……蘭香さんがここにいるんだ? 沖縄は……? もう帰ってきたのか? 帰ってくるの、二週間後だったはずじゃ……。何があったんだ?

 瀬良さんは――?

 ざわっと胸騒ぎのようなものがした、そのときだった。

 我妻さんに荷物を持ってもらって、ふらふらとしながらも歩き出した蘭香さん。その背後で、改札を抜けて現れたのは……。

 景色のすべてが色を失って、雑音が遠のいていくようだった。色も音もない世界で――まるで真っ白なキャンバスの上で、彼女だけが色鮮やかに描かれているような。

 砂のような白い肌に、澄んだ海を思わせる水色のワンピース。さらさらとなびく髪は墨汁で描いたように黒く艶やかで……。

 思わず、息を呑む。

 目を奪われる、とか、心を掴まれる、とか……こういう瞬間を言うのだろうか。

 キャリーケースを引きずって出てきた彼女は、こちらを見ると、どこかホッとしたように表情を和らげた。疲れ果てた顔に浮かび上がったその表情は、『笑み』と言うには力なく、今にも泣き出しそうな儚さがあって……胸を思いっきり搔っ切られるような痛みが走った。

 いてもたってもいられず、俺は駆け出していた。

 蘭香さんに挨拶する余裕もなかった。なにやら我妻さんと言い合いをしている蘭香さんの横を素通りし、俺は瀬良さんのもとへと駆け寄って――、


「瀬良さ……!」

「ダメ!」と突然、瀬良さんは俺を止めるように両手を上げ、顔を背けた。「近付かないで!」

「え……?」


 えええええ!? ち、近付かないで……!?

 いや、そんな……? そんなわけないよね? 瀬良さんがそんなこと言うなんて……。


「なんで……永作くん、ここにいるの!?」

「なんでって……」


 いや、こちらが聞きたいところなんだけども。なんで、ここにいるの? て。だって、沖縄にいるはずじゃ……。


「偶然、会ってね、僕が誘ったんだ」と背後からトンと俺の肩に手を乗せ、我妻さんが呑気な声で答えた。「印貴、驚くかなーて思って」


 そういえば――ここに呼び出されたとき、きっとびっくりするよ、て我妻さんに言われたんだった。俺じゃなくて、瀬良さんがびっくりする、て意味だったのか。まあ……俺もびっくりしたんだけども。

 しかし、だ。瀬良さんのこの反応は、驚く、というよりも……めちゃくちゃ嫌がってない!?

 瀬良さん……昨日のことで、実は相当怒ってるのか? そういえば、俺の謝罪メールもまだ読んでないんだもんな?

 そうだ、まずは謝らなきゃ。

 いざ、と気を引き締めて、頭を下げようかというとき。


「ごめんって、印貴」するりと俺の横を通り過ぎ、蘭香さんが瀬良さんの顔を覗き込んだ。「大丈夫、大丈夫。そんなにひどくないから。ちょっとからかっただけよ」


 なにやら慰めているが……なんなんだ?

 顔を伏せたままフルフルと首を横に振る瀬良さんに、蘭香さんは「仕方ないなー」と苦笑して、


「気にしないでね、圭くん」と俺に振り返った。「迎えに来てくれてありがとう。連絡したかったんだけど、圭くんの連絡先聞いてなかったし、お家の電話番号もケータイに登録してなかったから、どうしようもできなくて。知らせられなくてごめんね。トキオに伝言頼むのも危ないと思ったし」


 危ない――その表現がものすごくしっくりときた。お心遣い、ありがとうございます、と思わず言いそうになってしまった。

 いきなり、うちに現れ、「やあ、お兄ちゃんが伝言を届けに来たよ」と高らかな笑い声を上げて、家に上がりこんでくる様がありありと思い浮かぶ……。


「昨日、印貴が圭くん家から帰ってきて、すぐにタクシーで出かけたの。時間もギリギリだったから、ドタバタしちゃって。そのときに、この子、ケータイ落としたのね。忙しくて、荷物も多いときに、やたらとケータイいじってるから……」


 呆れたように言って、蘭香さんはじと目で瀬良さんを睨んだ。瀬良さんがみるみるうちにしゅんと縮んでいってるような……。


「タクシー乗ってる間も、ぼーっとしてて様子がおかしいなとは思ってたの。まさか、圭くんと喧嘩したとは思わなかったけど……。結局、空港着いてから、ケータイがないって気付いて大騒ぎ。ダメ元で電話したら、トキオが出て、とりあえずケータイは見つかったんだけど……」


 あ、と思って俺は我妻さんをちらりと見た。

 ちょうど、そのときだったんだな。昨日、俺が我妻さんと出くわしたのは。


「だからといって取りに帰るわけにもいかないからさ。叔母さんも待っててくれてるし、とりあえず、沖縄に行く事は行ったのよ。でも、印貴はずっと落ち込んでて、見るに堪えないっていうか。旅行どころじゃなくて……。叔母さんにも相談して、ケータイがないと不便だ、て親を説得して、二人で帰ってきたのよ」

「そう……だったんですか」


 じゃあ、昨日、沖縄に行って、今日帰ってきた――てこと? 弾丸旅行ってレベルじゃないぞ。もはや、旅行じゃない。まあ、叔母さんには会えたみたいだから、良かった……のか?


「ケータイなかったら、何かあったときに危ないですしね。緊急事態のときに助けも呼べないですし」


 この時代、ノーケータイ・ノーライフ。そうだよな、と納得しかけて――いや、と思い直す。その流れで、なんで『近付かないで』!?

 すると、クスクスと笑う蘭香さんの声が聞こえてきた。


「ほんと真面目だね、君は。ケータイはいわば、口実みたいなものでしょ」

「は……?」

「印貴ね、永作くんが怒ってるかも、て心配で昨夜も寝れなかったんだから。嫌われてたらどうしよう、て、さっきも電車の中で泣き出すし」からかうようにそう言って、蘭香さんはにんまりと微笑んだ。「おかげで、目は腫れてるし、クマもできちゃって。さっき、私がからかっちゃったから、余計にね――そんな顔、圭くんに見られたくないのよ」


 あ……それで、『近づかないで』……?

 納得……できるけど、なんだ、それ……。愛おしすぎる――!

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