第86話 松江先輩……?
この人、今、瀬良さんと電話してる? つまり……瀬良さんは無事だってことで――ホッとして、腕から力が抜けてスマホを下ろしていた。
よかった……何かあったわけじゃないんだ。ただ、俺からのメールを無視してるだけで……て、ん?
いや、待て。
電波良好ってことは……ブロック確定!? ていうか、この人、誰!? 瀬良さん、俺のメールは読みもせず、誰と電話してんの!?
思い出したようにはっと目を見開き見つめる先で――俺の存在に気づいてもいないのだろう――こちらに背を向け、呑気な笑い声を響かせている男。瀬良さんを親しげに『印貴』と呼び、シェイクスピアばりに恥ずかしげもなく「愛」を語るこの人は、何者なんだ!?
「二週間も会えないなんて、僕が耐えられない。まだ飛行機、乗ってないんだろう? もう沖縄行くのはやめて帰ってきたらいいじゃないか」
え……ええええええ!? そんなこと言っちゃうの!? 言っていいの!? いろんな予定がキャンセルになるんだぞ!? 叔母さんだって、がっかりしちゃうよ!? いろいろと盲目すぎるだろう。シェイクスピアもびっくりだよ!
なんなんだ、この人? 瀬良さんの身内の方……じゃないよな、絶対に。
「印貴だって、僕たちはお似合いだ、てそう思うだろ? 赤い糸が絡まって、ちょっと解くのに時間がかかってるだけなんだ」
何を言ってんだー!? ダメだ、我慢できん。そんなに絡まってるなら、断ち切ってやろうじゃないか!
人の電話を立ち聞きしといて、文句を言える立場ではないのは分かっているが。
これ以上、もう堪えられん。こんなにしつこく迫られて、瀬良さんの困る顔がまざまざと目に浮かぶようで――と、一言言ってやろう、と踏み出した足がピタリと止まった。
しつこく迫る……男?
あ、と頭に浮かんだのは、ある名前だった。
「松江先輩……?」
ぽつりとそうつぶやいた俺の声などかき消す威勢のいい声で、「やっぱりそうだろう!?」と松江先輩と思しき男は言い放った。
「印貴もきっとそう思ってくれていると信じていたよ」
え……? そう思ってくれてるの!?
ぎょっとする俺をよそに、
「帰ってきたら教えて」と松江先輩は満足げに言って、歩き出していた。「いや、いいよ。僕の家までわざわざ来てもらうこともない。僕が会いに来る」
どういうこと? 会う約束してない? 俺も察しが良い方ではないし、電話の片方の話しか聞こえていないから推測の域を出ないけど……それでも、確定だよね!? 間違いようがないよな!? 帰ってきてから、家で会おうって話になってる。
「大丈夫、大事にするから。決して傷つけたりしないよ。うん――じゃあ、よろしく」
いやいや……なに? なにを言ってるんだ? なんで、話がまとまろうとしてんの!? 俺の頭は全くまとまってないんだけど!?
聞こえてくる言葉に、理解が追いつかなかった。ただ、一つだけ確かなのは……この人こそ、万里が言っていた松江先輩に違い無い、てことだ。合宿中、しつこく瀬良さんに迫って困らせていたという……その現場を、今まさに目撃したようなもの。犯罪なら現行犯逮捕ものだ。ここは、彼氏としてびしっと言っていいはず。
電話を切ってスマホをしまい、鼻歌交じりに去っていくその背中を呼び止め、「俺は瀬良さんの彼氏だ」と、そう言ってやればよかったのに。
瀬良さんは、どうなのかしら――と、つぶやく早見先輩の言葉が脳裏をよぎってしまった。
どす黒い影のようなものに覆われていくような……そんな得体の知れない不安に襲われて、俺はなにも言えずに立ち尽くした。
なんで……と、底の見えない泥沼のように暗く冷たい胸の奥から、ぽつりと疑問が湧いてくる。なんで――瀬良さんは松江先輩に俺と付き合ってることを言わないんだ? なんで、電話してたんだ? 何の話してたんだ? 沖縄から帰ってきたら、会うって……どういうこと?
瀬良さん……どうなってんの? なんで、連絡もしてくれないんだ?
赤々と焼けるような夕陽の中、遠ざかっていく松江先輩の背中を、俺はただ茫然と眺めていた。
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