第91話 浮気してるじゃん!

「も〜……」と花音はがくりと肩を落として、頭痛でもするかのようにこめかみをもんだ。「昨夜、散々、検索しちゃったんだからね! 『脈ありか 好きな人いて プロポーズ』って……バカみたい」

「いや、美しい一句で……」

「俳句じゃないし!」


 いじけた子供みたいにぷうっと頬を膨らまし、花音はくるりとこちらに背を向けた。


「つまり……あのときから両思いだったってことじゃん。なんか……一番、私が振り回されてない?」


 なにやらひとりごちてから――花音は深いため息をついた。いかっていた肩から力が抜け、くにゃりと頭が垂れる。まるでその華奢な身体から覇気といえるものが抜けていくのが目に見えるような……。


「花音……?」


 あの噂で余程心労をかけてしまっていたのだろうか。そこにきて、相談に乗ってもらったバスケの件まで誤解だったなんて分かったら……そりゃ、ガックリくるよね!?

 しゅんと一段と小さく見える背中に、「すみません」とあらためて謝りかけたとき、


「でも……うん、ホッとしたかも」と花音が晴れやかな声で切り出した。「あの言葉……嘘じゃなかった、てことだもんね」

「あの言葉?」

「ただ、瀬良さんと一緒にいれるだけで幸せ――て、圭、言ってたじゃん」


 ばっとこちらに振り返った花音の顔には、真夏の太陽の光さえ跳ね返すかのような――そんな向日葵みたいな溌剌とした笑顔が浮かんでいた。


「そんな風に瀬良さんのことが好きな圭を、いいな、て思ったんだ。だから、良かったの! 私の男を見る目もまだまだ捨てたもんじゃない、てことだもんね」


 腰に手をあてがって、自信満々に胸を張る花音。店の照明がスポットライトのように照らす中、どこか遠くを見つめるその瞳は爛々と輝き、白く滑らかな肌は一段と艶やかに見えた。まるで、クライマックスを迎えた舞台で、長台詞に備える主役のよう。周りでそれとなくこちらの様子を伺っている他の客たちが、今にも何食わぬ顔で花音を囲んで歌い出すんじゃ無いか、とさえ思えた。


「うん、そうだよ!」花音は片手に拳を握りしめ、自分に言い聞かせるような力強い声を響かせた。「幸せな恋をしてる二人がいるっていうのは……希望なんだ。私も、きっと出会える、て思える。浮気しない人に!」

「希望そこ!? いや、いますからね!? 結構、いますから、浮気しない人!」

「ええ? そう……?」と、放っといたら悲劇のヒロインになりかねない花音は困惑の表情で振り返った。「でも、今まで会った男子で浮気しなさそうなのって、圭くらい……」


 そこまで言ってから、花音は急に顔色を無くした。まさに、愕然――といった表情で、ムンクの叫びの如く、声にならない悲鳴をあげ、


「って、圭……浮気してるじゃん!」

「は……い? 俺が?」はは、と乾いた笑いが溢れてしまった。「いやいや……浮気なんてしたことないですよ。誰と浮気する、ていうんですか」

「私だよー! 君、絶賛、今、浮気中ー!」


 中国語? いや、え……? 花音と? 浮気? いつ、そんなことになったっけ?


「もー! 私、腕組んじゃったじゃん! 超べたべたしてたー! 誰かに見られてたらまずいよ。絶対、浮気だと思われる! 圭はなんでそんな平気な顔して……」

 

 ――と、取り乱していた花音が、ふいに、我に返ったようにはたりとして落ち着きを取り戻した。


「あ……そっか」と、てへ、とでも言いたげに恥ずかしそうに苦笑して、花音は肩を竦めた。「今日、私と会うこと、ちゃんと瀬良さんに言ってあるんだね。プロポーズの噂のことも、もう全部、説明してあって……」

「いや、何も言ってません」

「浮気じゃん!」


 今にも胸ぐら掴んで顔を引っ叩かん勢いで睨み付けてくる花音。確かに漂う鬼気迫る緊張感に、これが冗談とかではないのはしっかりと伝わって来るのだが……俺は全く実感も湧かずに、ポカンとしてしまった。


「これは、浮気……になるんですか?」

「なるよ! 彼女に黙って、他の女の子と出掛けちゃダメ」

「いや、でも……」

「でもも何もないの! 順序逆になっちゃったけど、仕方ない。今すぐ、瀬良さんに電話して事情を話して! 私も謝るから」

「いや、でも……」と、俺はポケットから出したケータイをちらりと見た。なんの通知もなく、秋田犬が舌を出しているだけの画面に、もはや驚きも落胆もなかった。やはり……と思うだけ。「瀬良さん、昨日から沖縄行ってて……連絡取ろうにも、ずっとメールも無視されてるんですよね。部活の先輩とは電話してるみたいだけど……」

「は……?」


 しばらくの間があってから、


「全然……幸せになってないじゃん!?」


 花音の責めるような声が、ポップな音楽流れる店内にこだました。

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