第六章
第87話 松江先輩、ダメです
ギシッと軋む音が頭上からした。ハッと目を覚ませば、真っ暗闇の中、俺はうつ伏せに倒れていた。
え、なんで? ここ、どこ!?
ぎょっとして顔を上げれば、がん、と頭が何かにぶつかった。なに、狭っ……!? と、首を捻って上を見上げ、そこで唐突に理解する。
ここ――ベッドの下?
いや、でもなんで……? なんで、急にベッドの下にいるの? 寝ぼけて落ちて、そのまま転がり込んだ? そんなこと、できる!? そもそも……これは俺のベッドなのか?
「どうかした?」
低い声が上から聞こえてきた。
俺ははっとして息を潜めた。ここが俺の部屋かどうかの確信も持てないまま、のこのこ出て行くのはいろいろと危険だ。俺の部屋だとしても、俺以外に誰かいるのはおかしい。どちらにしろ、状況が分かるまでは隠れているべきだろう。
とりあえず、この声の主が誰なのかを探って……と、耳を澄ませていると、
「何か物音がした気がして……」
不安げなその声に、思わず、声が出そうになった。
せ……瀬良さん!? あれ……もしかして、ここって……?
月明かりだろうか、おぼろげな光が差し込むほうへと視線を向け、よくよく目を凝らして見れば、ベッドと床との隙間の向こうに、見覚えのある柄のカーペットとローテーブルの足が見えた。
ああ、そうだ――と確信とともに懐かしさがこみ上げて胸が詰まった。すぐ、そこ……手を伸ばせば届きそうなその場所で、俺は瀬良さんと一緒に『あまのじゃくの恋』の台本を読んだんだ。
よかった、瀬良さんの部屋か。ほっと安堵して……て、いや!? と俺は叫びそうになった。
全然、よくないぞ!? なんで、俺は瀬良さんのベッドの下にいるんだ!? しかも、電気も消されたこの薄暗い部屋の中、瀬良さんの他に聞こえる声は……明らかに男の声だ。それも、どこか聞き覚えのある……。
「たしか、ご両親はまだ沖縄だろ? 帰ってきたのは、印貴とお姉さんだけ……じゃなかった?」
「うん。お姉ちゃんはバイトで、今は私と松江先輩しかいないはずなんですけど……」
そうだ、松江先輩だー!
なんで? なんで、松江先輩と二人きり(俺もいるけども)!? こんな暗がりの中、ベッドの上で何を……?
きゅ……弓道の練習かな!? そうだよね? 弓道部の先輩と後輩なんだし。松江先輩は主将って言ってたし、個人的に教えてもらいたいこともたくさんあるよね!?
でも……なんで、ベッドの上……? 弓道って寝技なんてあったっけ?
「あ……」と吐息のような瀬良さんの声が聞こえた。「松江先輩、ダメです」
「大丈夫、大事にするから。決して傷つけたりしないよ」
「でも……」
いやいやいや。待って待って。なにを始めようとしてんの……!?
身体中が火でもついたように熱い。心臓が焼けるようだ。絶望が死神のごとくひしひしと足元から忍び寄ってくるような……そんな恐怖にも似た焦りでどうにかなってしまいそうだった。
「もしかして」松江先輩がふいに、疑るような低い声で囁いた。「彼氏でもいる……とか?」
「それは――いません……」
ぐさりとナイフでも突き刺されたような衝撃が胸を貫く。
なんで……? なんで、瀬良さん? いるんだけど。彼氏、ベッドの下にいるんですけど!?
「じゃあ……いいよね?」
「そうですね」
そうですね!? いきなり、あっさり……!?
瀬良さん――と、たまらず叫ぼうにも、声が出なかった。咳払いさえ音にならない。
なんだ、これ? どうなってんの?
頭上からは衣摺れのような音と、交じり合う息遣いが聞こえてきて、ぞわっと鳥肌がたった。
とっさにベッドの下から這い出ようとした俺の足を、しかし、何かがガシッと掴んだ。ぎょっとして見れば、おしろいでも塗ったくったような真っ白な顔に、目の周りに黒々と大きな隈をつくった国平先輩が、真っ赤な全身タイツを着て俺の足を掴み、
「お前もNTRにしてやろうかー!?」
「いろいろ、混ざりすぎだー!?」
ようやく出た自分の声に驚くようにして、ハッと目を覚ませば、のどかな鳥の声と安穏とした日差しがあたりを包み込んでいた。真っ白な天井に、視界の端には見慣れたカーテン。
ホッとして……そして、同時に、なんとも消化しきれぬ想いが胃もたれのごとく胸につっかえているのを感じた。
「夢の完成度が……低すぎる」
もう津賀先輩にあーだこーだと意見もできないな、と鼻で笑いつつ、胸の上に置くようにして握りしめていたケータイの画面を確認する。
着信――なし。さっきの夢よりずっとホラーだよ。
徐々に目が覚めてきて、脳が働きだし……昨夜のことがはっきりと思い出されてきた。
結局、松江先輩に何も言えずに敗北感さえ覚えながら家に帰った俺は、悪い方へ悪い方へと思考を導く妄想と霊媒師のごとく格闘し、瀬良さんからの連絡を祈るような思いでただただ待ち続け、悶々としながら寝落ち。アラームをかけることさえ忘れて……と、その瞬間、背筋が凍るような嫌な予感がした。
とっさに飛び起き、再びケータイを見れば――。
「十二時四十五分……!?」
遅刻だわん、と秋田犬が呆れたように俺を見ている……気がした。
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